中野初子(読み)なかの・はつね

朝日日本歴史人物事典 「中野初子」の解説

中野初子

没年:大正3.2.16(1914)
生年:安政6.1.5(1859.2.7)
明治時代の電気工学者。生家代々,肥前国(佐賀県)小城藩士。初子の日に生まれて初子郎と名づけられたが,のち初子とあらためた。長兄中野宗宏は初期の逓信官僚で,外信局次長を務めた。明治5(1872)年に初子は松浦郡経綸舎に入り,英学を学んだ。翌年,工部省電信寮出仕訳文係であった宗宏を頼って上京し,石丸安世(佐賀出身,初代電信頭)の塾に入った。7年に工部省工学寮小学校に入学し,さらに工部大学校に進学,わが国に電気工学を移植したお雇いイギリス人教師エアトンに学び,14年に卒業した。ただちに工部7等技手に任じられ,工部大学校教授補を兼ねた。21年からは米,英国に留学を命じられ,米国コーネル大学アーク灯について研究し,マスター・オブ・サイエンスの学位を受けた。 24年に帰国し,帝大工科大学教授となった。32年には,東京帝大総長推薦により工学博士号を授けられた。電気機械,高電圧送電,電気応用の開発や電気法規の整備に力を尽くした。28年に東京電燈会社は市内に散在していた発電所を集中する計画をたて,浅草発電所を建設することにした。新設6基のうち4基の200キロワット発電機は,中野が石川島造船所で製作させたもので,わが国最初の大容量機であった。なお,電気学会会長榎本武揚,林董貴族が務めていたが,44年の中野からは電気工学者が選出されるようになった。工部大学校電信科卒業生のうち中野,藤岡市助,浅野応輔をわが国電気工学を築いた三羽烏と称することがあるが,3人のうちで中野だけは終生大学にとどまって後進の育成に当たった。工部大学校で2年先輩の志田林三郎(日本人として最初の電気工学教授)も含めて佐賀県が電信,電気のパイオニアを輩出したことは,注目に値する。<参考文献>佐賀県学務部学務課編『佐賀県郷土教育資料集』,東京大学電気工学科同窓会編『諸先生のおもかげ(第1集)東大電気工学科の生いたち』

(高橋雄造)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

日本大百科全書(ニッポニカ) 「中野初子」の意味・わかりやすい解説

中野初子
なかのはつね
(1859―1914)

電気工学者。肥前国(佐賀県)佐賀藩士中野卜斎の次男。桜岡、新渓と号す。1885年(明治18)工部大学校を卒業、1886年帝国大学工科大学(現、東京大学工学部)助教授。1887年アメリカ、コーネル大学に留学、高圧電気工学の先駆者リャンはこのときの級友。1891年帰国し、同年帝大教授。工部大学校創立(1873)当初からのイギリス人教授エアトンに学び、在学中の1878年3月25日、工部大学校で開かれた中央電信局開局祝賀会でエアトンの指導の下、アーク灯を点灯、日本最初の点灯である。1894年石川島造船所(現、IHI)電気工場顧問として東京電燈(でんとう)(後の東京電力)浅草中央発電所の高圧単相交流発電機の設計を手がけ、日本の電気事業の足掛りをつくった。

[井原 聰]


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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「中野初子」の解説

中野初子 なかの-はつね

1859-1914 明治時代の電気工学者。
安政6年1月5日生まれ。工部大学校在学中,明治11年3月25日に教師エアトンの指導で藤岡市助らと日本初の電灯,アーク灯をともした。のちこの日が電気記念日となる。34年東京帝大教授。電気学会会長をつとめた。大正3年2月14日死去。56歳。肥前小城(おぎ)(佐賀県)出身。号は桜岡,新渓。

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