中江藤樹(読み)なかえとうじゅ

精選版 日本国語大辞典 「中江藤樹」の意味・読み・例文・類語

なかえ‐とうじゅ【中江藤樹】

江戸初期の儒者。近江国(滋賀県)の人。名は原、字は惟命(これなが)、通称与右衛門。始め伊予国(愛媛県)大洲藩に仕えたが、脱藩帰郷して村民を教化。王陽明知行合一説傾倒し、わが国陽明学の首唱者となる。後世近江聖人と称せられ、門下から淵岡山熊沢蕃山らが出た。著「翁問答」「鑑草」「藤樹文集」など。慶長一三~慶安元年(一六〇八‐四八

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デジタル大辞泉 「中江藤樹」の意味・読み・例文・類語

なかえ‐とうじゅ【中江藤樹】

[1608~1648]江戸前期の儒学者。近江おうみの人。名は原。あざなは惟命。日本陽明学派の祖。初め朱子学を修め、のち、陽明学を首唱して近江聖人とよばれた。熊沢蕃山淵岡山ふちこうざんはその高弟。著「鑑草」「翁問答」など。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「中江藤樹」の意味・わかりやすい解説

中江藤樹
なかえとうじゅ
(1608―1648)

江戸初期の儒学者で、日本の陽明学の祖。名は原(げん)、字(あざな)は惟命(これなが)。通称は与右衛門(よえもん)。嘿軒(もくけん)または顧軒(こけん)と号す。近江(おうみ)国高島郡小川村(滋賀県高島市安曇川(あどがわ)町上小川)に生まれる。9歳で、伯耆(ほうき)国米子(よなご)(鳥取県)の加藤侯に仕える祖父吉長の養子となる。主の転封に従って伊予国大洲(おおず)(愛媛県)に移る。15歳で祖父が没したあとは禄(ろく)100石を受けた。1634年(寛永11)27歳のときに、郷里の母への孝養のため致仕を願い出るが許されず、脱藩して郷里小川村に帰り、母に仕えつつ学問と教育に励む。時人、彼を藤樹先生、また近江聖人とよんだ。

 藤樹の思想の展開は3期に分かれる。前期は27歳の大洲脱藩まで。11歳で『大学』の「身ヲ修ムルヲ以(もっ)テ本ト為(な)ス」の語に感激して学に志し、やがて『四書大全』を得て朱子学を奉ずる。学の核心は博学洽聞(こうぶん)にではなく、心と行為の正しさを得るにあるとの徳行重視の見地にたった。しかし、やがてあらゆる場面の行為の妥当性を厳しく求める朱子学の形式主義に疑いを抱くに至る。

 中期は31歳から37歳まで(27歳から31歳までは過渡期)。彼は帰郷すると、朱子学の重んずる四書ではなく五経に拠(よ)って思索を重ね、33歳のときには『王竜渓語録』を読んで陽明学に接し、朱子学から離脱して独自の思想を形成する。同年『翁問答(おきなもんどう)』を著す。中期では大乙(たいいつ)神信仰の開始と心学の提唱とがとくに注目される。彼は、万物を生みかつ主宰する神秘的超越者大乙神の実在を確信し、大乙神の尊崇と祭祀(さいし)とを自ら実践し、また人に説いた。朱子学的合理的神観念とは異なる神観念を形成したのである。彼は、それに伴って、大乙神の要請であるとして心学を説いた。人は内面=心に優れた道徳的能力(明徳)を備える、この心の明徳を明らかにすること(明明徳)こそが修身の中心課題である、人がこの明明徳を成就(じょうじゅ)するときあらゆる場面の行為の妥当性が保証される、と説いた。内面=心をあくまで重視しつつ外的行為の妥当性を求める藤樹心学の成立である。

 後期は37歳以後である。彼は37歳で『陽明全集』を読んで陽明学に共鳴し、これを取り入れつつ独自の思想を形成した。中期の思想が、内面の正しさとともに行為の妥当性を求める、外に向けての実践的・動的傾向をもっていたのに比し、この時期では、外的行為の妥当性をあまり重視せず、内面=心の正しさによりもたらされる心の平安をこそ重視する静的傾向が顕著である。

[玉懸博之 2016年6月20日]

『山井湧・山下龍二・加地伸行校注『日本思想大系 29 中江藤樹』(1974・岩波書店)』『『日本教育思想大系 中江藤樹』複製、全2冊(1979・日本図書センター)』『山住正己著『朝日評伝選 17 中江藤樹』(1977・朝日新聞社)』

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改訂新版 世界大百科事典 「中江藤樹」の意味・わかりやすい解説

中江藤樹 (なかえとうじゅ)
生没年:1608-48(慶長13-慶安1)

江戸初期の儒学者。日本における陽明学派の始祖とされる。名は原,字は惟命(これなが),通称は与右衛門。藤樹は号,別号は嘿軒(もくけん),顧軒。祖父吉長は伯耆国米子藩主加藤貞泰の家臣。父吉次は近江国高島郡小川村で農業に従い,北川氏を妻とし1男1女を生む。藤樹はその長男。9歳で祖父に引き取られ,翌年加藤家の転封にともない,伊予国大洲に移住した。17歳で《四書大全》を読み,朱子学に傾倒していく。19歳のとき郡奉行として在職。27歳のとき老母を養うことを理由に,藩の許しを待たずに致仕し,近江に帰る。酒を売り米を貸して生計を立てたという。《礼記(らいき)》の教えどおりに30歳で結婚したことからもわかるように,儒教の礼法の順守を志していたが,1640年(寛永17)33歳のとき,大きな転機を迎える。それは,(1)《孝経》に深い意味を見いだしたこと,(2)太乙神(たいいつしん)を祭りはじめたこと,(3)《翁問答》を著したこと,(4)《王竜渓語録》を入手し陽明学を知ったこと,などだったという。34歳のとき伊勢の皇太神宮に参拝し,また儒教の礼法を固守する弊害を認めるようになる。44年(正保1)37歳で《陽明全書》を読み,陽明学にしだいに没入していった。また備前国岡山藩主池田光政の尊信を受け,彼の遺児3人はつぎつぎに召し抱えられた。藤樹は儒学,医学を講じて多くの門人を養成したが,熊沢伯継(蕃山)と淵岡山は,その陽明学風を継承した双璧といわれる。徳行をもって聞こえ,数々の逸話が伝えられるが,死後とくに名声が高まり,近江聖人と呼ばれるようになった。著書に《翁問答》をはじめ,《論語郷党啓蒙翼伝》(1639),《孝経啓蒙》(1642),また《大学考》《大学解》《中庸解》《中庸続解》や《鑑草》(1647)など儒学関係のもののほか,《捷径医筌》(1638),《神方奇術》(1644)など漢方医書があり,《藤樹先生全集》増補再刊版5冊(1940)に著作が網羅されている。
執筆者:

藤樹は江戸時代中期には,名利を避け,清貧の中で求道生活を続けた高徳の人として広くその名を知られた。藤樹の徳化は近隣の農民にも及び,その感化力に驚いた熊沢蕃山が入門を請うた話,老いた母の喜びをわが喜びとした逸話は,近代になってからも孝の道徳をあらわす典型として,国定教科書に収められ,また内村鑑三は,日本史上最も理想的な教育者として,《代表的日本人》の中で藤樹の求道生活を紹介した。
執筆者:

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百科事典マイペディア 「中江藤樹」の意味・わかりやすい解説

中江藤樹【なかえとうじゅ】

江戸初期の儒学(陽明学)者。名は原(はじめ),字は惟命(これなが),通称は与右衛門(よえもん),【もく】軒(もくけん)と号した。近江(おうみ)の人。伊予(いよ)大洲(おおず)藩,加藤家に仕えたが,母への孝養を名目に致仕を願い,許されず脱藩した。以後,近江の小川(おがわ)村(生地)に住み,朱子学より老荘へ,さらに陽明学へと進んだ。《孝経》を重んじ〈わが心の孝徳明かなれば神明に通ず〉とする全孝説を主張し,その徳化の及んだ農民は彼をのちに〈近江聖人〉と呼んだ。また備前(びぜん)岡山藩主池田光政(みつまさ)の尊信が厚かった。門人に熊沢蕃山(くまざわばんざん),淵岡山(ふちこうざん)らがある。著書《大学考》《大学解》《中庸解》《翁問答(おきなもんどう)》など。
→関連項目愛敬安曇川[町]集義和書儒家神道儒教藤樹書院三輪執斎

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「中江藤樹」の意味・わかりやすい解説

中江藤樹
なかえとうじゅ

[生]慶長13(1608).3.7. 近江
[没]慶安1(1648).8.25. 近江
江戸時代前期の儒学者。日本陽明学派の祖。名は原,字は惟命,通称は与右衛門,号は黙軒,顧軒。父は吉次。近江聖人と称される。 11歳で『大学』を読み,儒学の道に志し,15歳のとき祖父に代り大洲加藤家に仕えた。 27歳のとき母への孝養のため致仕を願い出たが許されず,脱藩して近江小川村に帰り,学を講じ,村民の教化に従った。初め朱子学を修めたが,33歳のとき『王龍渓語録』,37歳で『王陽明全書』を読み,知行合一説に従い陽明学を主唱した。熊沢蕃山,淵岡山らの弟子がある。仏教は排斥したが,神は崇拝し,太虚神道を唱えた。著書『翁問答』のほか『孝経啓蒙』 (1641起筆) ,『鑑草』 (46) ,『大学解』『中庸解』など。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「中江藤樹」の解説

中江藤樹
なかえとうじゅ

1608.3.7~48.8.25

江戸前期の儒学者。日本陽明学の祖。父は吉次。名は原,字は惟命(これなが),通称は与右衛門,号は嘿軒(もくけん)。自宅の藤の木にちなみ藤樹先生とよばれた。近江国高島郡小川村生れ。9歳で祖父に引き取られ,伯耆国米子,伊予国大洲(おおず)と移り,祖父の死後大洲藩に出仕。京都から来た禅僧の「論語」講義聴講をきっかけに,「四書大全」で朱子学を独学。27歳で近江に残る母への孝養を理由に脱藩,帰郷して学問に専念した。塾(藤樹書院)を開いて,道徳の形式よりも精神が重要であるとし,時・処・位の具体的場面に適した行動をとることを説いた。37歳のとき王陽明の全書を得てその思想に傾倒。近江聖人として崇敬され,熊沢蕃山(ばんざん)・淵岡山(ふちこうざん)らの門人を出した。著書「翁問答」。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「中江藤樹」の解説

中江藤樹 なかえ-とうじゅ

1608-1648 江戸時代前期の儒者。
慶長13年3月7日生まれ。日本の陽明学の祖。伊予(いよ)(愛媛県)大洲(おおず)藩につかえる。27歳のとき,母への孝養を名目に脱藩して郷里の近江(おうみ)(滋賀県)高島郡上小川へかえる。朱子学から陽明学に転じ,村民を教化。近江聖人としたわれた。弟子に熊沢蕃山(ばんざん)がいる。慶安元年8月25日死去。41歳。名は原。字(あざな)は惟命。通称は与右衛門。別号に嘿軒。著作に「翁(おきな)問答」「孝経啓蒙(けいもう)」「大学考」など。
【格言など】言うに忠信,行うに篤敬(「藤樹規」)

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旺文社日本史事典 三訂版 「中江藤樹」の解説

中江藤樹
なかえとうじゅ

1608〜48
江戸前期の儒学者。日本陽明学の祖
通称弥右衛門,近江聖人と呼ばれた。近江(滋賀県)の人。伊予(愛媛県)大洲藩に仕えたが,のち帰郷して講学。初め朱子学を奉じたが,37歳のとき陽明学に転じ,その普及につとめた。熊沢蕃山・淵岡山 (ふちこうざん) などの高弟を輩出。主著に『翁問答』『鑑草 (かがみぐさ) 』など。

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367日誕生日大事典 「中江藤樹」の解説

中江藤樹 (なかえとうじゅ)

生年月日:1608年3月7日
江戸時代前期の儒学者
1648年没

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世界大百科事典(旧版)内の中江藤樹の言及

【安曇川[町]】より

…湖岸に沿って国道161号線が走り,JR湖西線も開通したため,住宅地化や工業化が進みつつある。中江藤樹の生地で書院跡は史跡に指定されており,記念館もある。【松原 宏】。…

【伊予国】より

…藩学は大洲藩の止善書院明倫堂(1747),宇和島藩の内徳館(1748,のち敷教館,明倫館,明誠館),新谷藩の求道軒(1783),吉田藩の時観堂(1794),小松藩の培達校(1802,のち養生館),松山藩の興徳館(1805,のち明教館),今治藩の講書場(1805,のち克明館),西条藩の撰善堂(1805)がある。学者としては,日本陽明学の祖中江藤樹は大洲藩に仕えて大きな影響を残し,その学派に川田雄琴がある。宇和島藩の内徳館教授安藤陽州は京都古義堂の出身であり,寛政期に岡研水が朱子学を導入した。…

【翁問答】より

中江藤樹の著書。1641年(寛永18)に成立。…

【孝】より

… 近世に入って,家の制度が確立し,儒教が教学の中心に据えられると,孝は道徳の根本として取り上げられるようになった。母への孝行に徹した中江藤樹は,孝を基本とする独特の教えを説いたが,孝の強調の中で,浅井了意の《大倭二十四孝(やまとにじゆうしこう)》をはじめ,孝を中心とする数々の教訓本があらわれた。幕府や諸藩は孝子の表彰を盛んに行い,教化に努めたが,他方で主君に対するが強調されるようになると,忠は孝に優先すると説かれることになった。…

【徳】より

… 江戸期の思想史のその後の歩みは,こうした徳の概念を問題の必要に応じて解読し直し定義し直すことにあった。中江藤樹は《孝経》に注目し徳の要(かなめ)は孝にあるとした。伊藤仁斎は〈徳は仁義礼智の総名〉(《語孟字義》)とした。…

※「中江藤樹」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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