日本大百科全書(ニッポニカ) 「中東戦争」の意味・わかりやすい解説
中東戦争
ちゅうとうせんそう
1948年のイスラエル国家成立で始まったアラブ諸国とイスラエルとの間の武力衝突。アラブ・イスラエル紛争ともいう。これまでに大規模な戦闘局面は第一次中東戦争(1948~49、パレスチナ戦争)、第二次中東戦争(1956、スエズ戦争)、第三次中東戦争(1967、六日戦争)、第四次中東戦争(1973、ラマダーン戦争、イスラエル側ではヨーム・キップール戦争とよぶ)の4回を数えるが、それ以外の時期も戦闘はさまざまな形でほぼ連続して行われた。
大規模戦闘は、第四次中東戦争を最後として停止し、アラブ諸国とイスラエルとの国家的共存を目ざす「中東和平」構想が重要性をもつに至った。そうした事態の変化に並行して、第三次中東戦争以降開始されたパレスチナ人の対イスラエル・ゲリラ闘争が高まりをみせ、アラブ諸国の側がパレスチナ人に対する弾圧を強化して(1970年ヨルダン政府による黒い9月事件、1976年・84~85年レバノン内戦におけるシリア軍のパレスチナ・コマンド攻撃など)、アラブ諸国とイスラエルとがパレスチナ人武装闘争にいっしょになって攻撃するといった状況も生じてきた。さらに中東の戦闘状況は、レバノン内戦(1975~)、イラン・イラク戦争(1980~)といったアラブ内戦争としても生じており、もはや「アラブ諸国対イスラエル」の図式で中東戦争をとらえることはできなくなった。
アラブ諸国とイスラエルの関係が武力衝突によらず「中東和平」によって模索されているからといって中東の平和はかならずしも展望されておらず、「中東戦争」「中東和平」の双方が、もっぱら中東をめぐる国際政治のなかで意味づけられているといえよう。「アラブ諸国対イスラエル」の固定的枠組みを排して、以下ではまずイスラエル成立時「中東戦争」とは何であったのかを検討し直してみることにしたい。
[藤田 進]
イスラエルと中東
1948年のイスラエル国家成立は、どのような問題をアラブに投げかけていたのだろうか。
パレスチナに「ユダヤ人国家」建設を目ざすシオニズム運動(19世紀後半に東欧のユダヤ人たちの間から誕生)は、第一次世界大戦中にイギリスの保証(「バルフォア宣言」)を得、イギリス委任統治領となったパレスチナでユダヤ人入植とアラブ農地買上げとによる入植地建設を展開した。とくに1930年代ヨーロッパでのナチズムのユダヤ人狩りが激化したのを背景に、入植地建設は急ピッチとなり、第二次大戦終了時には入植地は「ユダヤ人国家」の実体をなすまでに拡大した(1945~46年にユダヤ人入植者はパレスチナ人口の30.83%、ユダヤ人所有地はパレスチナ全土の5.67%)。シオニズム運動の実績は国際連合の承認を得、その結果実現した「ユダヤ人国家」がイスラエルであった。1947年11月国連パレスチナ分割決議は、アラブ・ユダヤ双方の民族独立を認め、委任統治終了後のパレスチナを両独立国の領土として分割することを決議した。国連は入植者中心のユダヤ人を「パレスチナの民族」とみなし「ユダヤ人国家」を実際の国家と認めて、既得入植地をはるかにしのぐパレスチナの6割相当を国土として割り当てた。
だがシオニズム運動がユダヤ教徒だけによる国づくり運動であり、「ユダヤ人国家」が非ユダヤ教徒アラブの排除を必然化することを、パレスチナのアラブ住民は入植者との衝突の体験から熟知していた。イギリスがシオニズム運動を認めたのは、同運動をパレスチナ住民内部の分裂、アラブ民族独立阻止に利用するためであった。シオニズムの国づくり運動は、土着ユダヤ教徒(入植者とは別)を含むパレスチナ全住民の求めるアラブ民族独立の道に敵対し、アラブ住民のパレスチナ放逐を意図していた。シオニズム運動が引き起こすアラブと入植者との間の武力衝突はイギリス委任統治自体を破局に追い込み、イギリスにかわって武力衝突の「解決」にあたった国連の決議案が、先にみた分割決議であった。国連決議は、入植者国家たる「ユダヤ人国家」を承認したことによって、パレスチナのアラブ独立の要求を退け、彼らの祖国からの放逐の危険性を招いた。
オスマン帝国衰退で中東社会が動揺をきたす19世紀、中東の戦略的地位の重要性や資源の重要性(とくに石油)をにらむヨーロッパ諸国は、中東社会のもつ宗教的・民族的多様性に着目、それを利用して中東を内部分裂・対立へと扇動していった。第一次大戦後オスマン帝国解体で、旧帝国領アジア地域はヨーロッパ諸国により分割され、アラブ地域は英・仏の委任統治国群に編成された。アラブ諸国はそれぞれにアラブ地域の一円的支配の野望を抱いたり(大シリア主義、肥沃(ひよく)な三日月地帯構想など)、「キリスト教徒国家」の意欲を抱いたり(レバノン)で、アラブ内分裂・対立を助長した。こうして、政治体制、経済・社会体制の異なるばらばらな国家群がヨーロッパ大国の支配下に一体となって編成される、今日の中東地域の原型ができあがった。
第二次大戦末期から中東諸地域では、国内変革要求運動(ギリシア、トルコ)、アラブ諸国独立運動、少数民族独立運動(アゼルバイジャン人、クルド人)が激化し、おりから「東西対立」的状況が国際政治を支配するなか、大戦後弱体化の著しい英・仏にかわってアメリカが強力な軍事・経済援助(トルーマン・ドクトリン、マーシャル・プラン)を発動して中東の「危機的事態」(中東問題)回避に乗り出していた。
中東の一角パレスチナに「ユダヤ人国家」を据えることによりアメリカ・西欧は、(三大宗教の)聖地独占とアラブ対決との意欲に駆られる同国家が、アラブ諸国内の民族運動の発展に「国家の安全」を盾に敵対し、中東内部分裂・対立を助長することをねらった。そのことによってアメリカ・西欧は、戦略的・経済的要衝と化した中東の安定的支配を期待した。
イスラエル国家成立は、「パレスチナ・アラブ放逐」という新たな中東問題を派生させたばかりか、反アラブ国家の登場による中東の「紛争地域化」を意味した。イスラエル成立で開始された中東戦争は、「ヨーロッパの植民地」イスラエルと、アメリカ・西欧とによる、アラブ諸国の民族運動阻止のための干渉戦争としての性格をもっていた。ここに、中東戦争が第二次大戦後の中東の恒常的事態となる構造的要因があった。
[藤田 進]
中東戦争の展開
イスラエル成立で始まった第一次中東戦争で、追放の危機に直面するパレスチナ人およびアラブ諸国からの義勇軍は、参戦後まもなく戦列から締め出され、戦争は「アラブ諸国対イスラエル」の図式で展開した。アラブ諸国軍は各国の思惑が交錯して足並みが乱れ、武器は各国ともイギリスの管理下にあり、イスラエル側圧倒的優位のうちに戦局は進んだ。1949年イスラエルと各アラブ参戦国ごととの休戦協定で、パレスチナはイスラエル・エジプト・ヨルダン間に分割され、イスラエルは国連分割決議を大幅に上回るパレスチナ領を獲得した。イスラエル国家は戦争を通じて没収した膨大なアラブ住民の土地・家屋・墓地を「無人の不動産」とみなして国家に移管し(1949年不在者財産法)、戦禍を逃れ周辺アラブ諸国に避難した住民の帰国を阻止した。ここにパレスチナ人の追放・難民化が決定された。
第一次中東戦争直後からアラブ諸国が完全な民族独立や社会変革を志向するアラブ・ナショナリズムの嵐(あらし)に包まれるのと呼応して、米・英・仏・イスラエルは、アラブ諸国への干渉体制を築いていった。アラブ・イスラエル双方への武器供与制限(1950年米・英・仏三国宣言)の一方でアメリカは強力な対イスラエル援助を続け、米・英による全中東規模の軍事同盟(中東防衛司令部構想、バグダード条約機構など)は、「反共」の名目で銃口をアラブ諸国の革命に向けていた。
エジプト革命(1952)がスエズ運河国有化(1956)に結び付いた段階で起きた第二次中東戦争(「スエズ戦争」の項参照)は、イスラエル・英・仏三国のエジプト干渉戦争の形をとり、アラブ諸国民衆結束に果たす革命の役割阻止と、イスラエル領拡張とがあわせて企てられていた。この戦争の結果、中東での英・仏の影響力が決定的に後退し、アラブ・ナショナリズムが社会主義を志向しつつ高揚していくなかで(イラク革命、レバノン・ヨルダン両国危機、エジプト・シリア合併の動きなど)、アメリカはアラブ王制諸国を軸にアラブ・ナショナリズムに歯止めをかける体制づくりを開始した。
1960年代に入ってイエメン革命やアラブ諸国の社会主義諸潮流の高まりのなか、アラブ内の「進歩派体制」対「イスラム同盟」の対立が激化、66年シリアでバース党左派政権成立、ヨルダン王国危機、エジプト・シリア共同防衛条約締結などで両者の対立は異常に高まった。その機会をとらえて、イスラエルはパレスチナ人ゲリラ活動をたたくとの名目でシリアへの軍事的攻撃を強化、エジプト・シリアが対イスラエル共同防衛の構えをとり、アメリカを先頭とする各国が「国際水路の自由航行権」「国家の生存権」の国際的要求を両国に突きつけている状況下で、67年6月イスラエルの周辺アラブ諸国への全面的侵攻が開始された(第三次中東戦争)。イスラエルはシナイ半島およびヨルダン川西岸地区を制圧(聖地エルサレムも占領)、シリアのゴラン高原も占領した。
アラブ「進歩派体制」は深刻な打撃を被り、1967年11月の国連決議242号採択で、その後の「中東和平」の指針となる、イスラエルを含む中東域内諸国の生存権保障(パレスチナ人民族自決権の否定)、イスラエル軍の占領地撤退が示され、これをヨルダン、エジプトは受諾した。イスラエルはパレスチナ全土を含む広大な占領地をつかみ、多数のアラブ・パレスチナ住民を抱え込んだ。この結果、アラブ諸国はイスラエルの国家的存在を否定することは困難となり、ロジャース提案(1970)に始まるアメリカ主導の「中東和平」づくりが動きだした。
1973年10月の第四次中東戦争は、アラブ側の奇襲作戦とアラブ産油国の石油戦略によってシナイ半島返還をもたらしたが、これも「中東和平」活性化に弾みをつける役割が大きく、イスラエルはエジプト(1974、75)、シリア(1974)との間で兵力引き離し協定に調印、1982年対エジプト、83年対レバノンの両平和協定締結へとこぎ着け(対レバノン平和協定は84年破棄)、「アラブ諸国対イスラエル」の武力衝突としての中東戦争は事実上停止した。
だが第三次中東戦争以降、アラブ諸国やイスラエル占領地で開始されたパレスチナ「難民」の軍事闘争は、パレスチナ民族自決権要求を掲げ国際的世論の支持を強めつつ展開され、「中東和平」最大の障害となった。アラブ石油ブームと中東経済開発でわく1970年代、アラブ諸国都市周辺難民キャンプや出稼ぎ労働者で膨らんだ貧民スラムで、宗教や民族の違いを超えて貧民が結束し、無権利状態に抗して立ち上がる事態も表面化した。国家の支配を乗り越えて発展する民衆運動の潮流(湾岸諸国やエジプトの都市暴動、レバノン内戦、パレスチナ占領地や難民キャンプの民衆抵抗、イラン・イスラム革命)は、中東諸国の体制的安定を揺るがし、「中東危機」的事態をふたたび促進しているのである。
[藤田 進]
『中東の平和をもとめる市民会議編『パレスチナ問題とは何か』(1982・未来社)』▽『D・ギルモア著、北村文夫訳『パレスチナ人の歴史』(1985・新評論)』▽『板垣雄三編『ドキュメント現代史13 アラブの解放』(1974・平凡社)』▽『S・ジェリス著、若一光司・奈良本英佑訳『イスラエルのなかのアラブ人』(1975・サイマル出版会)』