精選版 日本国語大辞典 「中村鴈治郎」の意味・読み・例文・類語
なかむら‐がんじろう【中村鴈治郎】
出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報
出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報
[服部幸雄]
(1860―1935)本名林玉太郎。大坂生まれ。俳名扇若(せんじゃく)、のち亀鶴(きかく)。別号玩辞楼(がんじろう)。大坂の俳優3世中村翫雀(かんじゃく)の子。初め初世実川延若(じつかわえんじゃく)の門弟となり、1873年(明治6)5月、実川鴈二郎の芸名で初舞台を踏んだ。77年になって、別れていた父翫雀と再会、その相続人と決まり、翌年実川姓を師に返し、中村鴈治郎と改名した。明治末期には関西歌舞伎界の第一人者として非常な人気を集め、東京にもしばしば出演して活躍した。容貌(ようぼう)・風姿ともによく、師匠の実川延若や中村宗十郎から伝承した上方和事(かみがたわごと)に独自の芸風を開いた。とりわけ近松の世話物では天下一品の名をほしいままにした。『梅忠(うめちゅう)』(『恋飛脚大和往来(こいびきゃくやまとおうらい)』)の忠兵衛、『河庄(かわしょう)』『紙治(かみじ)』(『心中天網島(しんじゅうてんのあみじま)』)の治兵衛、『廓文章(くるわぶんしょう)』の伊左衛門などは格別の当り役で、生涯に何度も演じた。『敵討襤褸錦(かたきうちつづれのにしき)』の春藤次郎右衛門(しゅんどうじろうえもん)や『近江源氏先陣館(おうみげんじせんじんやかた)』の盛綱(もりつな)なども当り役だった。これらの当り役を集めて、「玩辞楼十二曲」を選定した。
[服部幸雄]
(1902―83)本名林好雄(よしお)。初世の次男。初世中村扇雀(せんじゃく)、4世中村翫雀を経て、1947年(昭和22)1月、2世鴈治郎を襲名。風格は父親に及ばなかったが、よく修業に励んで父の芸風を忠実に受け継ぎ、純粋な上方和事系の二枚目として貴重な存在であった。一時、舞台を離れて映画、テレビに活躍したこともある。67年重要無形文化財保持者、72年日本芸術院会員、80年文化功労者。
[服部幸雄]
4世坂田藤十郎(さかたとうじゅうろう)の前名。
[服部幸雄]
『(2世の本)藤田洋編『鴈治郎の歳月』(1972・文化出版局)』▽『2世中村鴈治郎著『役者馬鹿』(1974・日本経済新聞社)』▽『(3世の本)3世中村鴈治郎・土岐迪子聞書『中村鴈治郎 一生青春』(1997・演劇出版社)』
歌舞伎俳優。明治以降現在まで2世代。屋号成駒屋。(1)初世(1860-1935・万延1-昭和10) 本名林玉太郎。大坂の歌舞伎俳優3世中村翫雀の子として生まれた。俳名は扇若,のち亀鶴。別号玩辞楼。1862年(文久2)両親の離別によって母のもとにひきとられた。71年初世実川延若の門弟となり,73年5月実川鴈二郎の名で初舞台を踏んだが数年間は旅に出るなど母とともに苦労した。77年になって父のもとへ復帰することになり,78年に実川姓を師へ返し,翫雀の子として中村鴈治郎を名のった。以後は役もつき花形役者として片岡我当(のちの11世仁左衛門)と並んで関西の人気を二分するようになった。1909年以後は仁左衛門が東京に属することとなり,事実上の関西歌舞伎の代表となった。容貌,風姿ともにすぐれ,近松世話物をはじめとする上方和事系の役々に独自の芸風を発揮したほか,実事にも渋い味を示した。当り役を自選し,〈玩辞楼十二曲〉を制定した。(2)2世(1902-83・明治35-昭和58) 初世の次男。大正初期子供芝居の座頭(ざがしら)となって才を発揮し麒麟児(きりんじ)といわれた。さらに青年歌舞伎,道場芝居などで修業し,初世中村扇雀,4世翫雀を経て1947年に鴈治郎を襲名した。父の芸風を忠実に体現,上方系和事の第一人者であった。(3)3世(1931(昭和6)- ) 2世の長男。1941年2世中村扇雀を経て,2000年3世を襲名したが,05年坂田藤十郎(4世)を襲名した。
執筆者:林 京平
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
血液中の脂質(トリグリセリド、コレステロールなど)濃度が基準値の範囲内にない状態(脂質異常症)に対し用いられる薬剤。スタチン(HMG-CoA還元酵素阻害薬)、PCSK9阻害薬、MTP阻害薬、レジン(陰...
4/12 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新
4/12 デジタル大辞泉を更新
4/12 デジタル大辞泉プラスを更新
3/11 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新
2/13 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新