中川郷(読み)なかごごう

日本歴史地名大系 「中川郷」の解説

中川郷
なかごごう

[現在地名]長崎市中川町なかがわまち一―二丁目・桜馬場さくらばば二丁目・鳴滝なるたき一―三丁目

馬場ばば村の東にある長崎村内の郷。寛永一五年(一六三八)島原からの帰途に長崎に立寄った老中松平信綱が異国船の来航をいち早く知るため遠見番所の候補地を検討、長崎領内では鳴滝なるたきおの山に烽火番所を設置、「烽火山」「放火山」などと称され、番所を置き、長崎三ヵ村から百姓二人ずつを詰めさせた。万治二年(一六五九)百姓の負担に替えて、遠見番一〇人(一人前二人扶持七石)、水主一〇人・遠見番一〇人(一人前四人扶持)を配した(華蛮交易明細記)

中川郷
なかつがわごう

和名抄」所載の郷。高山寺本・東急本ともに訓を欠く。「播磨国風土記」に中川里がみえる。「和名抄」に同名郷はなく、訓は未詳。風土記によれば地名起源淡路島石屋いわや(現淡路町)で暴風雨にあった神功皇后が、風雨を避けるため苫で仮屋を造った苫編首の祖大中子を褒めたたえ、苫編首の姓を賜った。それ以来大中子はここにいたので仲川なかつがわと称したという。大中子の中を取って仲川と称したというのであろう。

風土記には、天智天皇の頃に仲川里人丸部具が河内国とのき村の人から剣を買取ったのち、家が滅びてしまった。のちにこの剣を掘出した苫編部犬猪が鍛人に刃を焼入れさせたところ、剣は蛇のように伸縮した。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報