中山王府(読み)ちゅうざんおうふ

日本大百科全書(ニッポニカ) 「中山王府」の意味・わかりやすい解説

中山王府
ちゅうざんおうふ

琉球(りゅうきゅう)王国の政治・行政機構。首里(しゅり)王府、琉球王府ともよばれる。中山はもともと三山(さんざん)時代(14~15世紀初)の小国家の一つ中山に由来し、同国が沖縄全体を統一したために、転じて琉球の別称となった。

 1429年三山を平定して琉球を統一した尚巴志(しょうはし)は、琉球王国の王都として首里を整備し、対外交易港那覇の充実を図った。首里には王宮首里城をはじめいくつかの施設が建設されたが、当時は政治・行政機構そのものはさほど充実してはいなかったようである。1477年から1526年までの50年間王位にあった尚真(しょうしん)は、王を頂点とする位階制度や行政機構を整備・強化するとともに、地方統治制度や神女組織を確立するなど王府支配システムに抜本的な改革を加えた。中央には王の補佐役として3人制の三司官(さんしかん)(「世(よ)あすたべ」ともいう)を置き、その下にヒキと称される組織を置いて長官クラスの役人を配した。地方には首里大屋子(しゅりおおやこ)をはじめとする役人を設置して管理を強めた。また、宗教・祭祀(さいし)の面では聞得大君(きこえおおぎみ)を頂点に君々(きみぎみ)、大阿母(おおあも)、ノロに及ぶ神女組織を全国的につくりあげた。各職はいずれも国王名による辞令書によって任じられ、王権の絶対的な地位を確立した。

 島津侵入事件(1609)により王国が幕藩制国家の一環に編入されると、王国の経営が薩摩(さつま)藩・幕府の規定を受けるようになった。そのため、前代の王府システムの枠組みを踏襲しつつ、これを近世的に再編・強化する課題が生じてきた。向象賢(しょうしょうけん)の摂政(せっせい)期(1666~73)に本格的に着手され、蔡温(さいおん)の三司官期(1728~53)に完成するこの再編・強化策の特徴は、この新しい時代に対処しうるだけのシステムを実現するため、行政制度・役人制度における任務職掌を明らかにし、執務規定の明確化、地方統治制度の強化を行った点にみいだすことができる。このため、系図を用いて士農の分離を図り(士を系持(けいもち)、農民を無系(むけい)と称し区別した)、儒教的なイデオロギーが重視された。こうして、国王を頂点に摂政、三司官がおり(摂政・三司官の詰める中枢機関を評定所(ひょうじょうしょ)といった)、その下に長官クラス15名を構成メンバーとする諮問機関表(おもて)十五人がいて国事の重要案件を処理する王府の近世体制が確立した。表十五人の下には座(ざ)・方(ほう)と称される部局があり、多くの役人が執務をとっていた。座・方は首里城内もしくは首里城下に集中していたが、一部は那覇などにも置かれた。各地方には地頭代(方音ジトゥデー)を頂点とする間切番所(まぎりばんじょ)(沖縄本島など)や頭(かしら)(3人制)を頂点とする蔵元(くらもと)(宮古(みやこ)・八重山(やえやま)など)を通じて王府の意向が直接伝えられた。1879年(明治12)琉球処分によって王国が崩壊することにより王府もまた瓦解(がかい)した。

[高良倉吉]

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