中山信名(読み)なかやまのぶな

改訂新版 世界大百科事典 「中山信名」の意味・わかりやすい解説

中山信名 (なかやまのぶな)
生没年:1787-1836(天明7-天保7)

江戸後期の和学者。常陸国久慈郡の坂本玄卜の子。通称は平四郎,勘四郎。柳洲と号する。16歳で江戸に出て塙保己一に学び,23歳のとき幕臣中山有林の養子となり,書物御用出役(70俵五人扶持)として鹿島香取の両神宮の古文書調査に従う。32歳で和学講談所出役頭取となった。保己一とともに《群書類従》の校訂編纂,和学講談所経営に尽力し,西の旧祠古寺に蔵する稀書の発見に功があった。性格は磊落(らいらく)で酒を好み,貧を貧とせず著述に没頭したという。著書が多く,《南巡逸史》《氏族志料》《関城書考》《鹿島編年記》《新編常陸国誌》ほかがある。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「中山信名」の意味・わかりやすい解説

中山信名
なかやまのぶな
(1787―1836)

江戸後期の国学者。常陸(ひたち)国久慈(くじ)郡石名坂(いしなざか)村(茨城県日立市)の医者坂本玄卜(げんぼく)の子。通称平四郎、のち甚四郎、号柳洲(りゅうしゅう)。1802年(享和2)16歳のとき江戸に出て、塙保己一(はなわほきいち)の門に入り『群書類従』編纂(へんさん)の校訂に力を尽くした。23歳のとき旗本中山有林(ゆうりん)の養子となり、書物御用出役(かきものごようでやく)から出役頭取(とうどり)に進む。保己一が和学講談所教授になったことにより、広く彼の名が世に出る。著書に『南巡逸史』『南山考』『氏族志料』『守護地頭(しゅごじとう)考』『常陸治乱記』『常陸編年』『新編常陸国誌』など歴史・地誌類を中心に多数あるが、『新編常陸国誌』は信名在世中完成せず、色川三中(いろかわみなか)、栗田寛(くりたかん)の修訂増補を得て、約100年後に集大成された。

[佐久間好雄]

『『新編常陸国誌』(1969・宮崎報恩会/復刻版・1982・常陸書房)』

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朝日日本歴史人物事典 「中山信名」の解説

中山信名

没年天保7.11.10(1836.12.17)
生年天明7(1787)
江戸後期の国学者。通称平四郎,のち勘四郎。柳洲と号す。常陸国(茨城県)久慈郡石名坂村の医師坂本玄朴の子。幼いころ,神童の誉れ高く,『太平記』を暗誦し太平記童といわれていた。水戸藩士石川久徴に地理学を学ぶ。16歳で江戸に出て塙保己一に学び,23歳,幕臣中山平蔵(有林)の養子となり,書物御用出役から同出役頭取に進んだ。鹿島・香取神宮の古文書収集に尽くし,和学講談所の教授となり,『群書類従』の編纂校訂を行った。郷土関係の資料発掘に努め,『新編常陸国誌』など多くの著作を残した。辞世の歌として「酒も飲み浮かれ女も見つ文もみつ家も興して世にうらみなし」が残っている。<参考文献>大手敏子「中山信名」(『文学遺跡巡礼 国学篇3』)

(飯倉洋一)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「中山信名」の解説

中山信名 なかやま-のぶな

1787-1836 江戸時代後期の国学者。
天明7年生まれ。常陸(ひたち)(茨城県)の人。塙保己一(はなわ-ほきいち)にまなび,「群書類従」の編集,校訂にあたる。和学講談所の教授もつとめた。「常陸国誌」「常陸治乱記」など郷土関係の研究もおおい。天保(てんぽう)7年11月10日死去。50歳。本姓は坂本。通称は平四郎,勘四郎。号は柳洲。
【格言など】酒も飲み浮かれ女もみつ文もみつ家もおこしつ世に恨みなし(辞世)

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