中山みき(読み)ナカヤマミキ

デジタル大辞泉 「中山みき」の意味・読み・例文・類語

なかやま‐みき【中山みき】

[1798~1887]天理教の教祖。大和の人。41歳のとき霊感を得、世人救済のために布教を始めた。歌集「おふでさき」は託宣・予言をうたったもの。

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精選版 日本国語大辞典 「中山みき」の意味・読み・例文・類語

なかやま‐みき【中山みき】

宗教家。天理教開祖。大和国奈良県)の地主の主婦であったが、四〇歳頃霊感を得、安産と病気なおしの祈祷で付近の農民の信仰を集めた。維新後圧迫をうけたが屈せず、教勢拡大につとめた。教歌「おふでさき」、創造神話「こふき」をつくった。寛政一〇~明治二〇年(一七九八‐一八八七

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改訂新版 世界大百科事典 「中山みき」の意味・わかりやすい解説

中山みき (なかやまみき)
生没年:1798-1887(寛政10-明治20)

天理教教祖。大和国(奈良県)山辺郡三昧田村の地主の長女に生まれ,13歳で丹波市(現,天理市)近郊の庄屋敷村の中山家に嫁した。中山家は棉屋,質屋を兼ねる商人化した地主であったが,家業を顧みない夫にかわって家事,農事に心身を労し,夫とは心が触れあうこともないまま,自己犠牲と忍従の生活を続けた。幼少から深く来世の救いを信じ,19歳のとき浄土宗の檀那寺で五重相伝をうけたほどの篤信者であったが,浄土の信仰によっても,封建社会に生きる主婦としてのみきの内面は満たされず,年とともにその苦悩は深まる一方であった。1830年(天保1)お蔭参りが流行し,丹波市を通る参宮の群衆に触れて,神の力によって世が変わると信じて熱狂する人々の宗教的興奮を実感した。38年長男の足の病気を治すために招いた山伏の加持台をつとめて神がかりに陥り,みずから〈天の将軍〉〈元の神,実の神〉〈大神宮〉であり,〈三千世界のたすけ〉のために天降ったと宣言した。生き神となることでみきは一挙に〈家〉から解放されたが,中山家はこののち没落の一途をたどった。みきは安産と病気なおしの生き神として評判となり,周辺の農村で布教活動を行うようになった。幕末には周囲の宗教や小講社との対決を通じて,教義と儀礼が急速に整い,67年(慶応3)みきの講社は吉田神道からも天輪王明神として公認された。同年《みかぐらうた》をつくり,親神への信仰によって〈ふしぎなたすけ〉をうけることができ,〈陽気づくめ〉の〈このよのごくらく〉が到来すると説いた。農民の生活に根ざしたみきの教えは,現世での全生活的救済を約束し,ヒューマニズムと平等観を強調することによって,変革期の民衆がもとめる世直しの願望を反映していた。明治維新後,その教線は河内平野から大阪に及び,69年(明治2)から教義歌《おふでさき》の述作を始めた。72年教部省が設置され組織的な上からの国民教化が実施されると,民間の宗教はきびしい圧迫をうけるようになり,みきも前後18回にわたって検挙・勾留されたが,神業をはばむ〈高山〉(権力者)の暴圧にはげしい怒りをもやし,〈谷底〉の民衆が救われる刻限切迫をうったえつづけた。人間世界の創造を説きあかした〈こふき(〈泥海古記〉)〉の神話をまとめ,創造の聖地とする中山家の地,〈ぢば〉に〈かんろだい〉の建設をすすめた。82年警官が襲い建造中の〈かんろだい〉の石材を持ち去ったが,みきは弾圧に屈しなかった。禁圧下で天理教は全国的な発展をつづけ,教団幹部は,みきの意に反して国家神道のわく内で活動を合法化するための工作を進めた。86年冬,89歳のみきは,12日間警察に勾留され,この弾圧がもとで病床についた。みきは最後に,信仰が法律にも政治支配にも優越することを教え,翌87年2月18日,90年の生涯を閉じた。
天理教
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朝日日本歴史人物事典 「中山みき」の解説

中山みき

没年:明治20.2.18(1887)
生年:寛政10.4.18(1798.6.2)
天理教の教祖。大和国山辺郡(奈良県天理市)の庄屋前川家の長女として生まれる。13歳で同郡庄屋敷村の中山善兵衛と結婚。中山家は綿などの仲買いもする地主であった。働きぶりを評価され16歳で中山家の所帯の一切をまかされる。17年間に1男5女をもうけるが次女と4女を亡くした。天保8(1837)年長男の秀司が突然足に激痛を訴えたため行者に祈祷を依頼し,いくたびも「寄加持」を行う。同9年10月23日の寄加持のおり加持台をつとめたみきは神がかり状態となる。みきに降りた神は「元の神」「実の神」と名乗り,「三千世界を助けるために天降った。みきの身体を神の社としてもらいうけたい。承知しなければこの家をつぶす」と宣告,夫もやむなく承諾する。みきが最初に神がかりしたこの日はのちに天理教立教の日とされる。夫の死後中山家は没落し,貧窮生活のなかでみきは安政1(1854)年初産を迎える3女に,神が安産を守護するとの「おびや許し」を授け,のちに産の忌み・危険に悩む他の女たちにも行い「おびやの神様」として評判になる。 元治1(1864)年ごろから,みきの信仰の理解者である5女のこかんと共に安産や疱瘡などの病気治しによる「たすけ」を活発に行い,神主や僧侶などの干渉にもかかわらず多くの信者を得る。慶応3(1867)年から親神「てんりんおう」の神意を数え歌形式の「みかぐらうた」,また明治2(1869)年から教義「おふでさき」を書き始める。「人間は男女のへだてなくみな神の子として平等であり,悪心を去り神への奉仕に努めれば,権力に虐げられ苦しんでいる者こそが救済され,『陽気暮らし』の理想世界が実現する」というみきの教えは幕末維新期の庶民の願いに合致し,教勢を伸ばしたがゆえに官憲から苛烈な圧迫を受けた。教団幹部は布教の公認を得ようとするが,みきは抵抗の姿勢を保つ。 同6年,救済実現のとき天から与えられる霊薬を受ける「甘露台」を,神による人類創造の場として中山家の屋敷地「ぢば」に築くことを願い,独自の神話『こふき』を作ろうとするが,同15年建設中の甘露台が警官によって破壊され,これを機に「おふでさき」の執筆をやめる。同19年2月信者の集団参拝を理由に警察に15日間拘留されたため健康を損ね,同20年危篤状態となる。みきは幹部信者たちに「神が大事か,世俗の法が大事か」といい,警察に禁止されていた,鳴りものに歌舞をともなう儀礼「かぐらづとめ」をするよう促す。拘束を覚悟した信者たちが行うかぐらづとめの音を聞きながら90歳で永眠した。みきの生涯は信者たちにとって人間の生き方の「ひながた」であり,その魂は死後も「ぢば」に鎮まり人間を導き救済し続けているとされる。<著作>『おふでさき』『みかぐらうた』<参考文献>天理教教会本部編『稿本 天理教教祖伝』,芹沢光治良『教祖様』,八島英雄『中山みき研究ノート』

(井桁碧)

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「中山みき」の意味・わかりやすい解説

中山みき
なかやまみき
(1798―1887)

天理教の教祖。寛政(かんせい)10年4月18日大和(やまと)国山辺郡三昧田(さんまいでん)村(奈良県天理市)の庄屋(しょうや)前川半七の長女として出生。13歳で同郡庄屋敷村の庄屋中山善兵衞に嫁ぐ。1838年(天保9)10月26日41歳のとき、人間世界の創造神(親神天理王命(おやがみてんりおうのみこと))の「やしろ」(神意伝達者)となり、以来1887年(明治20)2月18日没するまでの50年間、世間の嘲笑(ちょうしょう)、官憲の弾圧のなか、神意を宣(の)べ伝え人々を教化した。その教えは『おふでさき』『みかぐらうた』という直筆の書に記され、また『おさしづ』にもことばが筆録されている。天理教では、みきの後半生50年の道を人間の生きるうえの「ひながた」とし、また没後も、みきは存命時同様に働いていると信じられている。1986年(昭和61)1月26日には教祖百年祭が行われた。

[松本 滋 2018年6月19日]

『天理教教会本部編『稿本天理教教祖伝』(1956/第9改訂版・1991・道友社)』『天理教教会本部編『稿本天理教教祖伝 逸話篇』(1976・道友社)』

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「中山みき」の意味・わかりやすい解説

中山みき
なかやまみき

[生]寛政10(1798).大和
[没]1887.2.18. 天理市
天理教の教祖。大和国山辺郡三昧田村 (奈良県天理市) の庄屋前川半七,きぬの長女として生れる。 13歳で中山善兵衛にとつぐ。天保9 (1838) 10月 26日みき 41歳のとき,人間世界の創造神 (親神天理王命) の神意伝達者である「やしろ」となり,以来,家財を貧しい人々に施し,神のいわれた「貧に落ち切れ」を実践。 1887年で亡くなるまでの 50年間,世間の迫害干渉にも屈せず,神意をのべ伝え人々を教化した。その教えは,天理教の儀礼である「かぐらづとめ」の地歌である『みかぐらうた』,さらに教義歌である『おふでさき』という直筆の書に記されているほか,『おさしづ』にも言葉が筆録されている。また,天理教では,みきの後半生 50年の道を人間の生きるうえでの「ひながた」としている。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「中山みき」の解説

中山みき
なかやまみき

1798.4.18~1887.2.18

天理教の教祖。父は大和国山辺郡三昧田村の庄屋前川半七正信。前川家は代々浄土教の檀家であったことからみき自身信仰を厚くした。1810年(文化7)中山善兵衛と結婚。38年(天保9)10月23日,長男秀司の足痛の治療のために修験者の加持台になっていたところ突然神がかり状態になり,3日3晩続いて「月日(神)のやしろ」となったことから宗教者の道を選択し,53年(嘉永6)以降,活動を本格化させた。教義として「おふでさき」「みかぐらうた」「おさしづ」などを定め,歌や手振りを交えて布教を行った。74年(明治7)以降,官憲の弾圧をうけてたびたび留置されたが,屈することなく布教活動に努めた。

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百科事典マイペディア 「中山みき」の意味・わかりやすい解説

中山みき【なかやまみき】

天理教の教祖。天理市丹波市(たんばいち)の生れ。中山善兵衛に嫁し,困苦の中に生活したが,長男秀司が病気のとき,突如天啓を受けた。夫の死後,安産の神さらには救済神として近隣の農民の信仰を得,数次にわたる官憲の迫害にあいつつ教団を拡大した。自ら天理王命と称し,その天啓のままに書きしるしたものを〈お筆先(ふでさき)〉という。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「中山みき」の解説

中山みき なかやま-みき

1798-1887 江戸後期-明治時代の宗教家。
寛政10年4月18日生まれ。天理教の教祖。長男の病気を契機に天保(てんぽう)9年10月26日神がかりとなり,救済の神として近隣の信仰をあつめる。たびたびの官憲の迫害にたえ,教義の原典となる「御神楽歌(みかぐらうた)」「おふでさき」をあらわした。明治20年2月18日死去。90歳。大和(奈良県)出身。

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旺文社日本史事典 三訂版 「中山みき」の解説

中山みき
なかやまみき

1798〜1887
幕末〜明治中期の宗教家。天理教教祖
大和国三昧田村(奈良県天理市)の地主の娘。1810年中山家に嫁ぐ。41歳のとき神がかりし,夫の死後60歳ごろから安産の神・救済の生神として農民から信じられ,主神を天理王命と称した。著書に『おふでさき』。

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世界大百科事典(旧版)内の中山みきの言及

【天理教】より

…習合神道系の創唱宗教。1838年(天保9)大和国山辺郡庄屋敷村(現,奈良県天理市)で,地主の主婦中山みき(1798‐1887)が開教した。みきは浄土宗をあつく信じていたが,41歳のとき,長男の病気を治すために招いた山伏の加持台をつとめ,神がかりしてみずから〈天の将軍〉〈元の神,実の神〉〈大神宮〉と名のり,〈三千世界のたすけ〉のため天降ったと宣言した。…

※「中山みき」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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