中国思想(読み)ちゅうごくしそう

日本大百科全書(ニッポニカ) 「中国思想」の意味・わかりやすい解説

中国思想
ちゅうごくしそう

中国の地域において中国人によって太古以来現代に至るまで生み出されてきた思想の全体をいう。中国哲学といってもほぼ同じ内容のものをさすが、体系性に乏しいものまで含みうるという意味で、思想のほうが哲学よりもさす範囲がやや広い。中国思想はヨーロッパやインドの思想とは異なる古い発祥をもち、それらの思想と相互に影響しあいながらも独自の発展を遂げてきた。

[山井 湧]

中国思想の特色

中国思想の特色として次のような事項があげられる。第一に、思想が現実の生活に密着していること。抽象的、理論的な思索に長ぜず、現世を離れた彼岸(ひがん)あるいは形而上(けいじじょう)の世界などを求めることが少なく、現実をいかに生きるか、どうすればよいかを考えることに大きな関心を払ってきた。ただし生活に即して考えるといっても、現実主義とは限らず、現実をどう生きるかを考えるについての理想主義的な思考は大いにありえた。

 第2に、対(つい)の思考形式が顕著であったこと。すべての事物を相対する二つの要素に分けてとらえる思考法で、もっとも典型的なのは陰陽思想であるが、ただ単純に矛盾対立する陰と陽という二つの異なる性格のものとして区分してとらえるのではなく、陰と陽とを相互連関的にとらえ、かつその両者の調和・安定を重んずる。それは、一方に偏った極端を貴ばず、ほどよい中庸を重んずる思考とも相通ずる面がある。なおこの「対の思考」は、思考を進める形式として現れるだけでなく、思想の内容を論述する場合の修辞としての対句(ついく)の表現にも現れる。

 第3に、中国人は古代以来近代に至るまで、終始「天」に対する信仰ないし尊崇の念を抱いていた。天は天空であるが、単に自然現象としての天空であるだけでなく、天は造物主ないし造化の根源であって、人およびその他万物を生み出し、自然界・人間界を主宰し、それらの動きはすべて天命(天の意志)に従って営まれるものと考えられた。だから、人間の住む世界全体を天下といい、それを統治する支配者は天子と称し、天子は天命に従ってその地位につき天下に君臨するものと考えた。また天は人間の生活を取り巻く自然環境の最大のものであるから、本来人間は天に順応し天との調和を図りながら生きてゆかなければならないのであるが、天はさらに上記のとおり人間界のもろもろの営みの主宰者でもあったから、人のなすべきことすなわち「人の道」は「天の道」を模範とし、要するに人は天に随順して生きるべきものと考えるのが中国の伝統的な思想であった。なお、「天下」の観念に関連して華夷(かい)思想というものがあった。漢民族独特の民族意識の現れであって、中華(華夏)という高度の文化をもった漢民族に対して、周辺の異民族を夷狄(いてき)と称して文化の低い野蛮人とみなし、夷は華の文化を仰ぎ華に服属すべきものとし、中華の文化の及ぶ限りの地域が天下であって、それが世界のすべてであると意識した。

 ただし以上の3点は、中国本来の伝統的な思想について指摘したもので、近代・現代の思想には該当しない部分がある。

[山井 湧]

中国思想の歴史


 中国思想の歴史は次の四期に分けられる。第1期は太古から前漢の末期、成帝(せいてい)・哀(あい)帝のころ(紀元前1世紀の末期)まで。第2期は前漢末から北宋(ほくそう)の中期、仁宗(じんそう)のころ(11世紀なかばころ)まで。第3期は北宋中期から清(しん)代末期、アヘン戦争(1840~42)のころまで。第4期は清末以後現在までとする。

[山井 湧]

第1期――中国思想の展開

第1期は中国思想の成立期である。中国の思想についてわれわれが知りうるのは、殷(いん)代、紀元前15世紀ごろから後のことである。殷代には帝(みかど)(上帝とも)とよばれる天の神を最高神として、各氏族の祖先神、山や川や草木その他種々の神を尊崇し、それらの神々を祀(まつ)って幸いを祈り、また重要な行事は占いによって神意を確かめてから実行に移した。周代にも殷代の上帝信仰を受け継いで天が信仰された。そして周王室の天下統治も政治制度や身分秩序も天の意志(天命)によって保証されるものと考え、天を祀ることは、この支配体制を確認する意味をももっていた。そこで、周の初めに周公が制定したと伝えられる「周の礼」は、天および他の神々を祀る宗教儀礼であるとともに、天下統治のための政治形態や身分制度を規定する礼制でもあった。

 中国思想の本格的な展開は、春秋時代後期から戦国時代にかけての時期(先秦(しん)時代ともいう。前6世紀末~前3世紀末)に始まる。中国思想史上第一の黄金時代で、諸子百家(しょしひゃっか)とよばれる数多くの学派・思想家が輩出した。そのうち主要な思想家群は、儒家(じゅか)、墨家(ぼくか)、名家(めいか)、道家、法家、陰陽家の六家(六つの学派)であった。もっとも早く現れたのは儒家で、孔丘(こうきゅう)(孔子)を祖とし、孟軻(もうか)(孟子)、荀況(じゅんきょう)(荀子)らに受け継がれて発展し、有力な学派となった。儒家は伝統的な礼に立脚し、人倫の秩序と道徳を重んじ、それを実践できる人格(徳)を身につけることを目ざし、そのために仁・義・礼・智(ち)などの徳目を説くとともに、その成果を政治の場に拡大して徳治(為政者の人徳によって民衆の教化を図る理想主義的な政治)を主張した。この「優れた人格の形成」とそれを基盤とする「徳治」の構想は修己治人(しゅうこちじん)(己(おのれ)を修めて人を治む)の道とよばれ、以後長く儒家思想の基本をなした。墨翟(ぼくてき)(墨子)によって代表される墨家は、儒家と同様に仁や義を説く一面もあったが、半面、儒家を批判し、兼愛交利(自己を愛すると同様に他人をも愛し、自他が相互に利益を施し合う)、節用(倹約)、非攻(非戦論)など、功利主義的な主張をした。

 恵施(けいし)・公孫竜(こうそんりゅう)などに代表される名家(名は「語」の意)は、人の認識や言語の論理を分析し考察した。現在残っている名家の資料は「白馬非馬」のような詭弁(きべん)の命題が多いが、正当なものとしては「至大無外」「至小無内」などのように「絶対」あるいは「無限」の観念も自覚的に論ぜられた。道家の「無」の思想の成立は前記の名家の論理に関する考察の成果と無関係ではなかったと思われる。李耳(りじ)(老耼(ろうたん)・老子)と荘周(そうしゅう)(荘子)の著作として伝わる『老子』『荘子』によって代表される道家の思想は、「無」という性格をもった「道」を万物の根源としてたて、人はその無なる道に従って生きるべきだとして「無為自然」を説き、世俗の常識的・相対的な価値観にとらわれることなく、もろもろの執着を超越して絶対の境地に至ることが真に自己を全うする生き方であるとした。商鞅(しょうおう)(商子)と韓非(かんぴ)によって代表される法家は、儒家が重んずる自然発生的な不文律「礼」を時代後れのものとして否定し、時代の変化に適合した法(実定法)を制定・公布するとともに、信賞必罰主義によって、貴族・平民を問わずその法を厳格に守らせ、かつ民衆を農業生産と兵戦に精勤させうるとし、そのようにして富国強兵を図り、君主権の強化を目ざした。陰陽家は鄒衍(すうえん)に代表される、一種の自然哲学および歴史哲学をたてた人々で、陰陽と五行(ごぎょう)(木・火・土・金・水)を原理として自然界・人間界の万般の事象の成立・変化の諸相を説明しようとした。以上の六家のほかに、農業生産の重視を説く農家、合従連衡(がっしょうれんこう)など外交上の策略を論ずる縦横(じゅうおう)家、兵法を論ずる兵家(へいか)などがあり、また複数の学派の思想をあわせ含んでいて特定の一家の思想とみられないものは雑家(ざっか)とよばれた。

 春秋戦国時代は、周初(前11世紀)に成立した封建制度の政治体制が崩壊して中央集権体制へと移行してゆく過程にあたり、諸国のうち中央集権化をもっとも早く推進した秦が天下を統一する(前221)と、その中央集権体制(郡県制)を中国全土に拡大して施行した。以上に述べた先秦時代における思想の主たる担い手は士大夫(したいふ)の階層(大夫は諸侯の主要な家臣たる領主・貴族、士は諸侯や大夫に仕えて役人などになる階層)であったが、彼らはこのような変動の乱世において、混乱を収拾して安定を得るにはどうすべきか、またそういう動乱の世をどう生きてゆくべきかについて深刻に考え、活発な論議を展開した。それが諸子百家の思想の内容をなしたわけで、この時期にあらゆるタイプの思想が成立した。それらのうち、礼秩序を重んじ修己治人の道を説く儒家の思想は、治者階級のもっとも標準的な思想である。墨家は功利主義の立場から儒家の重んずる礼を批判した明らかに性格の異なる思想で、これを工人(手工業者)集団の思想とみる説も有力である。道家思想は常識的な社会生活に対して消極的ないし批判的な思想であった。法家は、封建制から中央集権体制へと変化しつつあった時代の流れにのった活動をしたわけで、その点で他の学派と性格を異にした。

 戦国時代末期から秦・漢初にかけて(前3世紀後半~前2世紀なかばころ)種々の面で思想の整理や理論の整備がなされた。また秦が天下を統一しその後を漢が受けて強力な帝国が成立すると、これを理論づける政治哲学が求められ、かつ思想の統制が図られた。秦代には法家思想による思想統一が行われ、儒家は焚書坑儒(ふんしょこうじゅ)の弾圧を被った。漢代の初期には黄老(こうろう)思想が流行し、これは、法家思想を土台として老子の虚静無為の説を取り入れた統治術およびそれに付随する処世観であるが、武帝(ぶてい)のころ(前2世紀後半)から儒家思想尊重の傾向が現れた。そして儒教によって天下の思想を統一すべき旨の董仲舒(とうちゅうじょ)の建策を武帝が受け入れて儒教国教化の道が開かれ、前漢末、成帝・哀帝のころに至るとその実があがって、諸子百家の多様な思想のなかで儒家思想だけが正統思想と認められる「儒家一尊」の状況が成立した。これをもって第2期の始まりとする。なお、秦の始皇帝以後の時期は第1期から第2期への過渡的な時期と考えられる。

[山井 湧]

第2期――経学と宗教思想

第2期の開始をなす儒家一尊の思想状況は、新の王莽(おうもう)の儒教尊崇政策によってさらに強化された。後漢(ごかん)も儒教尊重の方針を継ぎ、かくて儒家の教説が国家の政治や人々の社会生活の指導理念として公認され、それが表看板として掲げられる状況が、以後、清末に第3期が終わるまで2000年近く続くことになる。こうして儒家思想が権威をもつと、儒家の古典である経書(けいしょ)の権威が高まり、経書の研究・注釈が盛んに行われ、第2期を通じ、各経書について数えきれぬほどの注釈書がつくられた。経書として扱われる古典も、五経(ごきょう)(易(えき)・書・詩・礼(れい)・春秋)からしだいに数を増して十三経となり、一方、経書のテキストおよび解釈の整理統一を図る動きもあって、唐初に『五経正義』がつくられたのをはじめ、それを拡大して、第2期の終わりまでに『十三経注疏(ちゅうそ)』とよばれる標準的な注釈が成立した。このように注釈を事とする経学(けいがく)(経書を研究する学問)はきわめて盛んであったし、儒教は当時の知識人に必須(ひっす)の教養として重んぜられはしたが、その権威は多分に形式的で、思想としての活力に乏しく、実際に人々の精神生活に深いかかわりをもったのは、漢代では陰陽五行説や讖緯(しんい)説などの神秘思想であり、魏晋(ぎしん)時代(3~4世紀)には老荘思想、南北朝から隋(ずい)・唐にかけては、外来の仏教と新興の道教であった。

 陰陽五行思想は前漢・後漢を通じて盛行し、元来は先秦の陰陽家の系統を引く思想で、陰陽・五行の変化や結合によって自然現象や人間界の事象を合理的に説明しようとしたものであるが、しだいに非合理・迷信的な要素を増して神秘化した。讖緯は讖記と緯書とをいう。讖記は予言書。緯書は、天人合一思想、災異瑞祥(ずいしょう)思想、陰陽五行思想、神仙思想等々の神秘思想によって経書を解釈した書物をいう。讖は先秦から行われていたが、とくに漢代に流行して緯書の説にも混入した。緯書は前漢末から盛んにつくられ、緯書の説は正統の経学にも多く取り入れられた。漢代には儒家思想全体が神秘思想の影響下にあったといえる。

 魏晋のころには老荘思想が流行した。貴族のサロンにおいて政治談議や人物評論とともに玄学(げんがく)とよばれる哲学談議が盛んに行われて、三玄(『老子』『荘子』『易経』)の書が多く話題に取り上げられた。竹林の七賢(ちくりんのしちけん)などで有名な清談(せいだん)もこの種の談論であった。

 仏教が中国に伝来した年代は明らかでないが、第2期の初期に西域(せいいき)を経て伝えられたらしい。最初は仏陀(ぶっだ)が神仙と同一視された時期もあったが、やがて瞑想(めいそう)によって心を清め明智(めいち)を得る教えとして理解されるようになり、魏晋から南北朝にかけてしだいに盛んになり、多くの仏典(主として大乗(だいじょう)仏教の経典)がもたらされ漢訳された。その教義を中国人に理解しやすくするために、老荘思想など中国在来の思想やその用語を借りて説くことが、とくに魏晋のころに多く行われ、これを格義(かくぎ)仏教と称したが、道安や西域の人鳩摩羅什(くまらじゅう)らの本格的な仏典研究や訳経の力によって格義の域を脱して中国仏教の基礎を確立し、さらに法顕(ほっけん)や唐の玄奘(げんじょう)らのように自らインドに赴いて仏典の原書を持ち帰って漢訳するなどの努力もあって、しだいに正確にかつ深く理解されるようになった。また在来の思想とくに道教との摩擦や衝突があり、数次にわたって国家の廃仏政策による打撃を受けながらも発展を続け、とくに隋・唐の時期(6世紀末~9世紀)には名僧が輩出して、隋の吉蔵(きちぞう)らの三論宗、智顗(ちぎ)らの天台宗、信行(しんぎょう)らの三階(さんがい)教、唐の玄奘らの法相(ほっそう)宗、法蔵らの華厳(けごん)宗、道宣らの律宗、北インドの人不空(ふくう)三蔵らの密教、慧能(えのう)(南宗)・神秀(じんしゅう)(北宗)らの禅宗、善導(ぜんどう)らの浄土(じょうど)教など多くの宗派が成立し、中国独自の仏教が確立された。以上の中国仏教の展開を通じ、廃仏が行われた時期は別として、概して政治権力の庇護(ひご)を受け、国家鎮護の宗教として発展した。また、教義としてはきわめて高度の理論が展開されたが、民間においては直接的な現世利益(げんせりやく)を求めるための信仰という要素が強かった。

 道教は、後漢末の張角の太平道(たいへいどう)と、張陵(張天師)の五斗米道(ごとべいどう)に始まる。元来、罪過の懺悔(ざんげ)告白やお札(ふだ)、加持祈祷(かじきとう)などによって病気を治すようなことから出発したが、全生保身を説く道家の説や不老不死を求める神仙思想などを取り入れ、健康法や錬丹術その他、長生と福禄(ふくろく)を得る法を説く現世的な民間宗教として成長していった。道教は道家の説を取り入れた点があり、老子を教祖神のようにして祀ったが、老荘の道家思想と直接のつながりはなかった。教義としては、道家のほか仏教・儒教の説をも取り入れ、多くの神々を祀り、人々に善行を勧めた。民間宗教として出発したが、仏教と同様、国家の保護を受けて発展した面が大きく、唐代に至って最大の勢力を得た。

 第二期における思想の主たる担い手は、後漢末期から顕在化した貴族(豪族、大土地所有者)であったが、唐代後半期にその貴族の勢力が衰え、唐末・五代の軍閥割拠の時期を経て宋代に入ると、新しい地主階級による官僚制度に支えられた君主独裁政治が成立し、この地主・官僚(=知識人)層の思想として新しい儒学が形成された。この新儒学の成立をもって第三期が始まるのであるが、その先駆にあたるものとして、唐代後半期に陸淳(りくじゅん)らによる新しい春秋学の提唱と、韓愈(かんゆ)(退之(たいし))・李翺(りこう)らによる儒家哲学復興・深化の動きがあった。この時期は第2期から第3期への過渡期とみられる。

[山井 湧]

第3期――新儒学の展開

第3期は新儒学の時代である。新儒学は、第1期の原始儒教とも第2期の訓詁(くんこ)注釈を主とする儒学とも異なる儒学で、宋(そう)学ともよばれ、種々の分野を含むが、その中核をなす部分は性理(せいり)学(漢唐訓詁学に対して宋明(みん)性理学)とよばれる。

 性理学は理論の学つまり哲学であるが、経学の面をも備えていて、経書の所説(古(いにしえ)の聖賢の道)を深く読み取ってそれに拠(よ)るとともに、仏教の理論や老荘・道教の説をも批判的に受容して、従来の儒家思想に欠けていた高度の哲学理論を樹立し、その理論によって経書を解釈し直した。彼らが築き上げたこの独自の哲学理論体系に新儒学の大きな特色があるが、その学問の本質は、理論体系の樹立そのものにあったのではなく、つくりあげた理論に従って生活を律し自己の人格の修養に努めるところに存した。

 宋学(とくに性理学)を大成したのは南宋の朱熹(しゅき)(朱子)で、朱熹は北宋の周敦頤(とんい)(濂渓(れんけい))、張載(ちょうさい)(横渠(おうきょ))、程顥(ていこう)(明道(めいどう))、程頤(伊川(いせん))や邵雍(しょうよう)(康節)らの哲学を継承し、とくに程頤の学説を多く取り入れてそれらを総合整理し、朱子学とよばれる独自の学説を打ち立てた。朱熹の哲学理論は理と気とを基本にして構成された。気は物質の根源であり、理は事物のあり方を規定する存在の原理であった。理はまた「人はかく在るべし」という人間性の理想の典型であり、かつ「人はかく為(な)すべし」という道徳的規範でもあった。朱熹の本体論は、すべての事物は理と気とによって成立し存在すると説く理気二元論であったが、気よりも理を根源的な存在として優越させる「理の哲学」というべき立場をとった。人の性についても、「性即理(せいそくり)」(性は即(すなわ)ち理なり)の命題をたてて、理によって性を説き、人の性は純粋に至善であるとする性善説をたてた。そして人はあらゆる事物の理を認識し、心を理に合致した状態に保ち、理に従って行動すべきであり、それが学問(=修養)であるとした。また華夷(かい)(中華と夷狄(いてき))の区別や五倫の名分を明らかにすべきことを強調した。朱子学は朱熹の没後しだいに世に広まり、朱子学を信奉ないし継承する学者が数多く出た。また元(げん)代の科挙の試験では、経書の解釈として朱子学系の注釈の説が採用され、明の永楽(えいらく)年間(15世紀初)以降は朱子学の官学としての地位がさらに強化されて清(しん)末に及んだ。

 朱子学と異なる思想としては、同じ儒家思想内部で、朱熹と同時代の陸九淵(きゅうえん)(象山(しょうざん))は、朱熹が説くような事物の理を知ることよりも、もっと直接的に心の修練に努めるべきだとする「心学」を主張し、また陳亮(ちんりょう)(龍川(りゅうせん))、葉適(しょうてき)(水心)らの事功学派は、功利主義の立場から朱子学を観念的、非現実的であると批判し、それぞれ朱熹との間で論争が行われた。

 元代に朱子学は華北の地にも広まり、明代初期の儒学は朱子学一色であったが、そのなかから心学の要素が成長して、陳献章(ちんけんしょう)(白沙(はくさ))あたりから朱子学を離れ、王守仁(おうしゅじん)(陽明(ようめい))に至って陽明学として大成された。陽明学は「心即理(しんそくり)」「知行合一(ちこうごういつ)」「致良知(ちりょうち)」説を中核とし、なかでも自己の心の良知(是非善悪を判別できる先天的な知力)に信頼し、良知の判断のとおりに行為せよという「致良知(良知を致(いた)す)」の教えを究極とする、心重視かつ実践重視の哲学であった。一方、王守仁と同年代の羅欽順(らきんじゅん)(整庵)、王廷相(ていしょう)(浚川(しゅんせん))らは、朱子学で説くような「気よりも根源的な存在原理である理」を認めず、気は気独自に存在し変化運動して事物を形成するとし、理よりも気を根源的な存在とみる「気の哲学」(気一元論)の立場をとった。「気の哲学」はその後も発展して、清代中期の戴震(たいしん)に至って理論的に完成された。戴震によれば、人の性も気だけによって成立するものとされ、したがって気すなわち肉体に付随する情や欲(朱子学では情や欲は悪の原因となる面を強調して否定的にみられた)を性に固有のものとして積極的に肯定し、そのうえで性善説を唱えた。朱熹の「理の哲学」は、理という社会規範を重んずる哲学であるがゆえに官学となるべき資格をもっていたが、「気の哲学」は現実の生活をたいせつにしようという哲学であり、王守仁の心学(「心の哲学」)は心の権威、自己の主体性を重視する哲学であって、その意味でこの両者は本来非官学的な性格をもっていた。

 しかし両者ともに、朱子学が説く規範と別個の原理に基づく新しい道徳を確立することができなかったので、その点においては朱子学の枠を脱しきっていなかったし、また朱子学を倒してそれにかわる力ももたなかった。さて修養の学としての宋明性理学は陽明学の致良知説をもって行き止まりとなった。王守仁出現後の儒学界では、朱子学よりも陽明学のほうが優勢な時期があり、王守仁の没後も、2、3の派に分かれながら、17世紀初頭まではなお王学が盛んであったが、その後王学は衰え、あわせて修養の学としての性理学の発展が止まった。

 明末清初(17世紀なかばごろ)の混乱期には、これにかわって経世致用の実学が提唱され、政治論や史論が活発に展開されたが、清朝の中国支配が確立して世情が安定すると、実学の要素が薄れ、18世紀から19世紀初めにかけて清朝考証学とよばれる実証的な古典学が学界を風靡(ふうび)した。その古典研究の成果により、従来の古典解釈に修正を要する箇所が多く生じたが、名教(儒教)としての朱子学の権威は揺るがなかった。なお、19世紀には政治色の強い公羊(くよう)学が盛んになり、そのなかから政治改革を試みる人々も現れた。

 隋唐時代に隆盛を極めた中国の仏教は、第2期の末期に唐の武宗(ぶそう)の廃仏(845)と五代後周(こうしゅう)の世宗(せいそう)の廃仏(955)と2回の弾圧を被り大きな打撃を受けたが、その後、禅宗と浄土教が生き残って、第3期にはこの両者を中心に諸宗兼修の形をとることが多く、融合的で民衆的な仏教が行われた。禅宗は不立文字(ふりゅうもんじ)を標榜(ひょうぼう)し、仏典の学習によるのではなく、打坐禅定(だざぜんじょう)を通じて自力によって仏理を悟ることを目ざし、浄土教はひたすら念仏することによって極楽(ごくらく)浄土に往生(おうじょう)しようと願う、両者ともに簡明で、とくに浄土教はもっとも民衆的な教えであって、幅広い帰依(きえ)を得た。道教は、唐代に盛んであった後を受けて、宋代にも民間宗教として栄えた。南宋のときに金の支配する華北において新しい道教が生まれ、そのうち王嚞(おうてつ)(王重陽(おうちょうよう))が始めた全真教は、呪術(じゅじゅつ)性を排し打坐修養して道を悟ることを目ざし、倫理的な実践を重んじ、教団活動も盛んであった。

 儒・仏・道三教の間において、儒教の側では仏・道を異端視して排撃する風がつねに存したが、朱子学や陽明学も元来それらの学説を受容した面があったし、とくに陽明学の系統から三教の調和合一を説く人が多く出た。仏教では、仏教内部でも諸宗の融合・兼修、とくに禅と浄土との融合が説かれたし、明末にはさらに三教合一論も現れた。また道教の方面では、こういう三教合一の風潮を背景に、善書(因果応報勧善懲悪の思想に基づいて人々に善行を勧め、善果を得させることを目ざす書物)が多くつくられて普及した。

 唐初(7世紀)に景教(ネストリウス派キリスト教)が伝えられたことがあったが、それから数百年を隔てて、明末(16世紀末)にイエズス会の宣教師たちがカトリックのキリスト教を中国に伝えた。その第一人者イタリア人マテオ・リッチ(中国名利瑪竇(りまとう))は、1583年に中国本土に入り、1601年に北京(ペキン)で公式に布教活動を始めた。ほかにも相当数の宣教師が次々に渡来して、士人や民衆の間に布教を試み、ある程度の信者を獲得したが、キリスト教自体よりも、むしろ宣教師たちがもたらしたヨーロッパの科学技術(主として数学・天文学あるいは測量・水利・兵器等に関する)が中国に歓迎され、とくに天文暦学の面では、朝廷でもその優秀さを認めて公式に採用するに至った。これらのヨーロッパの学問は、明・清を通じて中国人のこの方面に対する関心や研究心を刺激して、学問の進歩に寄与するところが大きかった。

 王陽明の心学や羅欽順らの「気の哲学」が現れた16世紀以後(あるいは陽明学が衰えた明末清初17世紀以後)を第3期から第4期への過渡期とする。

[山井 湧]

第4期――伝統思想の変容

1840~42年のアヘン戦争に象徴される欧米の資本主義経済の中国進出に伴い、中国の西洋近代文化との接触が思想の面をも含めて増大し、これによって伝統思想が衝撃を受け、中国人の思想が近代化するに至る。これが第4期である。アヘン戦争でイギリス軍に敗れたのち、太平天国の大乱(キリスト教を奉ずる宗教反乱で、同時に清朝に対する農民の革命運動でもあった)その他の反乱がたびたび起こり、またアロー号事件によってイギリス・フランス連合軍の攻撃を受けるなど、中国は次々に多難な局面を迎えた。この危機を乗り切るために、軍用の火器をはじめ西洋の進んだ科学技術を取り入れることの必要を痛感した有力な官僚たちが、西洋式の工場を設立して兵器や艦船の製造に力を入れた。これを洋務運動といい、それを裏づける理論として中体西用(ちゅうたいせいよう)論が掲げられた。人倫道徳など根本の精神的基盤(体)は中国の伝統的な名教をよりどころとし、実用的な知識や技術の面(用)では西洋の進んだ部分を取り入れて利用しようという考え方である。政治の面では、公羊学者の康有為(こうゆうい)らによる変法(へんぽう)運動が企てられた。日本の明治維新に範をとり、立憲君主制を目標に清朝の政治の大変革を図ったもので、光緒(こうしょ)帝はこの意見をいれ、1898年に諸制度の改革に着手した。これを戊戌(ぼじゅつ)の変法という。しかしこの新政は100日ほどで西太后(せいたいこう)ら保守派のクーデターにつぶされ、変法は失敗に終わった。

 洋務運動や中体西用論は技術の末端だけ西洋の文化を利用しようという発想であり、変法運動は政治や経済の制度などまで西洋の近代的な要素を取り入れたが、基本的には中国の伝統文化を守る姿勢を崩さず、西洋に関する知識も十分ではなかったが、19世紀末から厳復(げんふく)が翻訳したT・H・ハクスリーの『天演論』Evolution and Ethics(邦訳『進化と倫理』1898)をはじめ多数の訳書がつくられ、西洋の思想・文化の大量な紹介・輸入が始まって、かくて外来の近代的諸思想との本格的な対決あるいはその受容が行われるようになった。ただこの点についての中国人の対応はさまざまで、欧化反対論や伝統文化護持の主張も後まで根強く存在し、種々の論点をめぐって多くの討論が繰り返されたが、そういう多年にわたる苦悩の時期を経て、大勢としては西欧思想を受け入れ、中国の思想自体が近代化する方向に進んでいった。これに伴い、清朝に対する革命思想も盛んになった。その代表的なものは孫文(そんぶん)の三民主義(民族・民権・民生主義)で、それは儒教的な基礎のうえに民主主義と社会主義の要素を加えたものであった。民族主義は、滅満興漢を旗印とする反清朝の面と外国の圧迫に反発する排外的な面とをあわせもっていた。孫文らの革命運動は1911年の辛亥(しんがい)革命を成功させ、清朝が滅んで中華民国が誕生した。ただしその後も北洋軍閥の袁世凱(えんせいがい)らが政権を握り続け、革命の実はあがらなかった。

 第一次世界大戦終結の講和条約が結ばれるにあたり、日本が中国に提示した21か条の要求に対する中国人の不満が爆発し、1919年5月4日の北京の学生たちによる示威運動に始まってその抗議活動が全国に波及し、かつ政治運動のみにとどまらず大きな文化運動に発展した。これを五・四(ごし)運動とよぶ。その主流をなした思想は、中国の現状を、対外的には半植民地、国内としては半封建制の域を脱せぬ段階ととらえて、反帝国主義・半封建の立場をとり、伝統思想を批判して近代化の徹底を期したもので、とくにデモクラシーとサイエンスを摂取することの必要性を強調し、また社会主義の色彩を多分にもっていた。

 1921年に陳独秀(ちんどくしゅう)らが中国共産党を結成、孫文の主宰する国民党はこれと提携(国共合作という)して国民革命を推し進め、孫文の後を継いだ蒋介石(しょうかいせき)が北方の軍閥を倒すための北伐に成功して、南京(ナンキン)に国民政府を開き主席に就任したが、蒋介石は復古調の政策をとって共産党と対立し、国共は分裂した。

 1931年におこった「満州事変」以後、「日華事変」、第二次世界大戦と、中国には長い抗日戦争の時期が続いた。この間、共産党は毛沢東(もうたくとう)が主席となり、第二次国共合作が成立して抗日民族統一戦線が結成されたが、その後も、1945年の日本降服を挟んで国共の内戦が繰り返された結果、1949年に共産党による中華人民共和国が成立して、毛沢東の新民主主義に基づく社会主義国家の建設が始まった。しかし思想的にも政治・経済的にも種々の問題を残しており、軌道修正を行いながら、現在その建設途上を歩みつつある。

[山井 湧]

『赤塚忠他編『中国文化叢書2 思想概論』(1968・大修館書店)』『赤塚忠他編『中国文化叢書3 思想史』(1967・大修館書店)』『宇野精一他編『講座東洋思想 第2~4巻 中国思想Ⅰ~Ⅲ』(1967・東京大学出版会)』『本田濟編『中国哲学を学ぶ人のために』(1975・世界思想社)』『小野沢精一他編『気の思想――中国における自然観と人間観の展開』(1978・東京大学出版会)』『戸川芳郎著『古代中国の思想』(1985・日本放送出版協会)』『山井湧他著『中国文化全書1 中国思想概論』(1986・高文堂出版社)』

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改訂新版 世界大百科事典 「中国思想」の意味・わかりやすい解説

中国思想 (ちゅうごくしそう)

一国の文化ないし思想は,その文化の担当者がいかなる身分職業に属していたかによって決定的な刻印を受ける場合が多い。インドの思想に宗教色が強いのは,文化の担当者がバラモンという祭司階級であったためであるといわれる。これに対して中国思想に政治色が濃いのは,その担当者が士大夫とよばれる政治家・官吏であったという事実によることが多い。

中国思想の根底にはつねに天の観念があるが,そのの崇拝の起源については,従来は農耕生活との関連から説明されるのが普通であった。しかし近来は文化人類学の研究成果から,天の崇拝は本来東アジアから中近東にかけての遊牧民族の信仰から生まれたとする説が有力になった。この線に沿って考えると,前12~前11世紀ごろ西北部に進入して新王朝を立てた周は,もともと遊牧部族であったと推定されるから,天の信仰はこの周の部族が中国に持ちこんだものと思われる。ただ周はまもなく農耕生活に移ったので,天の神も農業神の性格を持つようになったのであろう。この段階での天は人格神として人々の上に臨み,支配者たる王朝も天の意志のままに決定されるものとした。このころは中国もまだ祭政一致の段階にあった。しかし周も中期の春秋時代になると,天はしだいに人格神の性格が稀薄になり,天は〈天道〉という道・法則に転化し,非人格化が進行した。ついには孔子の〈鬼神を敬して遠ざく〉という言葉のように,宗教離れの傾向が著しくなった。ただ,その孔子が祖先崇拝を重視したのは矛盾のように見えるが,それは孔子が家族制度の維持強化を図るために,祖先崇拝のもつ現実的機能が必要不可欠であることを認めた結果にほかならない。もと周の王朝は一族を諸侯に封ずるという封建制度の上に成立していたので,家族結合が天下の秩序を支える原理になっていた。春秋時代になると天子や諸侯相互の間の家族連帯の意識が薄れ,実力による抗争が激化した。孔子は周初の封建制の精神への復帰を理想としたので,家族道徳の強化に努めるとともに,力による政治を否定し,道徳による政治を強調した。これが儒教の根本精神となったのである。

 孔子の直後に戦国の諸子百家の時代が始まる。諸子百家とは何か。相次ぐ弱小国家の興亡の結果,亡国の大夫や士が失職し,大量のインテリ浪人が発生した。彼らは再就職の機会を求めて,諸侯の間にみずからの理想を遊説した。いわば国家経営を専門とするコンサルタントの群れである。これが諸子百家にほかならない。儒家の道徳政治説,墨家の兼愛説,法家の法治説,兵家の兵法説,道家の無為自然説など,その説くところは多彩を極める。このように変化に富む思想が一時に現れたのは,以後の中国史にもその例がない。そこには戦国の無秩序による思想の自由があった。

秦はわずかに15年間で終わったが,始皇帝は後の中国の国家体制に決定的な刻印を残した。それは周の封建制を廃して郡県制を樹立したことである。周の封建制では,諸侯はもちろん,その家臣の大夫や士もその身分を世襲した。ところが始皇帝はいっさいの世襲制を廃し,天下を郡と県の行政区に分かち,一代限りの官吏に治めさせた。いわば明治維新の廃藩置県と同じ措置を断行したのである。以後の中国は20世紀間にわたり,この官僚制国家の体制を維持した。この体制が中国の思想や文化一般に及ぼした影響の深刻さは,まことに測り知れないものがある。

 漢の王朝は,秦の弾圧政策が人心を失ったことに省みて,その初期の70余年間は自由放任の政策を採った。そのためこの時期には道家の老荘思想が全盛を極めた。老荘は無為自然を理想とするが,政治的には自由放任の立場となって現れる。しかし漢も武帝の世になると,王朝の基礎も固まり,積極政策の必要も生じてきたので,ここに老荘から儒家への転換が行われ,儒学が王朝公認の官学に定められた。以後,歴代の王朝はこれに倣い,2000年にわたって儒教の支配が続くことになった。同時に武帝は,始皇帝以来の郡県制・官僚制を整備し,民間で儒学の教養を備えた人物があれば,地方官の推薦を通じて,これを官吏に登用する制度を定めた。これによって学問教養を備えておれば,なに人も官吏となりうる道が開かれた。しかも官吏となれば権力,名誉,収入が約束されるから,その魅力は絶大である。そのため,いやしくも学問教養のあるものは,こぞって官界に集中することになった。ここに知識人即官吏・官吏即知識人という中国独特の公式が成立する。中国思想に政治色が強いのは,官吏が文化を独占してきた結果にほかならない。このため漢代400年の文化は,政治色・儒教色によって塗りつぶされる結果となった。

漢代が政治・文化の時代であったとすれば,これに続く六朝400年は哲学・宗教・文学・芸術の時代であった。その転換は知識人の性格の変化によるものである。具体的には,漢代文化の担当者であった官吏が,六朝に入って貴族化したことによる。漢代の官吏の身分は一代限りのものであったが,後漢の中期以後,官吏を出す家柄が固定化する傾向が現れ,ついには官吏の身分が世襲化し,貴族化するようになった。貴族の通性の一つは政治や道徳に対して冷淡であり,文学,芸術,宗教などに強い関心を示すことである。六朝文化は,まさにこのような特徴をもつ貴族文化であった。この変化はまず老荘思想の全盛となって現れる。六朝初期,早くも竹林の七賢をはじめとする老荘思想家が輩出し,儒教の礼を無視した行動をとり,また同志の者が集まって清談の会合を楽しむ風が流行した。この時代では儒教の《易経》と《老子》《荘子》を合わせて三玄とよび,その学問を玄学とよんだが,知識人の教養としては儒学よりは玄学の比重が圧倒的に大きくなった。

 またこれとともに注目すべきことは,この時代になって初めて仏教が知識人の関心をひくようになったことである。その際仏教が六朝の知識人の心をとらえたのは,第1点は仏教の根本義である〈空〉が老荘の〈無〉に通ずるものをもつこと,第2点は従来の中国にはまったくなかった輪廻(りんね)説,三世報応説をもたらしたことである。ここでは第2点について見よう。人生が現世だけのものでなく,過去に無限の前世をもち,死後にも無限の来世を繰り返すという説は,それだけでも中国人にとっては驚異の新説であった。のみならず前世の行為の善悪が現世の禍福をもたらし,現世の行為が来世のあり方を決定するという三世報応の説は,従来儒教では難問とされてきた道徳と幸福の一致の問題に,みごとな解決を与えるものであったから,その魅力は絶大であった。このため六朝人は,ここにこそ仏教の本義があるとし,三世報応説を通じて仏教にひかれて行った。六朝が隋・唐とともに仏教の黄金時代となった理由はここにあるといえよう。また仏教以外の宗教では,後漢末の五斗米道(ごとべいどう)によって基礎を築かれた道教が,主として庶民を対象としながらも,六朝知識人の一部にも受け入れられるようになった。ここにも六朝人の宗教性を示すものがある。

隋・唐の知識人も貴族的官僚であることでは六朝と変わるところはなかった。このため隋・唐の思想界も根本的な傾向において,六朝と同一の状態にあった。ただ隋・唐では,仏教の優位が一段と強まり,その規模もいっそう壮大になった。中国特有の宗派仏教が一斉に成立したのも,その現れである。これに対して儒学は官学の地位を保ちながらも,知識人の生活原理として機能する力に乏しくなっていた。道教は王朝の特別な保護を得て,仏教とならぶ隆盛を示したが,これまた知識人の生活原理となるには力不足であった。隋・唐の知識人の精神を支えたものは仏教であり,文学・芸術である。ここにも六朝風の貴族の特性が現れている。ただ唐の中期に安禄山の乱が生じてからは,知識人の間にも危機意識が芽生え始め,儒教精神の復興の必要を唱える者も現れた。韓愈(退之)が仏教の排斥を叫び,その弟子の李翺(りこう)が復性・主静を説いて宋学の先駆となったのは,その一例である。しかしそれらはまだ胎動の域を脱しなかった。他方,仏教は唐末の武宗の大規模な排仏事件にあい,再起不能なまでの打撃を受けたが,ひとり禅宗と浄土教のみがその全盛を続け,次の宋代に引き継がれていった。

唐末から五代50年の戦乱の間に,世襲貴族の経済的地盤はあとかたもなく失われ,宋代に入ってからの知識人は再び漢代風の一代限りの官吏に帰り,政治的関心を取りもどした。加うるに宋代には知識人の政治的関心を刺激する問題が山積していた。宋一代は絶えず北方部族の脅威にさらされ,北宋はついに金に滅ぼされ,江南に移って南宋を再建したが,その南宋もまた金との不断の緊張状態におかれた。知識人の間に,個人の心の平安のみを求める仏教などに頼るべきでないという反省が生まれるのは当然である。それは同時に儒教精神の振興につながるものであった。ただ儒学が仏教を克服するには,これに対抗するだけの哲学が必要となる。旧来の儒教の哲学は弱体であるから,これを補強することが急務である。この要求に答えて現れた哲学的儒学が,すなわち宋学である。しかし,その哲学は儒学に内在するものだけでは不十分であるため,老荘や仏教の教理で補強する必要があった。特に宋代は禅宗の全盛期であり,知識人の精神にも深く浸透していた。このため宋学の理論が禅宗色を帯びていることは否定しがたい。しかし宋学はこの哲学を,あくまでも政治・道徳の実践の原理たらしめようとしたのであって,禅宗が出家超俗を理想としたのとは,その立場が本質的に異なっている。この宋学は南宋の朱熹(子)によって大成された。

 朱子学を構成する個々の要素は,すでに北宋の宋学で準備されたものが多く,朱子の独創と見るべきものは少ないが,これらを論理的に整合し,一つの完結した哲学体系としたのは朱子の力である。それは哲学,政治,歴史,科学を包括する壮大な学問体系であった。この朱子学は同時代人の絶大な支持を得たが,ただちに朝廷の公認を得たわけではなく,かえって一時は〈異学の禁〉を受けたこともあった。それが官学となるのは元代に入ってからである。ただ,この朱子学は仏教の天敵ともいうべきもので,朱子学の隆盛に反比して,中国仏教は宋,元,明,清と時代が下るごとに衰退を重ねた。同様の現象は朝鮮の李王朝や,日本の江戸時代についても見られる。

 同じ南宋に,朱子学に対立する思想家が生まれた。それは朱子と同時代人の陸九淵(象山)である。両者の立場の相違は,人間の心の見方の違いから始まる。朱子は人間の心はそのままでは不完全であるとし,これを完全にするためには読書によって心外の理を究める必要があるとした。これに対して陸象山は,人間の心は完全な理を備えたものとする〈心即理〉の説を唱え,読書などによって外物の理を追求することは,本を忘れて末に走るものだと非難した。陸象山の立場は純粋主観主義であり,唯心論である。その点において仏心宗とよばれる禅宗に近い。この陸象山の説も少なからぬ支持者を得たが,やがて朱子学の隆盛に押されて学統が絶えた。その再興は明の王守仁(陽明)をまたなければならなかった。

元代100年間はモンゴル族の征服王朝であり,中国の伝統文化を無視することが多く,強力な武断政治を行った。このため思想界も沈滞を余儀なくされ,儒学もまた不振の状態にあった。ただ4代の仁宗が中断されていた科挙を復活し,朱子学を官吏登用の条件としたのが注目される。この制度はそのまま明・清時代にも継承された。これは当時すでに朱子学が儒学を代表する地位を確保していたことを物語るものである。

 ラマ教が元朝に隆盛を極めたのは有名であるが,それは宮廷を中心としたもので,一般庶民の間にまで及ぶものではなかった。それよりも新道教がこの時代に普及したことが社会的には重要である。この新道教は,元朝に先立つ金朝,すなわち北宋を滅ぼして中国の北半を支配し,南宋と対立併存した女真族の王朝の時代に生まれた。金朝支配下の華北地方は戦禍のために民衆の生活は荒廃の極にあった。この状況に応じて現れたのが,王重陽を教祖とする全真教や,太一教,真大道教などの新道教である。これらの新道教に共通する特徴は,旧道教の練丹や不老長生を説かず,庶民の生活に密接した実践道徳に中心をおいたことにある。同時に上層の知識階級への配慮も見られ,特に全真教では禅宗の教義を大幅に取り入れ,見性のための打座すなわち座禅の必要を強調する。また三教一致の説を唱え,儒仏道の三教は鼎(かなえ)の3本足の関係にあるとし,信者に《般若心経》《老子道徳経》《清静経》《孝経》を読むことを勧めた。この金代の新道教,特に全真教は,元代に入るとともにその極盛期を迎え,ラマ教に対抗するほどの勢力をもった。しかしその基礎が安定するにつれて,かつての革新的な気風を失い,やがては旧道教風の不老長生のための練丹術や,巫祝的な祭祀も復活し,ついには旧道教と区別のないものになっていった。

明代300年間は中国人の王朝をいただき,全体としては平和な時期が続いた。このため江南地方を中心に経済的な発展が著しく,これに伴って文化もまた爛熟の極に達し,やがては退廃の兆しさえ見えるようになった。このことは《三国演義》《水滸伝》《西遊記》《金瓶梅》などの小説戯曲類の流行に端的に示されている。思想の世界もまたその例外ではない。朱子学は科挙を通じて官学の地位を保持していたものの,しだいに形骸化して本来の儒教精神の活力を失うに至った。その原因は,朱子学が人間の知性・理性に重きをおき,倫理的には厳粛主義に陥る傾向があったことにある。理性よりも情意を重んずる明代人には,朱子学の理性主義に代わる哲学への待望があった。そこに現れたのが王守仁(陽明)の哲学である。陽明学は宋の陸象山の主観主義的な心学の性格を継承し,人間の心性に先天的に備わる良知を極め尽くすという〈致良知〉を学問修養の目的とした。しかもその知は実行を通じてのみ得られるという〈知行合一〉を強調した。

 この陽明学の立場は,自分の心で正しいと確信したものが真理であり,その真理はただちに実行に移すべきであるという。強い主観主義と行動主義に支えられている。またそれは必ずしも学問知識を要しないという点で,簡易直截である。これが情意を尊ぶ明代知識人の共感を誘うとともに,無学な農民や商人の一部にさえ支持者を得た理由である。ただし,その強い主観主義のために,左右いずれの方向を採るかは自由であり,陽明学派ではさまざまな分極化が進行した。明が清に滅ぼされたとき,節を守って殉じた大儒劉宗周を右派の代表格とすれば,左派の代表者は李贄(りし)(卓吾)である。

 李卓吾は王陽明の良知説を発展させて童心説を唱え,自然のままの童心に帰るべきことを主張した。その童心は私欲すなわち勢利(地位財利)の欲望を含むものであり,聖人といえども人間である以上,私欲をもつものである。人間は自然の性情のまま生きればよいのであって,不自然な道徳に拘束される必要はない。この李卓吾の本能的自然主義ともいうべき立場は,《荘子》の外篇・雑篇にみえる後期道家のそれに酷似しており,もはや儒学である陽明学の範囲からも逸脱するものといえよう。この李卓吾の説は明代の爛熟期の風潮に合致するものであったから,多くの共鳴者を得た。しかし同時に守旧派からの攻撃も激しくなり,76歳のとき官憲に捕らえられて獄中に自殺し,その著作は禁書となった。

 このように陽明学に左右の振幅が大きいのは,その徹底した主観主義がもたらした結果であるといえよう。

 他方,仏教界では宋代から始まった儒仏道三教の一致を唱える融合思想がいよいよ盛んになるとともに,仏教内部の諸宗の間においても著しくなり,禅と華厳,禅と念仏の融合が行われた。なかでも禅と念仏の双修は最も盛んで,いわゆる念仏禅が仏教界の主流の位置を占めることになった。明末の仏教界の最後を飾った四大師はみなそれであり,なかでも雲棲袾宏(うんせいしゆこう)は,その代表者である。次の清朝に入ると,仏教といえば念仏禅をさし,隋・唐以来の諸宗はすべて姿を消すという状態になった。これは朝鮮でも同様であり,ひとり日本だけが諸宗並立のかたちを残している。

清朝は満州族の建てた征服王朝であるが,しかし元朝とは異なり,つとめて中国民族の宥和を図る政策を採った。特に初期から中期までの康煕・雍正・乾隆の諸帝は好文の君主であり,盛んに文化事業を興して明代以来の官僚知識人を懐柔することに努めた。このため清代は儒学の全盛期の一つとなったが,しかしその儒学の内容は宋・明時代のそれとは著しく異なるものとなった。朱子学が官学としての権威を保っていたことには変りはないものの,一般の知識人はもはや朱子学や陽明学の哲学を空疎で無内容なものとして省みず,もっぱら経典や史書の実証的研究に向かった。それでも清朝考証学の祖とされる顧炎武や黄宗羲(こうそうぎ)などには,明末の朱子学や陽明学にもとづく経世の志が見られるが,その後は純粋学術研究に没頭する傾向が著しくなった。

 この清朝考証学の成果は,今日に至るまで高い評価を受けているが,反面において思想的内容に乏しいという代償を伴うものであった。ただこの間にあって考証学の大家である戴震が,朱子学の理性中心主義を否定し,人間の情性尊重の立場を主張したのが異彩を放っている。もし人間性の尊重が近代思想の特徴の一つであるとすれば,これはまさに近代の萌芽を示すものといえよう。この戴震にきわめて近い主張は,日本の古学派の祖の伊藤仁斎にも見られるが,それが戴震よりも70年以上も先立っていることが注目される。しかも戴震の論がさほどの反響を呼び起こさなかったのに反し,仁斎は多くの共鳴者を得たばかりでなく,後の思想界にも大きな影響を残した。それは両国の近代化の機運に遅速の差があったことを示すものといえよう。

 しかしその後,1840年(道光20)のアヘン戦争,51年の太平天国の乱を経験することにより,さすが大清帝国も内外両面の重大な危機を迎えることになり,思想界にも変革の機運が生まれた。その変化はまず儒学の世界に現れる。乾隆・嘉慶の考証学の全盛期が終わるとともに,孔子を政治制度の改革論者と見る公羊学(くようがく)が現れて有力になった。この派からは清朝末期に康有為が出た。彼はその《大同書》において,人類社会の最後到達点は国家・階級・人種・男女・家族の区別がない大同の世であるとした。そこには西洋思想の影響があるとしても,儒家の経典の《礼記(らいき)》礼運篇を中心に構成されたユートピア思想である。しかし康有為は理想の実現にはきわめて慎重で,日本の明治維新に範をとり,現在の清朝を立憲君主制に改めるという方向をとった。このため革命機運の進展とともに,彼は保守反動論者と目されるに至ったが,これは儒学から出た者のもつ宿命であろう。

 民国革命のあと,袁世凱(えんせいがい)が帝政の復活を企てたときにも,儒教を利用しようとしたことがあった。しかし1919年の五・四運動の際に,雑誌《新青年》に拠った陳独秀,呉虞(ごぐ)などを中心に激しい排孔論が展開され,家族制度の護持を図る儒教こそ近代化の敵であり,君主専制の根拠を提供するものとして,痛烈な批判を加えた。以後,曲折はあったものの,毛沢東政権の確立とともに,思想界はマルクス主義によって支配されることになった。
中国哲学
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