中原氏 (なかはらうじ)
明経(みようぎよう)道の博士家で,また代々局務(きよくむ)(大外記(だいげき)の上首)を世襲した氏。本姓は十市宿禰(とおちのすくね)。大宰少典勝良の孫有象のときの971年(天禄2)に中原宿禰を賜り,さらに974年(天延2)に朝臣(あそん)となった。代々太政官の大外記,少外記に任ぜられた。またこれとともに,勝良の子良佐が明経道の教官となって以後,代々明経博士に任じられ,このため清原氏とともに明経博士を世襲し,明経道が家学となった。鎌倉初期,広季の子中原親能は御家人(ごけにん)となり,その子能直は豊後に所領を得て大友氏の祖となっている。また政所別当(まんどころべつとう)となった大江広元(おおえのひろもと)は,鎌倉下向以前,広季の養子となっていたことがある。南北朝時代には,明経博士で《師守記》の著者として知られる庶流の師守が押小路(おしこうじ)を称した。嫡流も室町時代後期の師富(もろとみ)(1434-1508)のころから家の名を押小路と称した。局務の押小路家は官務の壬生(みぶ)家とともに地下(じげ)官人の棟梁とされ,儀式公事には外記方官人の催沙汰(もよおしざた)をつかさどった。江戸時代の家禄76石。1884年師成のとき男爵を授けられた。
執筆者:幸田 憲
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中原氏
なかはらうじ
本姓は十市宿禰(とおちのすくね)で、大宰少典(だざいのしょうてん)勝良(かつよし)を祖とする。勝良の孫有象(ありかた)は965年(康保2)から967年にかけて『類聚符宣抄(るいじゅうふせんしょう)』に大学博士(はかせ)十市宿禰とある。有象のとき初めて中原氏を賜り、974年(天延2)朝臣(あそん)を賜った。有象および父春宗(はるむね)はともに少外記(しょうげき)となり、有象の子致時(むねとき)は大外記となり、清原氏と並んで明経道(みょうぎょうどう)の博士家として家学を伝え、またいわゆる局務家として一家をなした。南北朝時代の初め、大外記師右(もろすけ)の二男師守(もろもり)に至って初めて押小路(おしこうじ)を称したが、嫡流にあっても室町時代中期、大外記師富(もろとみ)のころから同じく押小路を称し、子孫は長く大外記職を世襲して、壬生(みぶ)家とともに両局と称された。南北朝期の重要史料『師守記』をはじめ、江戸時代を通じての歴代の家職日記がある。
[福井俊彦]
『布施弥平治著『明法道の研究』(1966・新生社)』
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中原氏
なかはらうじ
安寧(あんねい)天皇の皇子磯城津彦(しきつひこ)命の後裔と伝えられる氏族。本姓は十市宿禰(とおちのすくね)。971年(天禄2)中原宿禰に,974年(天延2)朝臣に改められる。明経道(みょうぎょうどう)の家として明経博士・助教に任じられる者が多く,平安中期の有象(ありかた)以来,嫡流は清原氏とともに外記局を主宰する大外記(局務)を世襲し,室町時代以降,押小路家(おしこうじけ)を称する。有象の子致時(むねとき)の庶流からは明法道の中原氏が出た。致時の孫範政(のりまさ)が1097年(承徳元)明法博士に就任して以後,子の範光・明兼(法家坂上氏の祖)の2流にわかれて世襲。また蔵人所(くろうどどころ)出納を勤めた中原氏は有象の5代の孫師元(もろもと)の養子祐安(すけやす)の子職国(もとくに)に始まり,平田家を称した。
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中原氏
なかはらうじ
古代以来の廷臣。初め十市宿禰 (とおちのすくね) を称したが,天禄2 (971) 年中原氏を称した。大外記を世襲。明経道 (みょうぎょうどう) ,明法道 (みょうぼうどう) の博士家。嫡流は室町時代から押小路 (おしのこうじ) 氏を称し,明治には男爵を授けられた。
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中原氏
なかはらうじ
平安時代以来の明経 (みようぎよう) 道の博士家
清原氏と並ぶ明経道の家で,明法道・天文などをも家学とした。鎌倉時代には法律関係で鎌倉幕政に参画した。室町中期から押小路氏と称し,明治時代に至り男爵となった。
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世界大百科事典(旧版)内の中原氏の言及
【供御院】より
…鎌倉後期,預職には磯部氏の中で道理を帯した人が補任されることになっており,大炊寮の寮家任符を与えられたのち,寮家挙状によって正式の宣旨が下るという手続で補任された。大炊頭を世襲した中原氏は,この補任権を手がかりに,預職とその所領を押さえようとし,鎌倉末期,磯部氏との間に相論がおこっているが,この中原氏の試みは,ここでは失敗している(《綸旨抄》)。【網野 善彦】。…
【外記】より
…外記の上首を局務(きよくむ)という。平安時代の半ば以降,大外記は清原氏・中原氏の2氏が世襲した。【早川 庄八】。…
【文殿】より
… 院文殿も元来は書籍・文書を保管し,文殿作文会に象徴されるように,院中の文事をつかさどる機関であった。その職員を衆あるいは寄人(よりうど)といい,外記・史や明経以下諸道の官人ら10人前後をこれにあて,そのうち1人を[開闔](かいこう)として衆中を統轄させたが,後白河院以降,大外記[中原氏]が開闔を世襲したという。ところが1246年(寛元4)後嵯峨上皇が院中に評定衆と伝奏を置き,評定と奏事をもって政務を運営するに及び,評定目録や奏事目録などを文殿に保管し,文殿の明法官人らに訴訟の審理・勘申を命じ,さらに文殿に庭中(法廷)を開くに至った。…
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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」