中務内侍日記(読み)なかつかさないしにっき

精選版 日本国語大辞典 「中務内侍日記」の意味・読み・例文・類語

なかつかさないしにっき【中務内侍日記】

鎌倉後期の日記一巻伏見院中務内侍藤原経子)著。弘安三~正応二年(一二八〇‐八九)を中心に、正応五年病で里に帰る記事で終わるまで、一三年間の宮廷生活の回想記。和歌古文を引用した古雅仮名文で、身辺や宮廷生活を内省的、感傷的に記している。

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デジタル大辞泉 「中務内侍日記」の意味・読み・例文・類語

なかつかさのないしにっき【中務内侍日記】

中務内侍の日記。1巻。弘安3年(1280)伏見天皇東宮とうぐう時代から、正応5年(1292)病で里に下がるまでの仮名文日記。身辺や宮廷生活を記したもの。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「中務内侍日記」の意味・わかりやすい解説

中務内侍日記
なかつかさのないしにっき

鎌倉後期の日記文学。1292年(正応5)ごろ成立。作者は中務大輔(たいふ)藤原永経(ながつね)の女(むすめ)、伏見(ふしみ)院中務内侍(本名経子、生没年未詳)。内容は1280年(弘安3)から92年に至る13年間、伏見天皇の春宮(とうぐう)時代から即位以後にわたり、病気で退出するまでの宮廷生活を記している。趣(おもむき)深い遊宴、華やかな行事、厳かな儀式の模様、忘れがたい旅の思い出などをつづって、伏見天皇に内侍として仕えた光栄を記念したもの。長い春宮時代ののち、伏見は天皇となり持明院(じみょういん)統にようやく春が巡ってきたという感慨が基調にある。なかには浅原為頼(ためより)の伏見天皇暗殺未遂事件の記事もあり、持明院・大覚寺両統迭立(てつりつ)時代の暗さがおのずから反映し、めでたいことを記しているわりには明るさが乏しいが、しみじみときめ細かく、味わい深いところのあるのは伏見・永福門院(えいふくもんいん)を中心とする京極派、玉葉歌風に通じるものがある。

[松本寧至]

『玉井幸助著『中務内侍日記新注』(1958・大修館書店)』『玉井幸助著『日記文学の研究』(1965・塙書房)』

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改訂新版 世界大百科事典 「中務内侍日記」の意味・わかりやすい解説

中務内侍日記 (なかつかさのないしにっき)

鎌倉時代の日記。著者は藤原永経の娘経子。伏見天皇に内侍として仕えた。日記は1280年(弘安3)冬から,1292年(正応5)著者が病気で宮中を去るまでの間,後宇多天皇譲位,伏見天皇の即位,大嘗会(だいじようえ)など宮中の主要行事の記録を主に,おりおりの行幸,賀茂祭,大原野祭その他の宮廷諸行事の見聞を記す。〈中務〉の呼称は父永経の官職中務大輔にちなむ。
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百科事典マイペディア 「中務内侍日記」の意味・わかりやすい解説

中務内侍日記【なかつかさのないしにっき】

鎌倉後期の日記。作者中務内侍は宮内卿藤原永経の女(むすめ)で伏見天皇に仕えた。1280年―1292年の見聞を記したもので,大嘗会など宮廷の公事,儀式の記述が中心。同時代の《弁内侍日記》と対照的に沈静な筆致。
→関連項目伊勢日記文学

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「中務内侍日記」の意味・わかりやすい解説

中務内侍日記
なかつかさのないしにっき

鎌倉時代の女流日記。藤原経子著。1巻。正応5 (1292) 年完成か。著者は伏見天皇の春宮 (とうぐう) 時代から仕えた中務内侍。弘安3 (80) 年末から正応5年春までの記事で,宮廷行事などの見聞や女房生活の体験が中心となり,和歌 154首,長歌2首,連句4句を含んでいる。

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