世田谷(区)(読み)せたがや

日本大百科全書(ニッポニカ) 「世田谷(区)」の意味・わかりやすい解説

世田谷(区)
せたがや

東京都区部の南西端にある区。1932年(昭和7)荏原(えばら)郡の世田谷・駒沢(こまざわ)の2町と松沢・玉川の2村が合併して世田谷区となり、1936年に千歳(ちとせ)・砧(きぬた)の2村を編入。面積58.05平方キロメートル、人口94万3664(2020)。

沢田 清]

自然・交通

武蔵野(むさしの)台地を占めるが、南西部の多摩川野川(のがわ)に沿う崖(がけ)(国分寺崖線(がいせん))を境に西のほうは一段と低く、南の区境を流れる多摩川沿岸は沖積低地となっている。台地面を仙川(せんかわ)、烏山(からすやま)川が南東方向へ流れ、侵食谷を形成している。北東から南西方向に京王(けいおう)電鉄京王線、小田急電鉄小田原線、東急電鉄田園都市線の各線が通じ、北部に京王電鉄井の頭(いのかしら)線、南部に東急電鉄大井町線・目黒線が横切る。また、東急電鉄世田谷線が小田急電鉄豪徳寺(ごうとくじ)駅で同電鉄と交差している。道路は、甲州街道(国道20号)、首都高速道路3号渋谷線、東名高速道路、中央自動車道、第三京浜道路、世田谷通り、玉川通り(厚木大山(おおやま)街道・国道246号)、駒沢(こまざわ)通り、目黒通り、環七通り、環八通りなどが通じている。

[沢田 清]

歴史・地誌

区の中心部の世田谷は中世には吉良(きら)氏の所領で世田谷城跡が残る。江戸時代には幕府領と彦根藩井伊氏の支配下で、井伊氏の代官大場(おおば)氏の大場家住宅主屋および表門は国指定重要文化財。世田谷は矢倉沢(やぐらさわ)往還(大山街道)から三軒茶屋(さんげんぢゃや)で分かれる津久井往還(現、世田谷通り)筋の交通の要地として発達し、当時の市(いち)の名残(なごり)の「ぼろ市」は現在も12月15、16日と1月15、16日に開かれる。区域の大部分は近郊の農村地帯であったが、関東大震災ごろからしだいに住宅地化し、現在では農耕地はわずかに点在するのみとなった。玉川地区はかつてビニルハウス栽培が盛んな温室村として知られた所で、成城(せいじょう)は1925年(大正14)高級住宅地として拓かれた。多摩川北岸の台地末端部の玉川、上野毛(かみのげ)一帯は、南面した水に臨む好適な住宅環境で、五島美術館(ごとうびじゅつかん)、等々力渓谷(とどろきけいこく)などがある。下北沢は駅前市場がにぎわい、小劇場などに若者が集う。区内は住宅地として発展したため製造業の集積は少なく、三軒茶屋、二子玉川、成城、千歳烏山などに商業地区が形成されている。

[沢田 清]

緑地・文化施設

武蔵野のおもかげを残す緑地として、蘆花恒春園(ろかこうしゅんえん)(明治の文豪徳冨蘆花(とくとみろか)の邸跡)、馬事公苑(ばじこうえん)、都立砧公園(北隅に世田谷美術館がある)、井伊家の菩提寺(ぼだいじ)の豪徳寺、九品仏(くほんぶつ)で知られる浄真寺(じょうしんじ)、関東大震災後に都心から寺院が移転してきた烏山の寺町があり、松陰神社(しょういんじんじゃ)も緑地である。都立駒沢オリンピック公園は近代的施設の公園となっている。岡本の岡本公園と喜多見(きたみ)の次大夫堀(じだゆうぼり)公園には古民家が移築されている。また、駒沢大学、昭和女子大学、成城大学、東京農業大学、東京都市大学、日本大学文理学部・商学部、多摩美術大学、日本体育大学、国士舘大学など学園も多い。

[沢田 清]

『『世田谷区史』上下(1951・世田谷区)』『『新修世田谷区史』全5巻(1962~1976・世田谷区)』『『世田谷地誌集』(1985・世田谷区)』『『せたがや百年史』(1992・世田谷区)』『『一歩二歩散歩――せたがやの散歩道・改訂』(1995・世田谷区)』


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