与板藩(読み)よいたはん

藩名・旧国名がわかる事典 「与板藩」の解説

よいたはん【与板藩】

江戸時代越後(えちご)国三島(さんとう)郡与板(現、新潟県長岡市与板町)に藩庁をおいた譜代(ふだい)藩。藩校は正徳館(しょうとくかん)。1634年(寛永(かんえい)11)、長岡藩の初代藩主牧野忠成(ただなり)の次男康成(やすなり)が、1万石を分与され立藩した。3代康重(やすしげ)の1702年(元禄15)、信濃(しなの)国小諸(こもろ)藩転封(てんぽう)(国替(くにがえ))となり、当地は一時天領となった。06年(宝永(ほうえい)3)、遠江(とおとうみ)国掛川藩の藩主井伊直矩(なおのり)が2万石で当地に再立藩した。以後明治維新まで10代存続した。幕末の戊辰(ぼしん)戦争では、井伊宗家の彦根藩が譜代筆頭にもかかわらず新政府側に転向したことにより、与板藩もそれに従った。1871年(明治4)の廃藩置県で与板県となり、その後、柏崎県を経て73年新潟県に編入された。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「与板藩」の意味・わかりやすい解説

与板藩
よいたはん

越後(えちご)国三島(さんとう)郡与板(新潟県長岡(ながおか)市与板地区)に城を置いた譜代(ふだい)藩。1634年(寛永11)長岡初代藩主牧野忠成(ただなり)の二男康成(やすなり)が1万石余を分封されて成立した。三島・蒲原(かんばら)両郡内に30か村を領有し、城は現在の町役場辺にあった。3代康重(やすしげ)まで69年間続いたが、1702年(元禄15)信州小諸(こもろ)1万5000石に転封。次の藩主となった井伊(いい)氏は彦根(ひこね)藩の分家で、初代は上州安中(あんなか)城主となった直勝(なおかつ)(直政(なおまさ)の長男、一時彦根城主)である。2代直好(なおよし)は三州西尾から、さらに遠州掛川(かけがわ)に転封。1706年(宝永3)直矩(なおのり)の代に与板に入り三島、刈羽(かりわ)、頸城(くびき)3郡のうち2万石を領した。廃藩まで10代164年間、最後の藩主直安(なおやす)は彦根藩主直弼(なおすけ)の四男で、北越戊辰(ぼしん)戦争では新政府軍として奮戦した。1871年(明治4)廃藩、与板県、柏崎(かしわざき)県を経て新潟県に編入。

[剣持利夫]

『前波善学編『与板町史』正・続(1959~61・与板町教育委員会)』

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「与板藩」の意味・わかりやすい解説

与板藩
よいたはん

江戸時代,越後国 (新潟県) 与板地方を領有した藩。寛永 11 (1634) 年同国長岡藩牧野忠成が次男康成に1万石を分与して以来牧野氏が元禄 15 (1702) 年まで在封。次いで宝永2 (05) 年井伊直矩が2万石で入封し,井伊氏が廃藩置県まで在封。井伊氏は譜代,江戸城帝鑑間詰。

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デジタル大辞泉プラス 「与板藩」の解説

与板藩

越後国、与板(現:新潟県長岡市)を本拠地とした譜代の小藩。長岡藩主・牧野忠成の次男康成(やすなり)が1万石余を分与されて立藩。のちに牧野氏の転封により一時天領となったが、宝永年間に井伊直矩が2万石で入封して再立藩、以後10代にわたり井伊氏が統治した。戊辰戦争では井伊宗家の彦根藩に従い、新政府側についた。

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