下河辺荘(読み)しもこうべのしょう

百科事典マイペディア 「下河辺荘」の意味・わかりやすい解説

下河辺荘【しもこうべのしょう】

下総国葛飾(かつしか)郡の荘園。現在埼玉県東部を南流する中川流域に展開し,埼玉・茨城・千葉三県にまたがる広大な地域に比定される。平安末期に開発領主下河辺氏寄進により成立した八条院領荘園。1180年下河辺行平源頼朝より当荘荘司を安堵されている。13世紀中ごろに鎌倉幕府により堤の修築が行われ,下河辺氏一族が奉行人になったとみられるが,荘自体は北条氏支配となり,一部は金沢称名(かねさわしょうみょう)寺に寄進された。室町期には荘内古河(こが)に拠った古河公方足利氏の支配下に入った。

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改訂新版 世界大百科事典 「下河辺荘」の意味・わかりやすい解説

下河辺荘 (しもこうべのしょう)

荒川中流域の下総国葛飾郡にあった荘園。八条院領。荘内には前林・河妻・赤岩春日部・桜井の5郷と平野村があった。鎌倉幕府創設に功のあった下河辺行平は下河辺荘司行平と称しており,この荘園の開発領主の系譜を引く豪族とみられる。1180年(治承4)行平は源頼朝から荘司職を安堵された。《吾妻鏡》によれば88年(文治4)6月4日に帥中納言藤原経房が当荘の地頭職沙汰を受け,また1253年(建長5)8月30日には下河辺荘の堤を築くため,その奉行人として清久弥次郎保行,鎌田三郎入道西仏,対馬左衛門尉仲康,宗兵衛尉為泰が任命されたという。このうち鎌田西仏については浅草寺(東京都台東区)に彼が奉納したと伝えられる大型板碑が現存している。1457年(長禄1)には関東公方足利成氏が鎌倉を追われて下河辺荘内の古河城に入り,以降古河公方と呼ばれている。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「下河辺荘」の意味・わかりやすい解説

下河辺荘
しもこうべのしょう

下総(しもうさ)国葛飾(かつしか)郡にあった八条院領の荘園。その荘域は埼玉県北葛飾郡と茨城県猿島(さしま)郡の一部、および千葉県野田市の一部も含む江戸川と古利根(とね)川とに挟まれた地域に比定される。平安後期には成立し、秀郷(ひでさと)流藤原氏の一族下河辺行義(ゆきよし)が荘司となり、以後名字(みょうじ)の地とする。下河辺氏は承久(じょうきゅう)の乱(1221)後、北条氏の被官と化し、『吾妻鏡(あづまかがみ)』によれば、1253年(建長5)幕府が荘内の築堤工事をしているが、これも北条氏との関係を推定させる。地頭職(じとうしき)は北条一門の金沢(かねさわ)氏が相伝し、その一部は金沢氏の氏寺ともいうべき称名寺(しょうみょうじ)の寺領となる。しかし、鎌倉幕府の滅亡により、地頭職の一部は春日部(かすかべ)氏(春日部郷)や島津(しまづ)氏(栗指(くりさし)郷)らに与えられるが、大部分は足利(あしかが)氏の支配下に入る。その後、鎌倉公方(くぼう)に伝領され、足利氏満(うじみつ)は高柳(たかやなぎ)郷を鶴岡八幡宮(つるがおかはちまんぐう)に寄進するが、多くは足利氏領としてのちに古河公方(こがくぼう)の御料所となる。

[平田満男]

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