下沖村(読み)しもおきむら

日本歴史地名大系 「下沖村」の解説

下沖村
しもおきむら

[現在地名]龍野市誉田町下沖ほんだちようしもおき

揖東いつとう郡に属し、揖西いつさい中陣なかじん村の東に位置する。北は上沖村。東西二町・南北一八町の細長い村域を有し、南端を山陽道が通る。慶長国絵図に「をき村」とみえ、江戸時代初期には上沖村とともに一村であったようである。寛永一三年(一六三六)の龍野領村々高辻帳(八瀬家文書)に下沖村とみえ、池田輝政による内検地高三八七石余、高三二〇石余。領主変遷北龍野村と同じ。正保郷帳では田方三一三石余・畑方六石余。村高は幕末までほぼ変わらない。承応元年(一六五二)六兵衛捌と三郎右衛門捌に分れ、延宝五年(一六七七)に三郎右衛門捌は与兵衛捌に改称されたという(「龍野藩領分明細帳」八瀬家文書)

下沖村
しもおきむら

[現在地名]天明町奥古閑おくこが

東は北沖きたおき村・中沖なかおき村、南は弐拾町にじつちよう村に接し、有明海に近く、当村より西は近世後期の埋立地である。下奥古閑村とも称し、寛永一二年(一六三五)の下奥古閑村の地撫帳があるが、破損して集計は不明。肥後領高人畜家数船数調(永青文庫蔵)によると、一〇〇石より上の舟一艘、水夫二〇人がいる。銭塘手永に属し、「国誌」に「氏郷ト云小村アリ」とある。宝暦一一年(一七六一)の下ケ名寄帳によると、惣畝数四一町五反九畝余、うち本方は二九町九反一畝余・高四六四石余で、他は新地や有吉大膳の御赦免開であり、御赦免開のうちわけは古開畑二町七畝余・中開畑二町七反九畝・新開畑五町三反四畝余などである。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報