下戸田村(読み)しもとだむら

日本歴史地名大系 「下戸田村」の解説

下戸田村
しもとだむら

[現在地名]戸田市下戸田一―二丁目・下前しもまえ一―二丁目・喜沢きざわ一―二丁目・喜沢南きざわみなみ一―二丁目・中町なかちよう一―二丁目・川岸かわぎし一―二丁目

荒川の北岸、現戸田市東部に位置する。東は横曾根よこぞね(現川口市)、南は荒川を隔てて豊島としま根葉ねつぱ村・蓮沼はすぬま村・(現東京都板橋区)、北は蕨宿西方を中山道が通り、荒川には中山道戸田渡と戸田河岸がある。現栃木県日光市輪王りんのう寺蔵の大般若経奥書には、応永三年(一三九六)一〇月一八日の日付とともに「武蔵国足立郡土田」の銘がある。また「寒松稿」によれば、「武蔵州足立郡土田郷」では六年にわたる月待行事ののち、慶長一七年(一六一二)二月二三日に願主一同が「高顕」(卒塔婆)一基を造立したという。「土田郷」は戸田郷のことであろうか。「風土記稿」によれば、中山道に沿って元蕨もとわらびと称する小名があり、古くここから移住した民が蕨宿を開いたとの言伝えがある。また寛保三年(一七四三)の渡船場一件につき願書控(武内家文書)には、慶長年中まで蕨宿は上戸田村・下戸田村の元蕨の地にあったが、元和年中(一六一五―二四)に新宿を取立てて移住したと記している。

下戸田村
しもとだむら

[現在地名]西脇市下戸田

西脇村の東に位置する。加古川が村の東から南へ流れる。慶長国絵図に村名がみえる。江戸期の領主変遷は西脇村に同じ。正保郷帳によると田方二七四石余・畑方六八石余。天保郷帳では高三四六石余。天保一四年(一八四三)の村明細帳(下戸田区有文書)によれば高三四三石余、無土高三〇石余・永荒川欠高二五石余を引いた残高のうち田高二四二石余・反別一五町余、畑高四五石余・反別六町余、運上銀は川役銀七匁・山役銀二二匁・藪役銀五匁・口銀一匁余、家数四三(頭高持一〇・少高持二八・無高五)・人数二二〇、僧二、牛一四。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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