上野俊之丞(読み)ウエノシュンノジョウ

デジタル大辞泉 「上野俊之丞」の意味・読み・例文・類語

うえの‐しゅんのじょう〔うへの‐〕【上野俊之丞】

[1790~1851]写真家長崎の人。名は「としのじょう」とも。写真機を初めて輸入薩摩藩主島津斉彬しまづなりあきら撮影した写真は、日本人の手になる最初の写真といわれる。

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精選版 日本国語大辞典 「上野俊之丞」の意味・読み・例文・類語

うえの‐としのじょう【上野俊之丞】

日本の写真術研究の祖。肥前長崎県)の人。名は常足天保一二年(一八四一)写真機を輸入して、撮影の実験を行なった。寛政二~嘉永四年(一七九〇‐一八五一

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朝日日本歴史人物事典 「上野俊之丞」の解説

上野俊之丞

没年:嘉永4.8.17(1851.9.12)
生年:寛政2.3.3(1790.4.16)
江戸後期の蘭学者,技術者。諱は常足。若竜,知新斎,潜翁と号した。長崎に生まれ,奉行所の御用時計師として時計その他の細工物を製作していたが,天保10(1839)年御用時計師の職を弟子に譲ったのち,硝石製法の技術的研究に着手し,自宅内に蘭方薬ならびに硝石製煉所を設けて製薬を開始した。またオランダ人からダゲレオタイプ(銀板)の写真機を入手して,天保12年6月1日に薩摩藩主島津斉興の世子斉彬の撮影に成功。6月1日を写真記念日とするのはこれに始まる。天文,地理などの自然科学や工芸技術,さらに鉄砲火薬の研究など広範な領域に足跡を残している。

(所荘吉)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「上野俊之丞」の解説

上野俊之丞 うえの-としのじょう

1790-1851 江戸時代後期の蘭学者,技術者。
寛政2年3月3日生まれ。上野彦馬の父。長崎の御用時計師をつぐ。砲術,測量術をよくし,のち製煉(せいれん)所をつくり,硝石(しょうせき)を製造した。ダゲレオタイプ(銀板写真)のカメラを入手し撮影法を研究,天保(てんぽう)12年島津斉彬(なりあきら)を撮影した。日本の写真術の開祖として知られる。嘉永(かえい)4年8月17日死去。62歳。肥前長崎出身。名は常足。号は若竜,知新斎,潜翁。

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367日誕生日大事典 「上野俊之丞」の解説

上野俊之丞 (うえのとしのじょう)

生年月日:1790年3月3日
江戸時代末期の蘭学者;技術者
1851年没

出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報

世界大百科事典(旧版)内の上野俊之丞の言及

【上野彦馬】より

…江戸末期から明治初期の写真家。島津藩で日本最初のダゲレオタイプを試みた上野俊之丞の四男として長崎に生まれ,豊後日田の広瀬淡窓の下で学んだ後,長崎でオランダ語と化学を学び,1862年(文久2),堀江鍬次郎と共著の《舎密局必携》を出版,近代的化学を紹介した。化学と写真術はオランダ政府派遣の海軍医ポンペvan M.から学び,写真機や薬品を自製,62年長崎に日本最初の営業写真館を開設し,コロジオン湿板を使って写真を撮影して好評を博し,坂本竜馬,高杉晋作,伊藤博文ら維新の志士たちも長崎に赴いて肖像を撮影した。…

【写真】より

…その意味で西欧のいわゆる〈サロン写真〉が果たした役割はきわめて大きいが,それと同様に,日本でも当初の写真表現と技術の開発は,アマチュア写真家やその団体,クラブなどの活発な活動によって支えられてきた。 日本における写真の歴史は,1840年(天保11)ころに長崎に入港したオランダ船によってダゲレオタイプが渡来し,薩摩藩の御用商人であった上野俊之丞がこれを入手したことに始まると言われる。移入された当初の事情は必ずしもよくわかっていないが,わずかな情報と化学薬品や器具の調達に苦心した末に,俊之丞の子の上野彦馬下岡蓮杖が写真術を修得した。…

※「上野俊之丞」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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