上波佐見村(読み)かみはさみむら

日本歴史地名大系 「上波佐見村」の解説

上波佐見村
かみはさみむら

[現在地名]波佐見町宿郷しゆくごう村木郷むらぎごう折敷瀬郷おりしきせごう湯無田郷ゆむたごう井石郷いせきごう小樽郷こだるごう野々川郷ののかわごう永尾郷ながおごう三股郷みつまたごう中尾郷なかおごう鬼木郷おにぎごう金屋郷かなやごう

波佐見村の東部から北部を占める。応安五年(一三七二)九月二六日の彼杵一揆連判状断簡写(福田文書)に「波佐見折敷瀬弥三郎」の署名がみえ、折敷瀬を拠点とした者であろう。享禄年間(一五二八―三二)藤津ふじつ芦原あしはら(現佐賀県武雄市か)地頭で渋江氏一族の掛橋六郎左衛門が大内義隆に攻められ、東部の長尾ながおに逃れて潜伏したという。西部の舞相まいそうは肥前武雄および有田ありたと結ぶ往還の分岐点で一里塚が置かれ、室町期より江戸初期まで大村家一門の折敷瀬善右衛門の領知であったとされる。この一揆連判状にみえる波佐見井瀬木新左衛門は井石郷に関連する者であろう。戦国期末に井石公房によって山塞の井石城が築かれ、東の湯無田郷の内海うちのみ城と同じく武雄の後藤貴明に対して大村純忠が築いた城砦と想定される。山頂部に空堀を伴う平場があり、山麓じようしたじようまえなどの地名が残る。同じく南部の金谷かなや(金屋)には山塞の松山まつやま城と矢岳やたけ城が築城されたという。野々川郷には龍造寺家種の居城したというふねはる城跡があるが、大村城主の喜前は少年期に同郷で人質として過ごし、渋江公師に連れられて帰ったとされる(「橘姓渋江氏由来」大村市立史料館蔵)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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