上方歌舞伎(読み)かみがたかぶき

精選版 日本国語大辞典 「上方歌舞伎」の意味・読み・例文・類語

かみがた‐かぶき【上方歌舞伎】

〘名〙 上方の地に発達した歌舞伎。また、上方の劇場に書きおろされた歌舞伎狂言上方狂言。⇔江戸歌舞伎

出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報

デジタル大辞泉 「上方歌舞伎」の意味・読み・例文・類語

かみがた‐かぶき【上方歌舞伎】

上方狂言かみがたきょうげん

出典 小学館デジタル大辞泉について 情報 | 凡例

日本大百科全書(ニッポニカ) 「上方歌舞伎」の意味・わかりやすい解説

上方歌舞伎
かみがたかぶき

歌舞伎劇の一系統。上方、すなわち京都・大坂で誕生し独自の発展を遂げた歌舞伎のことで、その演目(上方狂言)、演出、俳優、芸脈などを含めていう。江戸歌舞伎に対する語。

 阿国(おくに)歌舞伎の時代にもあった遊里の描写が、元禄(げんろく)時代(1688~1704)には名優坂田藤十郎らにより、傾城買(けいせいかい)狂言、およびこれに伴う和事(わごと)の演出として発達、江戸の荒事(あらごと)に対し上方を象徴する特色になった。現存する代表的な上方狂言は、近松門左衛門の浄瑠璃(じょうるり)を歌舞伎式に脚色・演出した『夕霧伊左衛門(ゆうぎりいざえもん)』(廓文章(くるわぶんしょう))、『紙屋治兵衛』(河庄(かわしょう)・時雨(しぐれ)の炬燵(こたつ))、『梅川忠兵衛(うめがわちゅうべえ)』(封印切(ふういんきり)・新口村(にのくちむら))や、『宿無団七(やどなしだんしち)』『雁(かり)のたより』『乳貰(ちもら)い』『萬屋(よろずや)助六』『植木屋』など。また、『忠臣蔵』をはじめ多くの演目に上方独自の演出が残っている。俳優では、初期の坂田藤十郎、芳沢(よしざわ)あやめ、嵐三右衛門(あらしさんえもん)ら以後、多くの名優が輩出、明治以後もその芸脈を引く初世中村鴈治郎(がんじろう)、11世片岡仁左衛門(にざえもん)、2世実川延若(じつかわえんじゃく)、2世と3世の中村梅玉(ばいぎょく)らによって繁栄してきた。しかし、第二次世界大戦後、とくに1950年(昭和25)以降はしだいに衰微し、関西における歌舞伎公演は年々減少している。この間、2世鴈治郎、13世仁左衛門、3世延若、2世中村扇雀(せんじゃく)らにより上方歌舞伎を自主的に保存しようとする「七人の会」や、仁左衛門個人による「仁左衛門歌舞伎」の運動があったが、将来はけっして楽観を許さない状態にある。

[松井俊諭]

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「上方歌舞伎」の意味・わかりやすい解説

上方歌舞伎
かみがたかぶき

江戸時代の歌舞伎の2大勢力の一つだった上方の風土で培われた歌舞伎。もう一つの中心,江戸の荒事・様式美に対し,和事・写実芸を得意とし,人形浄瑠璃の影響が強いなど,際立った特色を持つ。明治維新後は関西歌舞伎とも呼ばれ,初世中村鴈治郎などが主になってその命脈が保たれてきたが,文化の中心が東京に移るとともに,その勢力は弱まってきた。戦後は幹部俳優の東京移住が進み,1960年代に至って関西での常打ちの歌舞伎興行は成立しなくなった。故 13世片岡仁左衛門一門の「関西で歌舞伎を育てる会」,3世鴈治郎の「近松座」など,上方歌舞伎の芸風を残そうとする活動はされているが,脇役や裏方の払底もあって,その前途は多難である。

出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報

とっさの日本語便利帳 「上方歌舞伎」の解説

上方歌舞伎

上方狂言。武張って荒々しい江戸狂言に対して京、大坂の柔らか味と色気を有した歌舞伎。江戸・元禄期の坂田藤十郎の演技が有名。

出典 (株)朝日新聞出版発行「とっさの日本語便利帳」とっさの日本語便利帳について 情報

今日のキーワード

黄砂

中国のゴビ砂漠などの砂がジェット気流に乗って日本へ飛来したとみられる黄色の砂。西日本に多く,九州西岸では年間 10日ぐらい,東岸では2日ぐらい降る。大陸砂漠の砂嵐の盛んな春に多いが,まれに冬にも起る。...

黄砂の用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android