三鈷寺(読み)サンコジ

デジタル大辞泉 「三鈷寺」の意味・読み・例文・類語

さんこ‐じ【三鈷寺】

京都市西京区にある西山宗の本山。承保元年(1074)天台宗の僧源算の創建で、北尾往生院と称したのに始まる。のち、法然の弟子証空のとき念仏道場とし、現在の名に改めた。

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精選版 日本国語大辞典 「三鈷寺」の意味・読み・例文・類語

さんこ‐じ【三鈷寺】

(「さんごじ」とも) 京都市西京区大原野石作町にある西山宗の総本山。もと浄土宗西山派。山号は華台山。承保元年(一〇七四)源算が開創して往生院と称したが、のち後嵯峨天皇のとき証空(しょうくう)が中興して現名に改称、勅願寺となる。

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日本歴史地名大系 「三鈷寺」の解説

三鈷寺
さんごじ

[現在地名]西京区大原野石作町

善峰よしみね寺の北数百メートルの近接する峰にあり、北東にひらける京都盆地を遠望する絶景の地にある。正式には本山三鈷寺といい、往生院と号する。現在は西山宗であるが、元来は天台・真言・律・浄土四宗兼学の勅願所であった。本尊は仏眼明妃座像画幅で、方丈南壇に宇都宮頼綱(蓮生)の持仏と伝える抱止阿弥陀如来を安置する。

〈京都・山城寺院神社大事典〉

〔開創〕

善峰寺と同じく、源算が長元年間(一〇二八―三七)にこの地に小庵を建立、阿弥陀像一躯を刻んで本尊とし、往生院と称したのが開創といい(雍州府志)、一説には承保元年(一〇七四)正月のことと伝える(「西山上人縁起」山城名勝志)。その後、応保元年(一一六一)法橋観性が仏眼曼荼羅および釈迦・弥陀像を安置して隠棲した。観性の幽居と往生院の号は、中山忠親が来訪して「山槐記」治承三年(一一七九)四月二七日条に記しており、確実なことと思われる。その後「此往生院ヲバ慈鎮(慈円)和尚ニ譲申サレシヲ建保之比善恵(証空)上人ニゾ付属シ給フ」という(西山上人縁起)。証空は法然の門弟で、京で浄土宗が弾圧された鎌倉初期、善峰寺に拠って浄土宗の法流を伝えた同宗西山派の祖であるが、このとき寺号を三鈷寺と改めた。山容が三峰並立して三鈷の形に似ているからという。証空は後嵯峨天皇の戒師となり、勅願所の宣旨を賜り、当寺を不断如法念仏興行の道場とした。

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百科事典マイペディア 「三鈷寺」の意味・わかりやすい解説

三鈷寺【さんごじ】

京都市西京(にしきょう)区にある天台宗の寺。本尊仏眼明妃座像画幅。11世紀に義峰(よしみね)寺と同じく源算(げんさん)が開創,往生(おうじょう)院といった。慈円(じえん)に譲られた後,建保(1213年―1219年)ころ西山(せいざん)上人証空(しょうくう)が入寺し,嵯峨(さが)天皇の勅願所となり,三鈷寺と改め不断如法念仏(ふだんにょほうねんぶつ)道場とした。証空没後遺骸を納める華台廟が建てられた。多くの平安時代文書を含む三鈷寺文書は重要文化財。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「三鈷寺」の意味・わかりやすい解説

三鈷寺
さんこじ

京都市西京区大原野石作町にある西山(せいざん)宗の本山。本尊は金身(こんしん)不動尊。1074年(承保1)天台宗の源算(げんさん)が善峯寺(よしみねでら)の北西に創建し、北尾往生院(おうじょういん)と名づけたのに始まる。第3世に慈円(じえん)が入寺しているが、本格的な発展は浄土宗西山派の祖証空(しょうくう)が第4世を継いでからである。証空は寺名を三鈷寺と改め、不断念仏会などの浄土の教えを広めた。1335年(建武2)勅命により天台・真言・律・浄土の四宗兼学の道場となって栄えたが、応仁(おうにん)の乱で諸堂や子院などが消滅。証空の滅後、その遺骸(いがい)を納めたことと、弟子たちが三鈷寺独特の戒律を継承したこともあって、浄土宗西山派となったが、現在は西山宗本山である。

[石上善應]

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