三重(県)(読み)みえ

日本大百科全書(ニッポニカ) 「三重(県)」の意味・わかりやすい解説

三重(県)
みえ

日本列島のほぼ中央、本州の太平洋側に位置し、紀伊半島の東側を占める県。東は伊勢(いせ)湾と熊野灘(なだ)に面して長い海岸線をもち、北は養老山地と揖斐(いび)川、長良(ながら)川、木曽(きそ)川、鍋田(なべた)川の河川を境に岐阜・愛知両県と接し、北西は鈴鹿(すずか)山脈を隔てて滋賀県に、西は京都府に、南西は高見(たかみ)山地・大台ヶ原(おおだいがはら)山系を境に奈良県に、南端は熊野川で和歌山県にそれぞれ接している。古代から近世まで、伊勢、伊賀、志摩、紀伊(一部)の4国に分かれていた所で、地理的統一性はあまりよくない。したがって地域経済の中心となるべき都市が育ちにくく、県庁所在地の津市が、2006年(平成18)の2市6町2村による合併以前は、県下では四日市市、鈴鹿市に次いで人口数第3位に、合併後も第2位に甘んじているなど特異な県ではある。しかし、人口、面積、産業規模、県民所得などでは全国の中位である。面積5774.49平方キロメートル。人口177万0254(2020)。

 古くから伊勢神宮が祀(まつ)られるなど歴史は古く、とくに畿内(きない)とのつながりが濃く、現在も市民文化や言語は関西系に属している。しかし近代になって、尾張(おわり)国と伊勢国との間の地形的障害をなしていた木曽三川(さんせん)に橋が架けられ、鉄道と道路が通じてから急速に名古屋とのつながりが深まった。とくに県人口の過半が住む伊勢平野は名古屋に便利な交通体系を有しているところから、三重県経済は中京経済圏の支配下にあるのが実情である。ただ、上野盆地は大阪に便利で、名張(なばり)市などは大阪の遠郊住宅都市としての性格が強く、大阪圏に属している。総じて三重県は東西文化・経済圏の接点にあるといえるだろう。行政上の管轄区では林野庁の近畿中国森林管理局(大阪)および国交省の近畿地方整備局(大阪。木津川上流河川事務所)を除いて、他の省庁はすべて名古屋にある出先機関の管轄下に置かれている。

 三重の県名は、1872年(明治5)3月17日安濃津(あのつ)県の県庁を津から三重郡四日市に移したとき、郡名にちなんで命名された。県庁は翌年12月10日にふたたび津へ移されたが、県名はそのままとなった。三重の地名は『古事記』に初見されるが、倭建命(やまとたけるのみこと)が東征のおり、足が三重に曲がるほど疲れていたという伝説による。

 2020年(令和2)10月現在、14市7郡15町からなる。

[伊藤達雄]

自然

地形

県のほぼ中央、伊勢湾口から櫛田(くしだ)川の谷に沿って、日本列島西部を内帯と外帯に分ける大断層の中央構造線が東西に横断して走り、地形はその南北で大きく異なる。北部では、南北に連なる鈴鹿山脈、布引山地(ぬのびきさんち)の地塁を中心に東に伊勢平野、西に上野盆地がモザイク状に並ぶ。鈴鹿山脈、布引山地は東西両側を断層で切られ、しかも東に急傾斜をなす傾動地塊で、山頂部には地形原面の平坦(へいたん)地が残っており、北の養老山地とともに断層地形の典型として有名。伊勢平野は大部分が更新世(洪積世)の丘陵、台地、扇状地などで小起伏に富み、その間を北から員弁(いなべ)、朝明(あさけ)、鈴鹿、安濃(あのう)、雲出(くもず)などの河川が伊勢湾に注ぎ、海岸や河口に肥沃(ひよく)な沖積平野を形づくっている。海岸は平滑な砂泥質海岸で、志摩半島以南のリアス海岸とは著しい対照をなしている。布引山地と笠置(かさぎ)山地に挟まれる上野盆地は地溝性構造盆地で、周辺には古琵琶(こびわ)湖層群の発達がみられ、かつて古琵琶湖の一部であったことが知られる。全域木津(きづ)川の流域で、水は西流して大阪湾に入る。

 一方、中央構造線の南は、紀伊山地の東端が海岸に迫り、平地は櫛田川、宮川の谷底や海岸に限られ、山がちの地形である。その海岸も、熊野市木本(きのもと)から熊野川河口までの間の七里御浜(しちりみはま)とよばれる砂礫(されき)海岸のほかは、出入りが激しい日本でも有数のリアス海岸である。とくに的矢(まとや)、英虞(あご)、五ヶ所(ごかしょ)などの湾入は水産養殖業や観光地として有名である。志摩半島の南半、先(さき)志摩は隆起海食台地(海成台地)として日本最大の広さをもち、緩やかな起伏の続く景観は雄大で美しく、伊勢志摩国立公園の主要部をなしている。一方、七里御浜や瀞八丁(どろはっちょう)(特別名勝・天然記念物)などがある奈良・和歌山県境一帯は吉野熊野国立公園に、北部の鈴鹿山脈は鈴鹿国定公園に、県央の布引山地、高見山地は室生(むろう)赤目青山国定公園に指定されており、県立自然公園には赤目一志(いちし)峡、伊勢の海、香肌(かはだ)峡、水郷(すいごう)、奥伊勢宮川峡の五つがある。

[伊藤達雄]

気候

南北に細長く、地形も複雑なだけに気候も多様である。気候型としては、北部の養老山地・鈴鹿山地の日本海型、伊勢平野の東海型、上野盆地の内陸型、熊野灘沿岸の南海型の四つのタイプがある。つまり日本海と太平洋の両側の気候がみられるのである。鈴鹿山脈北端は本州の中央地峡部にあたり、敦賀(つるが)湾から60キロメートル弱の距離にあり、冬の季節風は日本海から員弁川の谷に沿って伊勢湾へ吹き抜け、四日市あたりまでかなりの雪をもたらす。御在所(ございしょ)山がこの地域では珍しいスキー場として知られるのはこのためである。一方、黒潮洗う熊野灘は年中温暖で、1月の平均最低気温も2℃で、氷が張ることは珍しい。紀州ミカンの産地で、ハマユウが自生するなど、暖帯性植物群落も多い。尾鷲(おわせ)は年降水量が4000ミリメートルを超える日本でも多雨地帯として知られる。その中間に伊勢湾岸の温和な気候区が存在する。この伊勢の地が神の強い気を鎮めるにふさわしいとして神宮の鎮座が決まったという伝説もうなずける。

[伊藤達雄]

歴史

先史・古代

伊勢湾を眼下に見下ろす丘陵、扇状地、河岸段丘の末端には先史時代の遺跡が多い。もっとも古いものでは近畿地方には珍しく中央山岳地帯に発達した先土器時代の剥片(はくへん)石器が発見されている。これらは、いなべ市大安(だいあん)町地区、多気(たき)町色太(しきぶと)など北勢(県北部)から中勢(県中部)にかけて分布している。縄文時代になると、初期のものから末期までほとんど全県下に遺跡が広がる。農耕の始まった弥生(やよい)時代の遺跡はさらに沖積地一帯に分布し、志摩市志摩町白浜(しらはま)ではこの時代のものとしては全国的に珍しい人骨も出土している。古墳時代に入って支配階級が生まれると、その中心は上野盆地と中勢に形成されたと推定され、ここに多くの古墳群が集中する。古墳時代前期(4世紀ごろ)の前方後円墳としては伊賀市車塚古墳(くるまづかこふん)と石山古墳、前方後円墳は大和(やまと)から伊賀を通って伊勢への出口にあたる松阪市嬉野一志(うれしのいちし)町の筒野古墳などが保存もよい。筒野古墳からは中国渡来の三角縁(さんかくぶち)神獣鏡2面が出土しているが、この鏡と同じ鋳型からつくられたとみられる鏡が滋賀、大分、奈良の各県で発見されており、大和政権との関係を示唆するものとして貴重である。1996年(平成8)櫛田川左岸の松阪市粥見井尻遺跡(かゆみいじりいせき)(縄文草創期)から、当時日本最古の土偶がほぼ完全な形で出土して話題となった。また、2000年には松阪市の宝塚古墳(5世紀初め)で日本最大といわれる大形の船形埴輪(はにわ)が発掘されている。

 古代史は伊勢神宮の鎮座とともに始まる。『日本書紀』によると、皇祖天照大神(あまてらすおおみかみ)の霊は宮中に祀(まつ)られていたが、崇神(すじん)天皇6年、神の威光を遠ざけるため、大和(奈良)の笠縫邑(かさぬいのむら)に移し、垂仁(すいにん)天皇25年に皇女倭姫命(やまとひめのみこと)に永久鎮座の地を探させ、近江(おうみ)(滋賀)、美濃(みの)(岐阜)などを遍歴したすえ、現在地の五十鈴(いすず)川中流に定めたという。その後、雄略(ゆうりゃく)天皇22年に丹波(たんば)(京都)から豊受(とようけ)大神を移して外宮(げくう)とした。これが神宮の起源である。

 大化改新後、しだいに国郡の制が整うが、三重県では680年(天武天皇9)ごろになって伊勢、伊賀、志摩の3国が分立した。『延喜式(えんぎしき)』によると、伊勢には桑名、員弁(いなべ)、朝明(あさけ)、三重、河曲(かわわ)、鈴鹿、奄芸(あむへ)、安濃(あの)、壱志(いちし)、飯高(いいだか)、飯野(いいの)、多気(たけ)、度会(わたらい)の13郡、伊賀に阿拝(あへ)、山田、伊賀、名張(なばり)の4郡、志摩に答志(とうし)、英虞(あご)の2郡があった。このうち度会、多気、飯野は神宮領で、のち、平安初期には員弁、三重、安濃、朝明、飯高が加わって神八(じんぱち)郡とよばれた。国府は、伊賀は伊賀市、伊勢は鈴鹿市、志摩は志摩市に置かれた。いまも伊勢、伊賀の平坦(へいたん)部には当時の条里制が残っている。

[伊藤達雄]

中世

律令(りつりょう)制が崩れると各地に荘園(しょうえん)が発生した。伊賀では東大寺領荘園、伊勢、志摩では神宮領荘園が勢力を占めた。そのころ伊勢では、平朝臣(たいらのあそん)の姓を賜り地方官として土着していた桓武(かんむ)天皇の子孫がしだいに武士として力をつけ、桓武天皇から6代目の維衡(これひら)が初めて伊勢守(かみ)となり(1006)、その後清盛(きよもり)の父忠盛(ただもり)の代まで続いた。伊勢は平氏起源の地として、今日も各地に平氏ゆかりの遺跡や伝説が多い。『三国地誌』に平忠盛は津市街西郊の産品(うぶしな)に生まれたとあり、胞衣(えな)塚が現存する。南北朝時代、北畠顕能(きたばたけあきよし)が1335年(建武2)伊勢国司に任ぜられていたので、南朝の形勢が傾いたとき、顕能の父親房(ちかふさ)は宗良(むねなが)親王を奉じて伊勢へ下った(1336)。以後、伊勢は南朝の勢力下に置かれ、北畠氏の力は北勢や熊野にも及んだ。室町幕府の下でも北畠氏は霧山城(津市美杉町上多気・下多気)を拠点に代々伊勢国司を勤めたが、織田信長の勢力が伊勢全土に及び、1576年(天正4)8代具教(とものり)が信長に謀殺されて滅んだ。

 戦国時代、北畠氏のほか、亀山城の関氏、神戸(かんべ)城(鈴鹿市)の神戸氏、安濃津城(津市)の長野氏が北勢三家とよばれていたが、いずれも織田信長によって滅ぼされた。伊賀は在地領主らの連合支配下にあったが、1581年信長の伊賀攻めの大軍によって制せられた。一方、熊野では熊野海賊らが水軍を率いてしばしば戦国の戦いを左右していた。なかでも九木(くき)浦の九鬼嘉隆(くきよしたか)は鳥羽(とば)へ進出して城を築き、豊臣秀吉(とよとみひでよし)の文禄(ぶんろく)・慶長(けいちょう)の役(1592~1598)の朝鮮出兵には日本丸を建造して参加した。関ヶ原の戦い(1600)では西軍に属し、戦後自刃した。これより先、本能寺の変(1582)後、伊勢は信長の次男織田信雄(のぶかつ)の勢力下にあり、信雄は1584年反秀吉の兵をあげたが、秀吉はこれを平定し、北勢の長島城に甥(おい)の秀次を、松ヶ島城に蒲生氏郷(がもううじさと)を、安濃津城に富田知信を、伊賀城に筒井定次を、神戸城に生駒親正(いこまちかまさ)をそれぞれ配して国替を行った。蒲生氏郷は松ヶ島城を廃して松坂城を築いて城下町を計画し、前任地の近江日野から商人を移住させ、楽市(らくいち)制を敷くなどした。

[伊藤達雄]

近世

江戸幕府の成立当時、三重県下は東西両陣営が混在したため複雑な大名配置がなされた。1813年(文化10)ごろの県下の藩と大名の配置は次のようであった。長嶋(ながしま)藩(増山(ましやま)氏2万石)、桑名藩(松平氏10万石)、八田(はった)藩(加納氏1万石)、菰野(こもの)藩(土方(ひじかた)氏1万1000石)、亀山藩(石川氏6万石)、神戸藩(本多氏1万5000石)、津藩(藤堂(とうどう)氏32万3000石)、津藩の支藩久居(ひさい)藩(5万石)、鳥羽藩(稲垣氏3万石)。ほかに東紀州の紀伊藩を加えて全部で10藩であった。さらに天領、神宮領、寺社領などが入り組み、神宮には山田奉行(ぶぎょう)が置かれた。

 江戸時代を通じて県下には東海道五十三次のうち、桑名、四日市、石薬師、庄野(しょうの)、亀山、関、坂下(さかのした)の7宿が置かれ、とくに海路との接点をなした桑名、四日市、鈴鹿峠にかかる坂下は栄えた。また四日市の追分(おいわけ)で東海道と分岐して伊勢(いせ)神宮へ向かう参宮街道(伊勢路)、関で分岐して津へ向かう参宮別街道などは、神宮信仰が庶民の間に浸透するにしたがってにぎわった。1705年(宝永2)、1771年(明和8)、1830年(天保1)にはお陰参りとよばれる集団的な伊勢参りが全国的に流行した。本居宣長(もとおりのりなが)は「宝永(ほうえい)2年4月9日からの50日間で392万人が松坂を通過した」と『玉勝間(たまかつま)』に記している。

[伊藤達雄]

近・現代

明治維新後の廃藩置県(1871)では、今日の北勢、中勢、伊賀の地域が安濃津(あのつ)県、南勢、志摩、紀伊の地域からなる度会(わたらい)県が成立、それぞれ県庁を津(一時、四日市)と宇治山田(現、伊勢市)に置いた。1872年(明治5)安濃津県は三重県と改称、1876年度会県と合併して今日の県域が定まった。明治以降の三重県は、東海道本線が関ヶ原経由となったため幹線軸から外れ、伊勢神宮も国体の象徴として神宮司庁の下に置かれ、お伊勢参りも庶民の信仰、慰楽の対象ではなくなった。こうした情勢に危機感を抱いて、四日市では地元財界が結集して1888年に関西鉄道会社を設立、1895年には名古屋―草津間を開業させた(1907年国鉄に買収され関西本線となる)。また稲葉三右衛門(いなばさんえもん)は私財を投じて四日市港の修築を行い、伊勢湾ではもっとも早く開港場に指定(1899)される基礎をつくった。四日市港はその後も国際貿易港として修築が重ねられ、とくに日本最大の羊毛輸入港として中京繊維工業発展に貢献した。

 第二次世界大戦の末期、四日市に第二海軍燃料廠(しょう)がつくられたのをはじめ、鈴鹿海軍工廠、津海軍工廠が設立され、民間工場も軍需工場への転換や新設が図られた。1944年(昭和19)12月におこった東南海地震は県下でも死者・行方不明者259人、倒壊・流失家屋約7000戸に及ぶ被害を受けた。1945年には四日市、津両市を中心に米軍機による空襲が続き多大の被害を被った。また1959年(昭和34)9月、伊勢湾台風は県下北部に大被害を与え、死者・行方不明者1281人に達し、被害総額は1826億円に上った。

[伊藤達雄]

産業

農業

温暖な気候と京阪神・中京の大消費地に近い地理的条件に恵まれ、生産額では全国中位で、生産品目の多い農業県である。地域別には、伊勢平野で米を中心に野菜、施設イチゴ、トマト等が、鈴鹿山麓(すずかさんろく)や南勢地域で茶が、鈴鹿・津地域で花卉(かき)花木が、南勢・紀州地域で柑橘類が、松阪・伊賀地域で肉用牛が、それぞれ特産品となっている。耕地面積は6万1300ヘクタール(2011)で、うち水田4万6100ヘクタール、畑1万5200ヘクタール。畑のうち約4割が樹園地である。いずれも1990年代に入り安定的微減状態が続いている。産出額は1096億円で、部門別シェアは畜産31.5%、米27.7%、野菜15.4%、果実7.3%などとなっている。三重の米は早場米として知られ、作付けの7割以上がコシヒカリでその生産量は西日本一。生産額の高い畜産では松阪牛・伊賀牛が有名で、220戸の農家が2万6500頭の肉用牛を飼育している。そのほかでは、古くから伊勢茶とよばれる茶の生産が全国第3位。さつき・つつじ類の生産は全国第1位で、公園・道路・住宅の緑化とともに成長産業となっている。農家戸数は4万5990(2004)、うち専業農家は15.9%で全国の20.4%を下回り、兼業化率が高い。

[伊藤達雄]

林業

県土の64.5%を占める森林面積は37万2529ヘクタール(2009)と広く、しかも人工林率が62.4%と高い。櫛田(くしだ)川・宮川の流域は吉野林業の、尾鷲(おわせ)地域は紀州林業のそれぞれ伝統を継ぐ優良材生産の先進地で、尾鷲・松阪は古くから木材の集散・製材地として栄えた。人工林面積のうちヒノキ47.4%、スギ44.2%で、ヒノキ素材生産は全国第5位を占める。

[伊藤達雄]

水産業

三重県は長い海岸線をもつとともに、内湾性の伊勢湾、リアス地形の志摩半島沿岸、外洋性の熊野灘(なだ)の、特色ある海域を有し、遠洋・沖合・沿岸・養殖・海女(あま)など多様な漁業がみられる。伊勢湾でのイワシ・イカナゴ船引網、ノリ養殖、志摩海岸でのアワビ・サザエ海女漁、真珠・ハマチ・タイ養殖、熊野灘でのブリ定置網、カツオ・マグロ巻網・敷網、カツオ一本釣り、マグロ延縄(はえなわ)などである。総生産量は20万2904トン、628億円(2002)で、全国の6位である。特産としては真珠(全国の21%、第2位)、マダイ(13%、第2位)、カキ(9%、第4位)などがあり、また英虞(あご)湾は御木本幸吉(みきもとこうきち)が初めて真珠養殖に成功したところとして名高い。

[伊藤達雄]

鉱工業

鉱業は、鈴鹿山脈藤原岳の石灰岩がセメント原料に利用されているほかにはみるべきものはない。しかし、かつては、平安から室町期に大量の水銀を産した丹生(にゅう)鉱山(多気町)、江戸期に銀・銅山として栄えた治田(はった)鉱山(いなべ市)、1978年まで硫化鉱・銅鉱を産した紀州鉱山(熊野市)などが知られた。

 三重県の工業は、事業所数4714、従業者数19万0764、製造品出荷額9兆5644億円、付加価値額2兆5327億円(従業者4人以上、2011)で、製造品出荷額でみると全国第9位に位置する。最近の推移は、1991年をピークに事業所数・従業者数は微減傾向を続けているが、生産額等には大きな変化はみられない。主要業種を出荷額構成比でみると、輸送(23.6%)、電子(14.7%)、化学(12.0%)、電気(7.3%)、石油(6.7%)などである。県内を北勢、中南勢、伊勢志摩、伊賀、東紀州の5地域に分け、出荷額で比較すると、北勢(67.6%)が群を抜いて高く、中南勢(18.1%)、伊賀(8.8%)、伊勢志摩(4.7%)、東紀州(0.8%)の順となり、南へ下るにつれて低くなる。四日市・桑名・鈴鹿・亀山の各市を含む北勢地域は、中京工業地帯の一角を担い、四日市港を擁して、第二次世界大戦前から繊維、食品、鋳物、陶器などの集積があった。戦後、四日市港の海軍燃料廠跡に三菱(みつびし)系資本が石油化学コンビナートを建設して以来、この地域の工業構造は大きく変わった。コンビナートは第一期(塩浜地区、1958年完成)、第二期(午起(うまおこし)地区、1961年完成)、第三期(霞(かすみ)地区、1970年完成)と拡張を続け、日本を代表する大規模石油化学コンビナートの一つとして、高度経済成長に貢献した。しかし一方、操業開始直後から周辺住民の間に四日市喘息(ぜんそく)とよばれた呼吸器系疾患が発生し、その公害裁判(1967~1972)は四大公害裁判の一つといわれ、多くの教訓を残した。1991年、通産省(現、経済産業省)認可の公益法人として四日市桜地区に設置された(財)国際環境技術移転研究センター(ICETT)は、途上国に公害防止の経験と技術を伝えるための施設で、多くの国から研修生が訪れている。

 化学工業は長く県工業の首位を占めてきたが、1970年代初めの高度成長の終わりとともにその座を輸送機械・電気機械に譲って今日に至っている。鈴鹿に立地した本田技研、北勢内陸のデンソー(旧、日本電装)、富士通、さらに国道1号や名阪自動車道に沿って上野盆地や中勢地域にも各種の工場立地が広がっている。三重の伝統工業としては、鈴鹿の伊勢型(形)紙と墨、四日市の万古(ばんこ)焼、伊賀の伊賀焼と組紐(くみひも)(以上、国の伝統的工芸品に指定)、松阪の木綿などが、工芸品としても貴重である。

[伊藤達雄]

交通

県内の鉄道には、JRの関西本線・紀勢本線(きせいほんせん)・参宮線(さんぐうせん)・名松線(めいしょうせん)・草津線、近畿日本鉄道の大阪線・名古屋線・山田線・鈴鹿線・湯の山線・志摩線・鳥羽線、三岐鉄道(さんぎてつどう)の三岐線・北勢線、養老鉄道の養老線、伊賀鉄道の伊賀線、第三セクターが運営する伊勢鉄道の伊勢線、四日市あすなろう鉄道の内部(うつべ)線、同八王子線があり、全県の主要都市を結んでいる。これらの鉄道を利用する県内客の総数は年間8874万人(2009年度)で、うちJRの利用客は13.4%にすぎず、大部分が近鉄を利用する。県庁所在市の津から近鉄特急で名古屋へ50分、大阪へ90分で到達できる。

 道路では、名阪国道が大阪と名古屋へ、近畿自動車道伊勢線(伊勢自動車道)が亀山から伊勢へ通じ、伊勢湾岸自動車道、東名阪自動車道、新名神高速道路も県内区間は開通し、伊勢自動車道から分岐する近畿自動車道尾鷲多気線(紀勢自動車道)一部区間を除いて開通している。ほかに、国道1号(東海道)、23号(参宮街道)、25号、42号(熊野街道)などが県内の幹線である。また、構想中のリニア中央新幹線は三重県北部を通過する。

 海上交通では、鳥羽からフェリーが渥美半島先端の伊良湖(いらご)へ60分で結び、観光ルートの一つとなっている。港湾では国際拠点港湾の四日市港、重要港湾の津松阪港、尾鷲港と、ほかに地方港湾17港がある。なかでも四日市港は1899年(明治32)伊勢湾で最初の開港場に指定された由緒ある港で、名古屋港とともに中京大都市圏の海外貿易の玄関口となっている。

 県内に空港はなく、最寄りの国際空港は、伊勢湾を挟んで対岸の愛知県常滑(とこなめ)市沖にある中部国際空港である。津、松阪と空港は高速船で結ばれている。

[伊藤達雄]

観光

三重県には、伊勢志摩、吉野熊野の二つの国立公園、鈴鹿、室生赤目青山の二つの国定公園のほか、五つの県立自然公園がある。とくに伊勢志摩は、阪神・中京大都市圏から近く、古代から民間信仰の対象となった伊勢神宮、風光明媚(めいび)なリアス海岸と隆起海成台地、民俗色豊かな風物と海の幸に恵まれ、国内外から訪れる人の多い日本の代表的観光地で、1987年(昭和62)成立のリゾート法(総合保養地域整備法)ではその第一号指定(1988年)を受けた。県も観光立県を目ざして1994年(平成6)に「まつり博」を開催した。同年、近鉄がホテルを併設したテーマ・パーク「志摩スペイン村」を開園し、1995年には伊勢神宮の式年遷宮もあって、県全体で4555万人の入り込み客があった。その後は若干減少し、2003年の入り込み客は4307万人、2010年には3562万人である。

[伊藤達雄]

社会・文化

教育文化

東海道と参宮街道を多くの人々や物資や情報が通過する三重県は日本の先進地であった。国学者として著名な松坂の本居宣長(もとおりのりなが)、津の谷川士清(ことすが)、上野の生んだ俳人松尾芭蕉(ばしょう)など日本の文化史上、重要な業績を残した人々が育ったのも先進的文化風土のゆえであろう。

 津藩の藩校有造(ゆうぞう)館が創設されたのは1820年(文政3)で、初代督学には津坂孝綽(こうしゃく)がなり、学問と政治の一体化を唱え、腐敗した儒学に対して「真儒」を説いた。3代督学斎藤拙堂(せつどう)は蘭学(らんがく)研究のための洋学館を設け、長崎に伝習生を送るなど藩校の発展に尽くした。拙堂の尽力により津藩では庶民の子弟の教育機関修文(しゅうぶん)館もつくられた。このほか、桑名藩の立教館、長島藩の文礼館、亀山藩の明倫(めいりん)館、神戸(かんべ)藩の教倫(きょうりん)堂、菰野(こもの)藩の修文館、鳥羽藩の尚志(しょうし)館、久居(ひさい)藩の句読(くとう)所などの藩校があった。

 2008年(平成20)の時点で、高等教育機関では、4年制大学として、国立の三重大、県立の看護大、私立の皇学館大、四日市大、鈴鹿医療科学技術大、鈴鹿大、四日市看護医療大学の7大学、短期大学として、津市立の三重短大、私立の高田短大、鈴鹿短大、ユマニテク短大の4短大があり、高等専門学校として、国立の鈴鹿工業高専・鳥羽商船高専、私立の近畿大学工業高専の3校がある。

 新聞は、中央紙のほかは名古屋に本社を置く『中日新聞』のほぼ独占的支配下にある。ラジオ・テレビも、上野盆地が大阪系に属するほかは、名古屋系放送網の勢力圏内にある。県内を対象とする地方新聞(日刊)では、ほぼ県下全域をカバーする『伊勢新聞』(本社津市)が最大で、ほかに『南海日日』(尾鷲市)、『吉野熊野新聞』(熊野市)などがそれぞれの地域でミニコミ紙的に読まれている。放送関係ではNHKのほか三重テレビ放送(津市)と三重エフエム放送(津市)の2社がある。

[伊藤達雄]

生活文化

志摩の漁村は長く民俗学の宝庫といわれたが、古い風習は急速に消えつつある。志摩市阿児(あご)町国府(こう)で近年まで一般的であった屋敷内に別棟を建てて老夫婦が別居する隠居制もいまはほとんどみられない。わずかに正月や祭りの行事に昔の生活や風習をしのぶしきたりが続いているだけといえよう。元旦(がんたん)、紀北(きほく)町海山(みやま)区白浦(しろうら)では潮水をくんで船にかけ船の魂を清める。正月11日、志摩市志摩町和具(わぐ)では海女が餅(もち)や供え物を浜辺に並べて海水をまき、豊漁を祈る。鳥羽市神島ではアワビの豊漁を祈って6月10日に船から海中に米をアワビの種に見立ててばらまく、など漁業に関する風習は根強く残っている。一方、農村では機械化と兼業化が進み、農薬が普及してからは「虫送り」行事も行われなくなった。

 三重県の伝統芸能のうち古くから伊勢神宮に奉納されてきた神楽(かぐら)は、中世から近世末までは御師(おし)の屋敷でも奉納された。桑名市に残る伊勢太神楽(いせだいかぐら)(国の重要無形民俗文化財)は御師と結んで発展したといわれる。また志摩市磯部(いそべ)町にある神宮の別宮伊雑宮(いざわのみや)にはお田植神事「磯部の御神田(おみた)」(国の重要無形民俗文化財)が伝えられる。このほか神事芸能には鈴鹿市の椿大神社(つばきおおかみやしろ)や伊奈富(いのう)神社で演じられる獅子(しし)神楽、伊勢市御薗(みその)町の御頭(おかしら)神事(国指定重要無形民俗文化財)などがある。県下各地に伝えられる羯鼓踊(かんこおどり)は、羯鼓とよばれる締太鼓(しめだいこ)を胸に吊(つ)り下げ、それを打ち鳴らしながら踊るもので、雨乞(あまご)いや病気平癒を目的とする。志摩市阿児町の「安乗(あのり)の人形芝居」(国の重要無形民俗文化財)は、近世末、九鬼(くき)水軍が八幡宮に人形を奉納したことに始まるという。また、鳥羽市の志摩加茂五郷の盆祭行事、四日市市富田の鳥出(とりで)神社の鯨船行事、伊賀市の上野天神祭のダンジリ行事も国の重要無形民俗文化財に指定されている。

 神宮が20年ごとに行う式年遷宮祭は、7世紀に始まり、2013年(平成25)には第62回が行われた。神宮に関する祭りと、志摩の漁村で豊漁と安全を祈る独特の行事が三重の祭りの特色であるが、一般に知られる祭りや年中行事には次のものがある。鳥羽市神島のゲーター祭(1月)、伊勢市二見町夫婦岩(めおといわ)の大注連縄張(おおしめなわはり)神事(5月5日、9月5日、12月中旬の土・日曜日)、尾鷲市のヤーヤー祭(2月)、熊野市の花の窟(いわや)祭(2月、10月の2日)、松阪市継承寺の初午(はつうま)(3月)、神宮の神楽祭(4月、9月)、桑名市多度町の多度大社例祭(5月)、伊勢市猿田彦(さるたひこ)神社の御田植祭(5月)、菅島(すがしま)のしろんご祭(7月)、桑名市の石採(いしとり)祭(8月)、四日市市鳥出神社の富田鯨船祭(8月)、志摩市大王町波切(なきり)わらじ祭(旧暦8月申(さる)の日)、四日市祭(10月)、上野天神祭(10月)など。

[伊藤達雄]

文化財

伊勢神宮所蔵の書跡「玉篇(ぎょくへん)巻第二十二」1巻、津市専修(せんじゅ)寺の親鸞(しんらん)直筆の書2点、伊勢市金剛証寺の朝熊山経ヶ峯(あさまやまきょうがみね)経塚出土品は国宝に指定されている。以下、国指定重要文化財のうちおもなものを列挙する。建築物では、室町時代のものとして鳥羽市庫蔵(こぞう)寺本堂、関町地蔵院本堂・愛染堂・鐘楼、伊賀市猿田(さるた)神社本殿、伊賀市観菩提(かんぼだい)寺本堂・楼門、桃山時代のものに伊勢市金剛證寺本堂、伊賀市大村神社宝殿、伊賀市高倉神社本殿など、江戸時代のものに専修寺御影(みえい)堂・如来(にょらい)堂、伊賀市の町井家住宅などがある。仏像彫刻も多いが、とくに亀山市慈恩寺の阿弥陀(あみだ)如来は平安時代の優品である。

 特別史跡には、松阪市の本居宣長旧宅・同宅跡がある。国指定史跡には御墓山(おはかやま)古墳、伊勢国分寺跡、伊賀国分寺跡、長楽山廃寺跡、旧豊宮崎文庫、斎宮跡など。国指定名勝に北畠(きたばたけ)氏館跡庭園など、国指定天然記念物に九木神社樹叢(じゅそう)、大島暖地性植物群落、大杉谷などがある。亀山市関町の関宿は東海道の宿場町として重要伝統的建造物群保存地区となっている。

[伊藤達雄]

伝説

渡鹿野(わたかの)島に「夜泣き松」の伝説がある。かつて志摩の海に浮かぶ小島には多くの船が寄港し、天候不順のときは幾日でも日和(ひより)待ちをした。港には船乗り相手のハシリカネとよばれる遊女がおり、その1人が赤崎の老松の根元に産み落としたばかりの赤子を埋めた。以来、月夜に赤子の泣き声が聞こえるようになったという。弘法(こうぼう)伝説も多い。熊野市大吹(おおぶき)峠にある「弘法栗(ぐり)」、松阪市西蓮寺(さいれんじ)の「弘法柿(がき)」のほか、弘法大師(だいし)が杖(つえ)を立てた土地から水が湧(わ)き出たという「弘法清水」の伝説が各地にあり、志摩市阿児町志島(しじま)の弘法井戸は「杖跡水」とよばれ、大師の石像が祀(まつ)られている。鳥羽市の正徳(しょうとく)院にも弘法井戸があり、松阪市丹生寺(にゅうてら)町の子安井戸も弘法水で、身重の女が飲むと安産をすると伝えている。

 桑名市多度町多度大社の境内に「大楠(おおくすのき)」がそびえていたが、織田信長の武将滝川一益(かずます)が長島城の門扉(もんぴ)をつくるために伐(き)り倒させた。それが別宮の一目連(いちもくれん)神社の荒神(あらがみ)の怒りに触れ、城は焼かれ、楠を伐った中江清十郎一家は滅亡したという。熊野には中国秦(しん)の徐福(じょふく)の伝説が根づいている。徐福は始皇帝に仕えた道士で神仙の術に秀で、帝の命令で不老不死の仙薬を探すために来朝した。その船が漂着したのが熊野市波田須(はだす)の浜だったと伝える。徐福は仙薬を探しあぐねてついに日本の土に帰したという。芭蕉(ばしょう)が「月の夜に何を阿漕(あこぎ)に鳴く千鳥(ちどり)」の句を詠んだ「阿漕塚」は津市柳山(やなぎやま)にある。この塚は、禁断の珍魚ヤガラを病母のためにとったが、それが露顕して死刑になった漁師阿漕の平治の霊を弔うために建てられたという。この伝説はのちに謡曲や浄瑠璃(じょうるり)の素材になり有名になった。平安時代末期に大盗といわれた「熊坂長範(くまさかちょうはん)」の伝説は各地に残るが、いなべ市藤原町に熊坂という地があり、彼が潜んでいたと伝える岩窟(がんくつ)もある。

 亀山市関町と滋賀県甲賀市の境にある鈴鹿(すずか)峠は、平安時代には阿須波(あすは)道とよばれていた。峠の鏡岩(かがみいわ)に「鬼女立烏帽子(たてえぼし)」という名の女賊が住み着き、旅人を脅かしたが、坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)により退治された。南伊勢町には竈(かま)の字のつく集落が8か所ある。八ヶ竈(やつがかま)とよばれ、いずれも海に面した入り江にある。平家滅亡後、平維盛(これもり)の妾腹(しょうふく)の子が一族を連れて落ちてきた地と伝えている。平地がなくて農耕ができず、一族は生業(なりわい)に塩を焼いてきたという。

[武田静澄]

『『三重県史』(1964・三重県)』『堀田吉雄著『日本の民俗 三重』(1972・第一法規出版)』『西垣晴次・松島博著『三重県の歴史』(1974・山川出版社)』『駒敏郎・花岡大学著『伊勢・志摩の伝説』(1979・角川書店)』『平松令三編『郷土史事典 三重県』(1981・昌平社)』『『日本歴史地名大系24 三重県の地名』(1983・平凡社)』『『角川日本地名大辞典 三重県』(1983・角川書店)』『『三重県史』全36冊(1987~ ・三重県)』『稲本紀昭他著『三重県の歴史』(2000・山川出版社)』


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