三職(読み)サンショク

デジタル大辞泉 「三職」の意味・読み・例文・類語

さん‐しょく【三職】


明治政府最初の官制で、総裁議定ぎじょう参与の称。
明治4年(1871)から同18年まで、太政大臣・左右大臣参議の称。
三管領さんかんれい

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精選版 日本国語大辞典 「三職」の意味・読み・例文・類語

さん‐しょく【三職】

[1] 〘名〙
① 慶応三年(一八六七)一二月九日の王政復古により設置された総裁・議定・参与の三職。明治元年一八六八)閏四月の官制改革により廃された。〔新令字解(1868)〕
② 明治四年(一八七一)八月一〇日に置かれた、太政大臣・納言(左右大臣)・参議の総称。
東寺百合文書‐サ・文正元年(1466)閏二月二二日・備中国新見庄代官等注進状「去年三しょく地下大儀に申候間、地下より我々としるし候はは、立田多く成候はんする間」
[2] =さんしき(三職)(二)〔ロドリゲス日本大文典(1604‐08)〕

さん‐しき【三職】

[1] 〘名〙 室町時代荘園荘官である公文田所惣追捕使の三者の称。
※東寺百合文書‐あ・明徳四年(1393)一二月七日・幕府管領斯波義将奉書「将亦三職〈公文、田所、惣追捕使〉」
[2] 室町時代、管領職を務めた斯波(しば)・細川・畠山の三家の総称。三管領。さんしょく。
※長祿二年以来申次記(1509)「三職、細川右京大夫勝元朝臣、当管領也。斯波左兵衛佐義敏朝臣。畠山右衛門佐義就」

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改訂新版 世界大百科事典 「三職」の意味・わかりやすい解説

三職 (さんしょく)

明治初年,政府により制定され,太政官制の布告によって廃止されるまで,約6ヵ月間存続した官制。1867年(慶応3)12月,王政復古の大号令により,明治政府が成立するとともに,総裁,議定,参与の三職が設置された。総裁には有栖川宮熾仁(たるひと)親王が任ぜられて,国政を総理した。また議定には多くの皇族および公卿らが就任するとともに,参与には岩倉具視以下の公卿に加えて,尾張,越前,広島,土佐,薩摩の5藩の藩士らが着任した。薩摩藩士のなかには,のちに政府の実権者となる大久保利通や西郷隆盛らも含まれ,その意味で,この時期の三職の人事には,王政復古に参加した5藩の武家と,倒幕派公卿とが協力した維新政権の雄藩連合的性格が現れていた。その後,薩摩藩指導の武力討幕派と土佐藩中心の公議政体派の争いの過程で戊辰戦争が展開され,前者はその基礎を固めるために,その方法として,前記の5藩連合政権を,かたちのうえで全国的な連合政権に拡大することを意図した。その結果,実施された官制改革,その後の政体書発布の主要なねらいは,その点にあった。三職七科制は,68年(明治1)1月,三職のなかに新たに副総裁を置いて,前記の岩倉それに三条実美(さねとみ)をそれに任じたうえ,7事務科を新設した。神祇,内国,外国,陸海軍,会計,刑法,制度の各部局がそれらであり,各事務科には事務総督と事務掛が置かれた。総督には議定,掛には参与をあて,それぞれ数人を任命したが,公卿の参与は総督となることができた。またとくに神祇事務科の総督と掛には議定,参与以外からも就任できた。祭祀をおこなうという特殊な職務を担当していたのが,その理由であろう。その後,同年2月,政府は官制改革により,三職八局制を制定した。改革当初,総裁に前記の有栖川宮,副総裁に前記の三条,岩倉らが留任,輔弼に中山忠能正親町(おおぎまち)三条実愛(さねなる),総裁局顧問に木戸,大久保らが就任し,弁事(参与分掌)十余人が任命された。また八局の筆頭は神祇事務局で,以下,内国,外国,軍防,会計,刑法,制度の各事務局が設置された。各事務局の督(議定分掌)には公卿,輔(議定・参与分掌)には越前,佐賀その他の雄藩藩主,判事(参与分掌)には伊藤博文大隈重信,大久保利通,後藤象二郎などの旧西南雄藩の志士たちが任ぜられた。このように,三職七科制と三職八局制は,政府の政策案を審議決定する合議組織として,中央官省のなかの最高機関に位置づけられ,その運用には明治維新の〈功臣〉が多数任命された。こうした諸官職は68年閏4月に,政体書の制定によって廃止され,その後,三権分立,議会制度,官吏公選の方針をかかげた列藩同盟的政権が姿を現すことになる。
王政復古
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「三職」の意味・わかりやすい解説

三職
さんしょく

1867年(慶応3)12月9日から翌年閏(うるう)4月21日に至る間の、維新政府の中央組織。67年12月の王政復古によって誕生した維新政府は、摂政、関白、幕府などの統治機関を廃し、総裁、議定(ぎじょう)、参与からなる三職を置いた。三職は政策決定機構というべきで、着想の源泉は幕末の上下議院論にある。議定は上院に、参与は下院に相当する。したがって議定は上級廷臣、諸侯から、参与は下級廷臣ならびに西南雄藩の藩士から任命された。総裁が置かれ、有栖川宮熾仁(ありすがわのみやたるひと)親王が任命されたのは、明治天皇が弱年であったからであろう。なお、のちに副総裁が置かれて、三条実美(さねとみ)と岩倉具視(ともみ)が任命された。鳥羽(とば)・伏見(ふしみ)の戦いに勝利を収め近畿、西日本を支配下に置いた維新政権は行政組織を必要とし、1868年(慶応4)正月17日、三職のもとに神祇(じんぎ)、内国、外国、海陸軍、会計、刑法、制度の七科を置いた(三職七科制)。科の長官たる総督には議定が、次官ないし高級官吏ともいうべき掛(かかり)には参与が任命された。2月3日、七科は廃され、八局となった(三職八局制)。七科はそれぞれ局(海陸軍のみは軍防と改称)となり、首位に総裁局が設置された。ここには、木戸孝允(たかよし)、小松帯刀(たてわき)、後藤象二郎(しょうじろう)、大久保利通(としみち)ら薩長土(さっちょうど)の有力藩士が顧問として任命された。有力藩士の政治指導が不十分ながら制度的に保証されたわけであり、中央集権的な色彩が強まったわけである。しかし、三職制はしょせん臨時の機構であり、閏4月21日に廃止されて、政体書に基づく太政官(だじょうかん)制がこれにかわった。

[井上 勲]

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百科事典マイペディア 「三職」の意味・わかりやすい解説

三職【さんしょく】

1867年明治政府が成立して,総裁・議定・参与の三職が創設された。総裁には有栖川宮熾仁(たるひと)親王,議定には皇族及び公卿・諸侯等,参与には岩倉具視(ともみ)以下の公卿と雄藩の藩士が就任。その後の官制改革で三職七科制,三職八局制がとられたが,大久保利通(としみち)・西郷隆盛伊藤博文(ひろぶみ)など西国雄藩の維新の志士が任命されて運用。1868年太政官制布告によって廃止。
→関連項目小御所会議

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「三職」の解説

三職
さんしょく

王政復古の結果成立した新政府の要職の総裁・議定(ぎじょう)・参与の総称。1867年(慶応3)12月9日,王政復古の大号令により幕府および摂政・関白などが廃止となり,天皇のもとに三職が設けられ,国政の中枢となった。総裁には有栖川宮熾仁(たるひと)親王,議定には皇族・公卿・諸侯(雄藩藩主),参与には公家および鹿児島・高知・福井などの雄藩(のち萩藩も加わる)の藩士各3人が任じられた。68年(明治元)閏4月,政体書発布により廃止。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「三職」の意味・わかりやすい解説

三職
さんしょく

(1) 室町幕府の3管領 (細川,斯波,畠山) をさす場合もある (→三管四職 ) 。 (2) 慶応3 (1867) 年に設置された明治政府の政治機関で,総裁,議定,参与をいう。翌年1月 17日3職7科とし,次いで同2月3日3職8局に改めたが,閏4月 27日廃止。 (3) 明治4 (1871) 年8月 10日に設置された太政大臣,左右大臣,参議の総称。

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旺文社日本史事典 三訂版 「三職」の解説

三職
さんしょく

1867年,王政復古の際新設された新政府最高の3官職
総裁・議定・参与をいう。

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