三帝同盟
さんていどうめい
Dreikaiserbund ドイツ語
ビスマルク外交の一環としてドイツ、オーストリア、ロシアの3国皇帝間に結ばれた政治協定。1873年、3国皇帝がベルリンに会したおり、ビスマルクは、共和国フランスを中心とするヨーロッパの革命的諸潮流に対し、3国が君主主義の原則のうえに、ヨーロッパの現状維持のため協力することを提案、3国皇帝の間に同意が成立した。しかし、その後バルカンでロシアとオーストリアの対立が深まり、この協定も一時揺らいだ。しかしビスマルクの努力で1881年3国の間に中立条約が成立、83年にも更新された。しかしオーストリアとロシアの対立が激しくなったため、86年、条約は延長されず、三帝同盟は崩壊した。
[木谷 勤]
出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例
三帝同盟
さんていどうめい
Dreikaiserbündnis
普仏 (ふふつ) 戦争後の1873年6月,ドイツ・オーストリア・ロシアの3皇帝間に結ばれた軍事協約
ドイツ帝国の安定を目的としてビスマルクが提唱。ドイツの侵略をおそれるオーストリア,国際的孤立をおそれるロシアが賛同して成立した。しかし,バルカンにおけるオーストリア・ロシアの利害の不一致が表面化し,ベルリン会議(1878)のころになると事実上崩壊した。1881年に再度結ばれ(三帝協商),ビスマルクの保障体制の一環をなした。ブルガリアにおけるオーストリアとロシアの対立により,1887年,オーストリアが更新を拒否して崩壊した。
出典 旺文社世界史事典 三訂版旺文社世界史事典 三訂版について 情報
三帝同盟【さんていどうめい】
1873年独・露・オーストリア3国皇帝間に結ばれた協約。非常事態に際しては各国が共同協議することを約した。しかしバルカンをめぐる露・オーストリアの対立のため強固な連合にはならず,1878年ベルリン会議のころ事実上崩壊。1881年新協約が結ばれたが1887年消滅。→再保障条約
→関連項目アンドラーシ|ゴルチャコフ|ビスマルク|ベルリン会議
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
三帝同盟
さんていどうめい
League of the Three Emperors; Dreikaiserbund
1873年 10月,ドイツ,オーストリア,ロシアの3国皇帝間で結ばれた同盟。フランスの孤立化をはかるビスマルクの同盟外交の一環として,締結された。ベルリン会議後ロシア,オーストリアの対立で解体したため,81年6月新三帝同盟を結成,84年3月さらに3年間の延長を決定。 87年最終的に崩壊した。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
さんてい‐どうめい【三帝同盟】
普仏戦争後、一八七三年に結ばれたドイツ・オーストリア・ロシアの秘密協約。各国国境線の維持、革命運動の
防止、
バルカン問題の平和処理を内容とし、
ビスマルク体制の一環を形成した。露土戦争後実効を失ったが、八一年、三帝協商として復活した。
出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報
デジタル大辞泉
「三帝同盟」の意味・読み・例文・類語
さんてい‐どうめい【三帝同盟】
1873年、ドイツ・オーストリア・ロシア3国の皇帝間に結ばれた協約。ビスマルクの外交政策の一環をなす。
出典 小学館デジタル大辞泉について 情報 | 凡例
さんていどうめい【三帝同盟 Dreikaiserbündnis[ドイツ]】
1870,80年代,ドイツ,オーストリア,ロシア3国の皇帝の間に結ばれた同盟。普仏(独仏)戦争後ヨーロッパの現状維持をはかるビスマルク外交の一環として,1873年に成立。締約国は他国の武力攻撃や革命の脅威に対して互いに協力を約束した。その後バルカンでのロシアとオーストリアの対立のため同盟は有名無実となった。しかし81年ビスマルクの努力で再建,84年にさらに3年間延長されたが,以後崩壊に向かい,87年には,ドイツはロシア一国と〈再保障条約〉を結んだ。
出典 株式会社平凡社世界大百科事典 第2版について 情報