三嶽神社(読み)みたけじんじや

日本歴史地名大系 「三嶽神社」の解説

三嶽神社
みたけじんじや

[現在地名]福知山市字上佐々木 野隙

三岳みたけ山のおよそ八合目(約七〇〇メートル)にある。明治以前は蔵王ざおう権現と称し、三岳山南腹喜多きた金光きんこう寺が別当寺であった。三岳山頂に奥院(白山権現を祀る)があり、中佐々木なかささきに一の鳥居がある。現祭神は大国主神。旧村社。

三岳山がいつ頃から山岳霊場として開かれたかは不明だが、金光寺に伝わる元亨二年(一三二二)六月二〇日付治部卿法印某寄進状に

<資料は省略されています>

とあるので、すでに蔵王権現が祀られていたことがわかる。おそらくこの頃には霊場の活動拠点として別当寺が建立されていたと思われ、以降は別当寺を中心にして推移したと考えられる。

三嶽神社
みたけじんじや

[現在地名]鹿島市大字三河内字西三河内

中川の河口より約一キロ上流の三嶽に鎮座する。旧郷社。

神社明細帳に「祭神、押武兼日命(安閑天皇)、水分神、日本武尊。由緒、大和国吉野水分神を光仁天皇宝亀二年辛亥二月移し勧請す。今にこの山の名を吉野嶽とも申す」とある。「肥前古跡縁起」には「吉野。木庭こば吉野の御嶽は蔵王権現の御宮、本地観世音菩薩、天皇四十八代称徳天皇の勅願なり」とあり、「鹿島志」には「三嶽山。木庭村の三嶽山は、一に藤が嶺といひ、或いは琴路岳と称す。和州吉野の神の示現したまひし霊区なり。むかし、佐藤氏なる者あり。夢の告をもつて神祠を創建す。時に光仁帝の宝亀一年なり」、「佐賀県神社誌要」には「三嶽神社。

三嶽神社
みたけじんじや

[現在地名]花巻市西宮野目

西宮野目にしみやのめの南部にあり、大己貴命・木花開夜姫・少彦名命を祀る。旧村社。草創は明らかではないが、社名の由来については当社が矢沢やさわ胡四王こしおう神社、湯本ゆもと羽山はやま神社、稗貫ひえぬき大迫おおはさま内川目うちかわめ早池峰はやちね神社の三山の本宮にあたるためとか、古くは三竹と記し、稗貫郡石鳥谷いしどりや新堀にいぼり三竹堂みたけどうから遷座したことによるなどの所伝がある。江戸時代には阿弥陀・薬師・観音の三体を祀り、歴代盛岡藩主の祈願所として崇敬を集めたという(花巻市史)。「邦内郷村志」では三岳堂とみえ、三体を祀るのは熊野三山に倣ったもので三岳堂の名もこれにちなむとする。

三嶽神社
みたけじんじや

[現在地名]新郷村戸来 三嶽下

戸来へらいの中心集落の西南、五戸ごのへ川左岸の丘陵地に位置する。祭神は宇迦之御魂命で、神直日命を合祀。旧郷社。宝暦(一七五一―六四)の頃の御領分社堂に「三嶽堂」とあり、別当は修験重光院で、五戸年行事多門院の配下に属した。本地は弥陀薬師観音とされる。宝暦三年の書上(多門院文書)によれば多門院の直接支配下に置かれたこともあった。

明治初年廃仏毀釈に際し戸来村の支村田中たなかの多門院直轄の新山権現を合祀。明治初年の「新撰陸奥国誌」に当時の祭礼について「祭日は八月三十日、近郷参詣・群集し、駒躍と云伎あり、張抜の馬五頭を造り、五綵の糸綿を綴て美に跨り前後に締て馬に乗れる容とし、乗手も美服し外に緋或は白き襷を掛け、木刀・長刀・杵の類を持て左右に振り、空に揚て中□に握り、或は大に地を搗き、大皷に合て人馬一斉に跳躍す」と記す。

三嶽神社
みたけじんじや

[現在地名]三戸町貝守 林ノ後

貝守かいもりの中心集落の北東の山地に位置する。祭神は広国押武金日命で旧村社。宝暦(一七五一―六四)の頃の御領分社堂に「三嶽堂(中略)申伝ニハ往古より御上より御再興御修復被成下候由、右申立ニ御村氏子之者共宝暦八年三戸御代官願上候処、同年十一月願之通被仰付御修復被成下候」とあり、別当は修験南如坊とされる。

三嶽神社
みたけじんじや

[現在地名]新郷村西越 林前

西越さいごしの中心集落の西南、浅水あさみず川左岸の丘陵地に位置する。祭神は倉稲魂命で、旧村社。明治初年の「新撰陸奥国誌」によれば、安永五年(一七七六)の棟札に「三嶽山蛇王権現」とあり、藩政期は三岳権現と称された。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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