三原(読み)みはら

精選版 日本国語大辞典 「三原」の意味・読み・例文・類語

みはら【三原】

広島県南東部の地名。瀬戸内海に臨む。古来山陽道の要地で、小早川隆景の三原城築城により城下町として発展。繊維・機械・セメントなどの工業のほか、清酒特産する工業都市。昭和一一年(一九三六)市制。

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デジタル大辞泉 「三原」の意味・読み・例文・類語

みはら【三原】

広島県南部、瀬戸内海に面する市。繊維・機械などの工業や商業が盛ん。小早川隆景の城下町となって発展。三原城跡広島空港がある。人口10.0万(2010)。

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改訂新版 世界大百科事典 「三原」の意味・わかりやすい解説

三原[市] (みはら)

広島県南部に位置する市。2005年3月旧三原市と久井(くい),大和(だいわ),本郷(ほんごう)の3町が合体して成立した。人口10万0509(2010)。

三原市北部の旧町。旧御調(みつぎ)郡所属。人口5574(2000)。世羅台地南部に位置し,芦田川支流の御調川上流域,沼田(ぬた)川支流の仏通寺川,徳良川上流域を占める。台地上にあるため農業用水が不足し,町内に吉田大池など1000ヵ所以上の溜池がある。近世以降,牛市は日本三大市場の一つとして知られ,宿場としても栄えた。米作を中心に酪農,養鶏を行い,近年は高冷地を利用した野菜の抑制栽培,カーネーションなどの花卉栽培が盛んで,ニシキゴイのせり市場もある。宇根山麓に花コウセン緑岩からなる天然記念物の久井の岩海がある。

三原市北西部の旧町。旧賀茂郡所属。人口7603(2000)。世羅台地の西部を占め,沼田川支流の椋梨(むくなし)川と徳良川の流域で,川沿いに谷底平野が形成されている。米作,養豚,養鶏が盛んで,ブドウ,ナシ,モモの観光農園があり,特産にマツタケがある。臨済宗の古刹(こさつ)応海山棲真寺があり,鎌倉期の作とされる木造二十八部衆立像のうち13体を安置する。

三原市西部の旧町。旧豊田郡所属。人口1万0971(2000)。山地が多いが,南東流する沼田川に沿って肥沃な沖積平野がひらけ,南東部で梨和川,尾原川などが合流する。古代から中世にかけて沼田荘の中心地で,沼田本郷とよばれた。沼田荘地頭小早川氏は沼田川を挟んで高山城,新高山(にいたかやま)城を築き,居城とした。江戸時代は沼田川沿いの中国路に面して宿場町が形成された。農業を中心とするが,JR山陽本線,国道2号線が通じ,東に接する旧三原市への通勤者も少なくない。沼田川東岸にある高山城(妻高山城)跡,西岸にある新高山城はともに国の史跡。南方(みなみがた)にある真言宗楽音(がくおん)寺は平安時代の創建と伝え,中世には小早川氏の氏寺として栄えた。その南にある同宗東禅寺はもと蟇沼(ひきぬ)寺とよばれ,楽音寺とともにかつての沼田荘の宗教的拠点であった。御年代(みとしろ)古墳(史),梅木平(ばいきひら)古墳,貞丸古墳など町域には多くの古墳がある。山陽自動車道が通じ,広島空港もある交通の要衝である。
執筆者:

三原市中東部の旧市。1936年市制。人口8万2081(2000)。市域はかつての安芸・備後両国にまたがり,市街地は中央を東流する沼田川の下流平野に集中する。竜王山を中心とする北部山地が三原湾に迫り,そこに《万葉集》巻十五にみえる〈長井浦〉(糸崎)があった。古代山陽道の真良(しんら)駅は高坂町真良に比定される。高山城(旧,本郷町)を居城としていた小早川氏が1567年(永禄10)に三原城を築いて以来,城下町として三原の町が発展する。1892年山陽鉄道(現,JR山陽本線)の開通にともなって糸崎に操車場が置かれ,また99年に糸崎港が特別輸出港に指定され,工業都市としての発展が約束された。すなわち1918年の日本ラミー紡績(現,トスコ)を皮切りに,32年の日本セメント(現,太平洋セメント),帝人,43年の三菱重工など大工場がつぎつぎと立地し,工都三原の骨格ができあがった。しかし石油危機を契機に,既存の高度集積を生かしながら業種構造の多様化が図られている。75年に山陽新幹線の開通があり,瀬戸内海交通の拠点としての三原港の地位が向上した。また市内を鉄道と国道が貫通しているために遅れていた中心商業地区の整備が三原駅前再開発事業によって実現し,三原経済の拠点性を高めた。なお93年の山陽自動車道の開設によって,市内の慢性的交通渋滞はかなり解消された。市内には瀬戸内海国立公園の筆景山や臨済宗仏通寺派大本山仏通寺のある県立自然公園などの景勝地や文化財,また民俗行事としてやっさ踊りや御調(みつぎ)八幡宮の花踊りなどがあり,観光客を集めている。
執筆者:

沼田川河口の沖積平野に形成された城下町。中世,三原浦は塩の産地,鋳物師刀鍛冶の拠点として知られていた。小早川隆景は中世の〈三原要害〉を中心に,1567年(永禄10)と82年(天正10)の両年を画期として三原城(玉壺城)および城下町の建設・整備を行った。城は沼田川河口の二つの島を石垣でつないで築城され,浮城ともよばれた。その後,三原城は福島氏時代(1600-19)には城番尾関右衛門太郎以下,侍・鉄砲衆237人が配置された。福島氏改易後,浅野氏が入部し,三原城は筆頭家老三原浅野氏に預けられた。城下町は3万石におよぶ知行地支配,備後西部地域の商業・交通の中心地として重要であった。西国街道(中国路)に三原宿が置かれ,出雲,石見に通ずる備後路も開かれていた。城下町は東西両町に分かれ,町奉行支配のもとで年寄,組頭,目代などの町役人によって運営された。1819年(文政2)ころの東町には内町が7町,西町には5町と拡大するとともに,城下新開の築調も著しく,広大な宮沖新開をはじめ古浜(こはま)塩田,頼兼新田など多くの新田,塩田が開発されている。また木原村ほか4ヵ村が,城付5ヵ村として城下に準ずる扱いをうけていた。城下町の戸口は,享保年間(1716-36)の1169戸7104人を頂点とし,1773年(安永2)5371人,1819年902戸6378人と停滞している。幕末には城付の東野村に松浜港(のち糸崎港)が築港されて海運発展の素地がつくられ,68年(明治1)にはイギリス人教師を招いて三原英学所が開設された。特産には酒をはじめ,そうめん,梅酢,塩,鋳物,はさみ,刻みタバコなど。西町の川口屋の酒は献上酒にも用いられた。
執筆者:

三原[村] (みはら)

高知県南西部,幡多(はた)郡の村。人口1681(2010)。周囲を中村市,宿毛(すくも)市,土佐清水市に囲まれ,北端に貝ヶ森(455m),南端に今ノ山(868m)がそびえる。中央部は盆地状台地で,下ノ加江川が支流を集めて南東に流れ,流域に耕地が点在する。近世には三原郷と呼ばれ,かつては木炭と用材を産する山村地帯で,大庄屋の生城氏が柚ノ木(ゆのき)に居住した。幡多郡南部と中村を結ぶ道が郷内を通り,柚ノ木と上長谷には番所が置かれた。現在は米作を中心に,木材,畜産,茶,タバコなどの栽培が行われ,すずり石の生産が試みられている。柚ノ木の中山には,戦国期,土佐一条氏の家臣であった敷地(式地)氏の城跡と,同氏の墓所と伝えるところがある。
執筆者:

三原(兵庫) (みはら)

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日本歴史地名大系 「三原」の解説

三原
みはら

室町―戦国期の真田氏一族の根拠地。現和田町域を蛇行しながら南流する三原川流域で、大字上三原・中三原・下三原のほか、下三原に字南三原、大字黒岩くろいわに字北三原などの地名が残る。嘉慶二年(一三八八)六月二一日、鎌倉府奉行所に鎌倉円覚寺造営棟別銭未納の催促について報告した大喜光昌請文(円覚寺文書)に「三原・東条・丸」とみえ、円覚寺雑掌の主張にもかかわらず皆済したと返答している。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「三原」の意味・わかりやすい解説

三原
みはら

兵庫県南部,南あわじ市東部の旧町域。淡路島の南部,淡路平野南部の三原平野にある。 1955年榎列村,八木村,市村,神代村の4村が合体して町制。 2005年町,西淡町,南淡町の3町と合体して南あわじ市となった。耕地率が高く,農業が盛ん。野菜栽培を主とし,淡路たまねぎの本場。ほかに牛乳,瓦の生産がある。中心集落の市は奈良時代,国府が置かれたところで,史跡の国分寺塔跡がある。重要無形民俗文化財淡路人形浄瑠璃の発祥地。四国街道 (国道 28号線) 沿いのマツ並木は天然記念物。

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