三原城下(読み)みはらじようか

日本歴史地名大系 「三原城下」の解説

三原城下
みはらじようか

三原湾内に浮ぶおお島・島をつないで築城された三原城の東西に形成された城下町。備後国西端に位置し、東は米田よねだ山、北はさくら山・野畑のはた山、西北は大畑おおはた山の山地に囲まれ、前面に沼田ぬた川河口、瀬戸内海の島嶼部を望む海陸交通の要衝に立地。もと三原浦と称し、山沿いに町が形成されていたが、新高山にいたかやま(現豊田郡本郷町)の前進基地三原要害が永禄一〇年(一五六七)には三原城に発展し、天正一〇年(一五八二)頃から三原城の東に城下町の形成をみた。次いで近世初頭、福島正則は三原城に子正之を置き、西にし町の町割を行ったと伝える。元和五年(一六一九)からは広島藩家老浅野氏が三原城を預かり、以後明治二年(一八六九)に至る二五〇年間、歴代城主浅野氏の支配を受けた。

〔城下町の形成〕

中世の三原浦には鋳物・鍛冶・製塩など各種産業が発達して町が形成された。鎌倉末期からの三原刀鍛冶は正家を祖として備後一帯に枝葉を広げ、三原鋳物師「津守守真」の名は嘉元四年(一三〇六)二月の刻銘をもつ愛媛県松山市石手いして寺の鉄製灯籠台座に記される。天文二三年(一五五四)仏通ぶつつう寺仏殿須弥壇再興の塗師は三原町助三郎であり(仏通禅寺住持記「三原市史」所収)、天正二〇年尾道浄土じようど寺再興瓦を三原瓦工が焼成している。なお、文安二年(一四四五)「兵庫北関入船納帳」に三原塩が記される。三原浦は木梨きなし庄に属し、康正二年(一四五六)頃には高須杉原氏が領有、「海東諸国紀」の応仁二年(一四六八)の条に「備後州三原津太守左京助源家徳」とあるのは杉原氏のことと思われる。戦国時代には三原は高野山領となり、管理者として現地に派遣された大楽寺尊慶が小早川扶平に助力を求めたことによって、小早川氏進出の道が開かれた(永正元年六月二三日付「契状写」小早川家文書)。天正三年の「中書家久公御上京日記」の三月二九日に「備後の内三原の町、又左衛門といへる者の所へ宿」、四月一日に「立行けは、やかて三はらの城有」とあり、三原城西側に町があったことが知られる。城の東の米田山麓にも町並が形成されていたことは、「三原志稿」に立町たてまち(竪町)を「いにしへの本町」としていることからもうかがえる。

こうした三原浦の町を土台に城下町が形成されるのは天正期で、天正一一年と推定される三月三日付の小早川隆景書状(「閥閲録」所収飯田平右衛門家文書)に「三原屋敷配申付下向候間、定頃者五間三間充も可立候哉、両三人輪番ニ被仕、五日ニ一度被見廻候而、坪泉被申談、家々出目入目無之様ニ小路直ニ可被申付候」とある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報