万多親王(読み)まんだしんのう

改訂新版 世界大百科事典 「万多親王」の意味・わかりやすい解説

万多親王 (まんだしんのう)
生没年:788-830(延暦7-天長7)

桓武天皇の第5皇子。母は藤原鷲取の女,子に正行王・雄風王・正躬王らがいた。もと茨田親王。815年(弘仁6)に《新撰姓氏録》を藤原園人らとともに編纂した人として知られる。時に中務卿四品の位を帯びていた。817年1月,三品に昇り,823年9月に式部卿となった。830年4月,二品となり,同月没し,一品の位を贈られた。
執筆者:

出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

日本大百科全書(ニッポニカ) 「万多親王」の意味・わかりやすい解説

万多親王
まんだしんのう
(788―830)

桓武(かんむ)天皇第五皇子。母は藤原鷲取(わしとり)の娘。804年(延暦23)茨田(まんだ)を改め万多とし、その後四品(しほん)を賜り中務卿(なかつかさきょう)となった。最高責任者として『新撰姓氏録(しんせんしょうじろく)』の編纂(へんさん)に従事し、814年(弘仁5)完成させ、翌年再上表した。その後式部卿、大宰帥(だざいのそち)などを歴任し、830年(天長7)4月二品を授けられ、同月21日死去し一品を贈られた。その子に正躬(まさみ)王、正行(まさゆき)王、雄風(おかぜ)王らがある。

福井俊彦

『佐伯有清著『新撰姓氏録の研究 研究篇』(1963・吉川弘文館)』

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

朝日日本歴史人物事典 「万多親王」の解説

万多親王

没年:天長7.4.21(830.5.16)
生年:延暦7(788)
桓武天皇と中務大輔藤原鷲取の娘小屎の子。延暦14(795)年6月,周防国(山口県)の田100町と山800町を賜り,同20年11月に加冠,同23年1月,茨田の字を万多に改める。中務卿,式部卿などを歴任し,この間藤原園人らと共に『新撰姓氏録』の編纂に携わり,弘仁5(814)年6月に完成,翌年7月に奏進した。これは氏族の乱れを憂慮した嵯峨天皇の命により京,畿内の1182氏の系譜を分類したもので,いまでも古代史研究の重要書。長子の正躬王をはじめ正行王,雄風王はともに父親ゆずりの学問好きであったという。没した日に一品が追贈された。

(瀧浪貞子)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「万多親王」の解説

万多親王 まんたしんのう

788-830 平安時代前期,桓武(かんむ)天皇の第5皇子。
延暦(えんりゃく)7年生まれ。母は中務大輔(なかつかさのたいふ)藤原鷲取の娘小屎(おぐそ)。延暦23年茨田を万多とあらためる。藤原園人(そのひと)らと「新撰姓氏録(しょうじろく)」を編修。式部卿,大宰帥(だざいのそち)などをつとめた。天長7年4月21日死去。43歳。一品(いっぽん)をおくられた。子に正躬(まさみ)王,正行(まさゆき)王ら。

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「万多親王」の意味・わかりやすい解説

万多親王
まんだしんのう

[生]延暦7(788)
[没]天長7(830).4.21. 京都
桓武天皇の第5皇子。母は藤原鷲取の娘。初め「茨田 (まんだ) 」と書いたが,延暦 23 (804) 年改名。官位は二品 (にほん) ,式部卿,中務卿,大宰帥となり,死後一品を贈られた。藤原園人,藤原緒嗣らと勅を奉じて『新撰姓氏録』の編纂に従い,弘仁6 (815) 年奉進した。

出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報

旺文社日本史事典 三訂版 「万多親王」の解説

万多親王
まんだしんのう

788〜830
平安初期の皇族
桓武天皇の皇子。『新撰姓氏録』の編者の一人。

出典 旺文社日本史事典 三訂版旺文社日本史事典 三訂版について 情報

今日のキーワード

青天の霹靂

《陸游「九月四日鶏未鳴起作」から。晴れ渡った空に突然起こる雷の意》急に起きる変動・大事件。また、突然うけた衝撃。[補説]「晴天の霹靂」と書くのは誤り。[類語]突発的・発作的・反射的・突然・ひょっこり・...

青天の霹靂の用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android