万古焼(読み)ばんこやき

精選版 日本国語大辞典 「万古焼」の意味・読み・例文・類語

ばんこ‐やき【万古焼】

〘名〙 江戸中期、元文年間(一七三六‐四一伊勢国三重県桑名の豪商沼浪弄山創製した陶器。釉の技法は多いが、赤絵は独特の作風がある。
※陶器考(1854)付録「伊勢〈略〉万古焼 万古焼は桑名の豪家にて寸方斎と云」

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デジタル大辞泉 「万古焼」の意味・読み・例文・類語

ばんこ‐やき【万古焼】

陶器の一。元文年間(1736~1741)伊勢国桑名沼浪弄山ぬなみろうざん小向おぶけ創始赤絵にすぐれ、万古の文字を印した。また、青磁も製し、万古青磁の名がある。明治以降四日市中心急須を主とした赤土・素焼きのものが多く作られ、四日市万古とよばれる。→古万古こばんこ

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「万古焼」の意味・わかりやすい解説

万古焼
ばんこやき

三重県の代表的な陶窯。桑名の豪商沼浪弄山(ぬなみろうざん)(1719―77)が江戸中期に開窯した。弄山は茶道をよくし、楽焼(らくやき)から入って高火度釉陶(ゆうとう)に至るが、元文(げんぶん)年間(1736~41)別邸のあった三重県朝日町小向(おぶけ)に開窯。万古不易の意から、作品に「万古」の押印をつけたのでこの名称がある。弄山窯は一般に「古(こ)万古焼」と称し、色絵陶器、銅呈色の緑釉陶(万古青磁)に特色を発揮した。とくに意匠が斬新(ざんしん)で、オランダ意匠を取り入れ、更紗(さらさ)文様も好んで用いている。趣味性の強いものであったが、殖産性も高く、大量に販売され、宝暦(ほうれき)年間(1751~64)には江戸にも進出して向島(むこうじま)に支窯を設け、「江戸万古」と称した。しかし、弄山没後まもなく廃窯となった。

 その後、古万古窯から分かれた良助(よしすけ)が津に安東(あんとう)焼をおこし、1831年(天保2)には桑名の森有節(ゆうせつ)が小向に窯を再興し、世に「有節万古」の名で知られるが、古万古に対して再興万古ともいい、煎茶器(せんちゃき)や酒器が多い。また1853年(嘉永6)には同地で倉田久八(きゅうはち)が「再興安東」(別称阿漕(あこぎ)焼)をおこし、56年(安政3)には弄山の縁続きになる竹川竹斎が松坂の射和(いざわ)で「射和万古」を開窯したが、数多い万古系窯のなかでは射和がもっとも古万古の遺風を伝える。明治初期には有節万古を導入して「四日市万古」が開かれ、煎茶道具が多く焼かれている。

[矢部良明]


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改訂新版 世界大百科事典 「万古焼」の意味・わかりやすい解説

万古焼 (ばんこやき)

三重県の陶芸。伊勢桑名の豪商沼波弄山(ぬなみろうざん)(1718-77)が元文年間(1736-41)に,別宅のあった朝日町小向(おぶけ)に窯を築き,いわゆる御庭焼を開始したのが万古焼である。製品に〈万古〉あるいは〈万古不易〉の印を捺したので万古焼と呼ばれ,弄山窯の作品は俗に古万古と称される。茶陶を写し,色絵や銅呈色の青釉陶に特色をみせた。とくに赤を基調とする色絵は独特のもので,異国趣味の更紗文様を好んで描き込んでいる。その製品は御庭焼の範囲を超えて江戸でも売り出され人気を博した。そのため江戸の向島小梅に支窯を設け,これを江戸万古と呼ぶ。弄山が没したのち,数十年窯は存続したようだが,文化年間(1804-18)までにいったん廃されていたと推測される。しかし,古万古窯から分かれた陶工良助が津において安東焼をはじめ,桑名の森与五左衛門有節は1831年(天保2)に小向に有節万古窯を,56年には竹川竹斎が松阪市射和(いざわ)に射和万古窯をきずいて,万古窯を再興した。明治初期には有節万古を導入して四日市万古が開かれ,赤土素焼の急須などが焼かれている。
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「万古焼」の意味・わかりやすい解説

万古焼
ばんこやき

伊勢 (三重県) 桑名の商人沼浪弄山が江戸時代に創始した陶磁器。元文年間 (1736~41) に三重郡朝日村字小向 (おぶけ) に開窯して,オランダ趣味の赤絵付けを施した陶器を焼いたことに始る。弄山の窯は安永6 (77) 年に廃窯となったが,天保2 (1831) 年に同地に森有節が築窯して再興し,酒器や煎器を焼いた。また安政2 (55) 年に飯南郡射和 (いさわ) 村の国学者竹川竹斎が,弄山の『陶器伝書』によって自邸に築窯し,江戸や京都から陶工を招いて作陶させた。これらの万古焼は弄山の作を「弄山万古」または「古万古」,有節の作を「有節万古」「再興万古」「朝日万古」といい,竹斎の作を「射和万古」と呼んで区別している。天保以降,桑名や四日市に万古窯が多く開窯され,今日も盛んである。近年の作品は茶褐色の急須をはじめとする茶器や花瓶,日用雑器が主体。なお,万古焼には各時代にそれぞれ特色のある「萬古」の銘印が押されている。

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百科事典マイペディア 「万古焼」の意味・わかりやすい解説

万古焼【ばんこやき】

三重県産の陶器。元文年間に桑名の豪商沼波弄山(ぬなみろうざん)が桑名の小向(おぶけ)で創業,更紗(さらさ)文様の赤絵など異色の製品を焼いた。製品に〈万古〉あるいは〈万古不易〉と捺印したため万古焼と呼ばれる。弄山窯の作品は古万古と称され,のち江戸の向島小梅で焼いた製品を江戸万古という。ほかに1831年森有節が小向に再興したもの(有節万古,再興万古),1855年松阪射和(いさわ)の竹川竹斎邸に築窯したもの(射和万古),明治以後,四日市で量産される大正万古,新万古などがある。
→関連項目四日市[市]

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世界大百科事典(旧版)内の万古焼の言及

【伊勢国】より

…工業では,鋳物・刀剣・鐔(つば)を産し,造船用の釘も製造された。陶器には四日市を中心とする万古(ばんこ)焼などがあり,漆器も桑名,山田で造られた。丹生の水銀を原料とする化粧用の軽粉や,製薬では万金丹が知られた。…

【本所】より

…東京都墨田区南部の地名。隅田川東岸に位置し,1~4丁目に分かれる。1868年(明治1)東京府に編入され,78年本所区が成立。1944年向島区と合併し,墨田区となった。江戸初期には農村であり,本所村,中之郷村と呼ばれた一帯は,明暦の大火(1657)の後,急速に市街地として開発された。1660年(万治3)に本所築地奉行が設置され,竪(たて)川,横川,十間(じつけん)川,南割(みなみわり)下水などの堀がつくられ,低地を埋め立てて宅地が造成された。…

【四日市[市]】より

…17世紀中ごろには700戸ほどだったが,19世紀初めには町方だけで1628戸,天保年間(1830‐44)にはさらに1811戸・7114人と増え,旅籠屋(はたごや)は98軒にも達し隆盛であった。幕末に山中忠左衛門が興した万古(ばんこ)焼が現在も特産物になっている。【深谷 克己】。…

※「万古焼」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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