七卿落(読み)しちきょうおち

精選版 日本国語大辞典 「七卿落」の意味・読み・例文・類語

しちきょう‐おち シチキャウ‥【七卿落】

[1] 文久三年(一八六三)八月一八日、三条実美(さねとみ)三条西季知(すえとも)四条隆謌(たかうた)東久世通禧(みちとみ)壬生基修(もとなが)錦小路頼徳(よりとみ)沢宣嘉(のぶよし)の七人の公卿が、討幕の計画に敗れて朝官を免ぜられ、京都から長州藩に落ちのびたこと。八月十八日の政変。
[2] 山口市の名物菓子。長州藩士に守られて、同地に難を避けた(一)の事蹟にちなんで名づけられたもの。煎って砂糖醤油をつけた大きな霰餠(あられもち)

出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報

日本大百科全書(ニッポニカ) 「七卿落」の意味・わかりやすい解説

七卿落
しちきょうおち

1863年(文久3)三条実美(さんじょうさねとみ)ら7人の尊攘(そんじょう)派公卿(くぎょう)が長州藩に落ち逃れた事件。尊攘急進派の公卿は長州藩はじめ尊攘志士と提携して、攘夷(じょうい)強行、朝権奪回の運動を進めていたが、会津、薩摩(さつま)両藩ら公武合体派による八月十八日の政変により失脚し京都を追われた。すなわち同日三条実美、三条西季知(さんじょうにしすえとも)、東久世通禧(ひがしくぜみちとみ)、壬生基修(みぶもとなが)、四条隆謌(しじょうたかうた)、沢宣嘉(のぶよし)、錦小路頼徳(にしきのこうじよりのり)ほか6名の公卿が、参内、他行、他人面会の禁の朝譴(ちょうけん)を受けた。そこで久坂玄瑞(くさかげんずい)、真木和泉(まきいずみ)、長州藩重役らと事後策を練ったすえ、上記7人の公卿は一時長州藩に逃れ再起を図ることに決し、翌19日京を脱出、21日兵庫より乗船、27日周防(すおう)三田尻(みたじり)の招賢閣に入った。64年(元治1)禁門(きんもん)の変に際し、諸卿の上洛(じょうらく)が計画されたが、長州藩が敗北したため中止となり、長州藩内事情の変転もあって翌65年(慶応1)三条、三条西、東久世、四条、壬生の五卿は九州大宰府(だざいふ)に移り、王政復古まで滞在した。なおこの間、錦小路は病死し、沢は生野(いくの)の変に参加し敗走している。

[佐々木克]

『末松謙澄著『修訂 防長回天史』復刻版(1980・柏書房)』

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

改訂新版 世界大百科事典 「七卿落」の意味・わかりやすい解説

七卿落 (しちきょうおち)

文久3年(1863)8月18日の政変〉で,尊王攘夷派の公卿7人が京都を追われたこと。この政変は,孝明天皇と朝彦親王が画策し,会津・薩摩両藩が支援して,朝意を左右していた尊攘派の中心である長州藩と,それに同調していた急進派公卿を御所から退去させた事件である。三条実美(さねとみ),三条西季知(すえとも),東久世通禧(みちとみ),壬生基修(もとなが),四条隆謌(たかうた),錦小路頼徳(よりとみ),沢宣嘉(のぶよし)の7人の公卿は,長州藩兵に警護されて,翌19日,京都を発し長州へ向かった。朝廷は24日,7人の官位を剝奪した。7人は当初,防州三田尻の招賢閣にいたが,沢が脱走して生野の変に加わったため,長州藩は三条を山口湯田に,他の5人を山口氷上真光院に移し,浪士との面会を禁じた。翌1864年(元治1),錦小路は病死。65年(慶応1),三条ら5人は筑前藩のあっせんで太宰府延寿王院に移った。67年12月の王政復古で官位を復し,68年(明治1)1月,帰京。
執筆者:

出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「七卿落」の意味・わかりやすい解説

七卿落
しちきょうおち

尊王攘夷の公卿が京都を逃れて長州に落ち延びた幕末の事件。三条実美ら尊王攘夷派の公卿は,長州藩と結んで攘夷実現を目指して幕府勢力と対決していたが,文久3 (1863) 年8月 18日,長州藩と対立する公武合体派の薩摩藩兵がクーデターを起して朝廷の権力を掌握した (→文久三年八月十八日の政変 ) 。その結果,尊王攘夷派の宮,公卿は,朝旨を歪曲したものとして参内を禁止され,謹慎処分に付され,朝廷は佐幕系勢力によって占められた。そこで,三条をはじめ東久世通禧 (ひがしくぜみちとみ) ,沢宣嘉,三条西季知 (→三条西家 ) ,壬生基修 (みぶもとなが) ,錦小路頼徳 (にしきのこうじよりのり) ,四条隆謌 (たかうた) の公卿7人は再起のため,長州藩兵護衛のもとに政変の翌日京都を脱出し,9月,周防国に逃れた。

出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報

百科事典マイペディア 「七卿落」の意味・わかりやすい解説

七卿落【しちきょうおち】

文久3年8月18日の政変尊攘派公卿三条実美,東久世通禧(ひがしくぜみちとみ),三条西季知(すえとも),壬生基修(みぶもとなが),四条隆謌(たかうた),錦小路頼徳(にしきのこうじよりのり),沢宣嘉(のぶよし)の7名が京都を追放され,長州勢に擁されて長州三田尻(みたじり)にのがれた事件。のち沢が脱走して生野の変に加わったため,長州は残る6名を他所に移し,浪士との面会を禁じた。
→関連項目禁門の変真木和泉

出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報

世界大百科事典(旧版)内の七卿落の言及

【妙法院】より

…1663年(寛文3)尭恕法親王が当院より天台座主となり,新たに経蔵をたてて竜華蔵と称し,大いに寺運を興隆した。1863年(文久3)三条実美らが当院に会合し,いわゆる七卿落の出発地となった。多数の寺宝の中でも秀吉あてのポルトガル国印度副王信書(国宝)は有名。…

※「七卿落」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

今日のキーワード

焦土作戦

敵対的買収に対する防衛策のひとつ。買収対象となった企業が、重要な資産や事業部門を手放し、買収者にとっての成果を事前に減じ、魅力を失わせる方法である。侵入してきた外敵に武器や食料を与えないように、事前に...

焦土作戦の用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android