一関城(読み)いちのせきじょう

日本の城がわかる事典 「一関城」の解説

いちのせきじょう【一関城】

岩手県一関市の市街地に隣接する釣山(つりやま)と呼ばれる小高い丘にあった中世山城(やまじろ)。現在、城のあった場所は釣山公園として整備されている。一関付近は鎌倉時代以来、御家人出身の葛西氏が治めていたが、天正年間(1537~1591年)に葛西氏が石巻から登米(とよま)に本拠を移したころに、家臣の小野寺道照が一関に入り一関城を築いたといわれる。しかし、その後間もなく、葛西氏は豊臣秀吉の奥州仕置により滅亡豊臣大名である木村氏が短期間領有した後、伊達政宗(だてまさむね)の領地となり、政宗の叔父留守政景城主となった。寛文(かんぶん)年間(1661~1672年)に、政宗の十男宗勝(むねかつ)が入ったが、伊達騒動により宗勝は土佐に配流、1682年(天和2)に岩沼から移封された田村建顕(たつあき)が領主藩主)となり、以後田村氏11代が続いて明治の版籍奉還を迎えた。田村氏は釣山の東麓に居館を構えたが、小野寺氏以来の中世の城は釣山の山上にあったとされる。釣山公園の整備に伴い発掘調査が行われた結果、中世の一関城は釣山を中心に東西450m、南北400mの敷地があり、釣山の標高190m付近の千畳敷本丸が設けられていたことが明らかになった。なお、釣山は江戸時代、藩主の居館を見下ろす場所にあるため、入山は厳しく制限されていた。また釣山は平安時代、坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)が陣を敷き、安倍貞任(あべのさだとう)の弟の磐井安倍)五郎家任(いわいごろういえとう)が砦を築き、前九年の役(1051~62年)で安倍貞任と争った源頼義(よりよし)、源義家(よしいえ)親子も陣を置いたと伝えられる戦略上の要衝だった。釣山公園は、JR東北本線・東北新幹線一ノ関駅から徒歩約10分の場所にある。

出典 講談社日本の城がわかる事典について 情報

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