一糸文守(読み)いっしもんじゅ

改訂新版 世界大百科事典 「一糸文守」の意味・わかりやすい解説

一糸文守 (いっしもんじゅ)
生没年:1608-46(慶長13-正保3)

江戸前期の臨済名僧。〈いっしぶんしゅ〉とも読む。文守は公家の出身で,はじめ堺の南宗寺の沢庵宗彭に師事し,ついで妙心寺の愚堂東寔(ぐどうとうしよく)の法をついだ。彼は,生涯を一貫して,幕府の権勢におもねる禅宗界の趨勢を嫌い,栄利を求めず,孤高にして気韻ある隠者の禅をめざした。この彼の禅の高潔さは,かえって後水尾上皇知遇をえる契機となり,東福門院,皇女梅宮,近衛信尋烏丸光広など上皇側近の宮廷貴族があいついで彼に帰依した。文守は,しばしば院参して禅を説き,また宮廷の和漢連句の会につらなり,この時期に後水尾上皇を中心に展開された華やかな宮廷文化を支える一員となった。今日,閑寂な禅寺で知られる丹波亀岡の法常寺と西賀茂の霊源寺は,上皇が文守のために建てた寺である。彼は,他方,茶の湯や書画にも通じ,とくにその墨跡は,一休のそれをしのばせ,実に気品あるものをのこしている。
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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「一糸文守」の解説

一糸文守 いっし-ぶんしゅ

1608-1646 江戸時代前期の僧。
慶長13年生まれ。臨済(りんざい)宗。沢庵宗彭(たくあん-そうほう)に師事し,のち京都妙心寺の愚堂東寔(とうしょく)の法をつぐ。後水尾(ごみずのお)上皇の帰依(きえ)をうけ,寛永18年丹波亀岡(京都府)に法常寺をひらいた。詩文や書画にすぐれ,茶の湯にも通じ,烏丸光広,小堀遠州,松花堂昭乗らと交遊した。正保(しょうほ)3年3月19日死去。39歳。俗姓岩倉諡号(しごう)は定慧明光仏頂国師。別号に桐江,丹山。法名は「もんじゅ」ともよむ。

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世界大百科事典(旧版)内の一糸文守の言及

【一糸文守】より

…江戸前期の臨済の名僧。〈いっしぶんしゅ〉とも読む。文守は公家の出身で,はじめ堺の南宗寺の沢庵宗彭に師事し,ついで妙心寺の愚堂東寔(ぐどうとうしよく)の法をついだ。彼は,生涯を一貫して,幕府の権勢におもねる禅宗界の趨勢を嫌い,栄利を求めず,孤高にして気韻ある隠者の禅をめざした。この彼の禅の高潔さは,かえって後水尾上皇の知遇をえる契機となり,東福門院,皇女梅宮,近衛信尋,烏丸光広など上皇側近の宮廷貴族があいついで彼に帰依した。…

【永源寺】より

…応仁の乱時には横川景三,景徐周麟などが難を避けて来地し,1526年(大永6)には連歌師宗長が訪れているが,63年(永禄6)兵火にあい,71年(元亀2)には織田信長に焼かれて衰退した。別峯紹印が1631年(寛永8)に復興し,43年一糸文守が後水尾上皇の命で入寺,彦根藩主井伊直澄の外護を得て中興をとげ旧観に復したが,法系は一糸の入寺により関山派となった。1788年(天明8)には,塔頭14宇,直末・孫末寺等合計212ヵ寺を有する寺勢を呈した。…

※「一糸文守」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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