精選版 日本国語大辞典 「一条天皇」の意味・読み・例文・類語
いちじょう‐てんのう イチデウテンワウ【一条天皇】
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第66代天皇(在位986~1011)。円融(えんゆう)天皇第1皇子。母は藤原兼家(かねいえ)の女(むすめ)、東三条院詮子(せんし)。諱(いみな)は懐仁(やすひと)。984年(永観2)花山(かざん)天皇の皇太子となり、986年(寛和2)7歳で即位。1011年(寛弘8)病を得て出家するまで在位25年。初め外祖父兼家が摂政(せっしょう)となり執政し、兼家死後はその子道隆(みちたか)、道兼(みちかね)が摂関となり、ついで藤原道長(みちなが)が内覧の肩書で関白(かんぱく)の実を行った。長期にわたり執政した道長は女彰子(しょうし)を後宮に入れ、天皇との協調関係を維持し、絶大な権勢を振るった。多数の人材が輩出し、宮廷文化が栄華を極め、ことに女流文学が栄え、紫式部(むらさきしきぶ)、清少納言(せいしょうなごん)をはじめとする女房らが後宮で活躍した。陵墓は京都市円融寺北陵。
[森田 悌]
『土田直鎮著『王朝の貴族』(1971・中央公論社)』
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第66代に数えられる天皇。在位986-1011年。父円融天皇,母藤原詮子(東三条院)。諱(いみな)は懐仁(やすひと)。984年(永観2)立太子。従兄花山天皇が詮子の父兼家らの謀計で退位出家すると幼少で即位,兼家が摂政となる。990年(正暦1)元服。兼家がその年死んだ後その子道隆が摂関の地位を継いで権力を振るい,その死後弟道兼が就任数日で死ぬと,その弟道長が内覧の大臣として政権を掌握。天皇は道隆の女定子を皇后としたが,のち道長の女彰子が立后,一帝二后の例を開いた。定子には第1皇子敦康,彰子には敦成(後一条),敦良(後朱雀)の諸親王が生まれる。天皇は才学に富み,政治にも意欲を示し,道長とも協調を保った。治世下に才学や技能にすぐれた人物が輩出し,紫式部や清少納言らも両皇后の後宮で活躍した。1011年病により従兄三条天皇に譲位,一条院で崩じた。陵所は円融寺北陵(京都市右京区)。
執筆者:黒板 伸夫
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(朧谷寿)
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980.6.1~1011.6.22
在位986.6.23~1011.6.13
円融天皇の第1皇子。母は藤原兼家の女詮子。名は懐仁(やすひと)。984年(永観2)皇太子に立ち,2年後,花山(かざん)天皇のにわかな出家により7歳で践祚(せんそ)した。皇太子には冷泉(れいぜい)天皇の皇子居貞(おきさだ)(三条天皇)をたてた。その在位は藤原道長が摂関家の地位を固めた時期にあたるが,朝野に人材が輩出し,女流文学も栄えた。皇后藤原定子(道隆の女)との間に敦康(あつやす)親王をもうけたが,中宮藤原彰子(道長の女)の生んだ男子2人(後一条・後朱雀(ごすざく))の即位が実現し,皇位継承は円融・一条系に一本化された。
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