一条冬良(読み)いちじょうふゆら

精選版 日本国語大辞典 「一条冬良」の意味・読み・例文・類語

いちじょう‐ふゆら【一条冬良】

(「いちじょうふゆよし」とも) 室町後期の公家学者。兼良の子。関白太政大臣。諡号後妙華寺。兼良の訓育をうけて一条家学業を継承した。明応四年(一四九五)の「新撰菟玖波集」に太政大臣として序を作った。家集「流霞集」。寛正五~永正一一年(一四六四‐一五一四

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デジタル大辞泉 「一条冬良」の意味・読み・例文・類語

いちじょう‐ふゆら〔イチデウ‐〕【一条冬良】

[1464~1514]室町後期の公家・学者。兼良かねらの子。関白太政大臣。宗祇そうぎとともに準勅撰の「新撰菟玖波つくば」を編集。いちじょうふゆよし。

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朝日日本歴史人物事典 「一条冬良」の解説

一条冬良

没年:永正11.3.27(1514.4.21)
生年:寛正5.6.25(1464.7.29)
室町・戦国時代の公卿,学者。「ふゆら」ともいう。後妙華寺と号す。父は一条兼良,母は町顕郷の娘。兄教房の長男が夭折したあと猶子となり,文明4(1472)年に下向先の奈良興福寺の成就院で元服し家督を継ぐ。同5年従三位,同7年権中納言となり,同9年に父と共に帰京,同11年に権大納言となる。同15年,家領摂津国福原荘(兵庫県)に下向して代官香川氏の押領を退け同17年に帰京。同18年内大臣,長享2(1488)年関白・氏長者,明応1(1492)年従一位,翌2年に太政大臣となり関白を辞すが,同6年関白に還補して文亀1(1501)年辞任。永正11(1514)年に没し,東福寺に葬られた。父兼良の桃華坊文庫と学問研究を継承して,『古今和歌集』などを講じ,兼良の講義の筆記録『令聞書』や有職故実書の『県召除目次第』『衛府具抄』『三節会次第』などを著した。歌集に『流霞集』がある。

(伊東正子)

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「一条冬良」の解説

一条冬良 いちじょう-ふゆよし

1464-1514 室町-戦国時代の公卿(くぎょう),学者。
寛正(かんしょう)5年6月25日生まれ。一条兼良(かねよし)の子。甥(おい)政房(まさふさ)の非業の死により兄教房(のりふさ)の跡をうけ一条家を相続。文明5年従三位,長享2年関白となる。明応2年太政大臣,6年関白に再任。従一位。父の学問を継承し,桃華坊文庫の復興をはかる。宗祇(そうぎ)らと連歌集「新撰菟玖波集(しんせんつくばしゅう)」を撰進。永正(えいしょう)11年3月27日死去。51歳。法号は後妙華寺。名は「ふゆら」ともよむ。歌集に「流霞集」,著作に「衛府具(えふのぐ)」など。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「一条冬良」の意味・わかりやすい解説

一条冬良
いちじょうふゆら

[生]寛正5(1464).6.25.
[没]永正11(1514).3.27. 京都
室町時代中期の貴族。学者。関白,太政大臣,従一位。兼良 (→一条兼良 ) の次男,兄教房の猶子。父に学び,著書に父の講釈した令の抄録『桃萼残輝』がある。また宗祇に連歌を選定させて収めた『新撰菟玖波集 (しんせんつくばしゅう) 』は勅撰に準じられた。

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367日誕生日大事典 「一条冬良」の解説

一条冬良 (いちじょうふゆら)

生年月日:1464年6月25日
戦国時代の公卿
1514年没

出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報

世界大百科事典(旧版)内の一条冬良の言及

【新撰菟玖波集】より

…室町時代の連歌集。一条冬良(ふゆら),宗祇ほか編。1495年(明応4)成立。…

※「一条冬良」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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