一条兼良(いちじょうかねら)(読み)いちじょうかねら

日本大百科全書(ニッポニカ) の解説

一条兼良(いちじょうかねら)
いちじょうかねら
(1402―1481)

室町中期の公卿(くぎょう)、学者。名は「かねよし」とも読む。関白(かんぱく)一条経嗣(つねつぐ)(成恩寺殿(じょうおんじどの))の子として応永(おうえい)9年5月7日に生まれる。母は東坊城秀長(ひがしぼうじょうひでなが)の女(むすめ)。別称は一条禅閤(ぜんこう)。法号は覚恵(かくえ)。後(のちの)成恩寺殿。兄経輔(つねすけ)が病身であったので、1412年(応永19)11歳で元服し、叙爵して禁色(きんじき)、昇殿を許され、以後、父の権勢を背に累進して20歳で内大臣となり、29年(永享1)左大臣に、さらに4年後には摂政(せっしょう)、関白に昇って、そののちも摂政、関白、太政大臣(だいじょうだいじん)を歴任し、政界重きをなした。南北朝時代きっての碩学(せきがく)二条良基(にじょうよしもと)を祖父に、また歴代学問の家として名高い菅原(すがわら)氏の東坊城秀長を外祖父にもっただけに、若年より俊才をうたわれ、後年には「五百年来の大学者」「一天無双の才」とたたえられた。67年(応仁1)66歳で応仁(おうにん)の乱に際会し、代々の蔵書を収めた文庫の桃花坊(とうかぼう)を一条室町(むろまち)の邸もろとも失い、関白職現任のまま翌年子息の大乗院尋尊(だいじょういんじんそん)を頼って奈良に避難。77年(文明9)日野富子(ひのとみこ)らの尽力で京都に戻るまでは同地を拠点に学芸面で活躍、『花鳥余情(かちょうよせい)』『日本書紀纂疏(さんしょ)』など代表的著作を完成し、伊勢(いせ)(三重県)、近江(おうみ)(滋賀県)、美濃(みの)(岐阜県)などにも旅した。その間、73年に出家入道。晩年も故実、典礼、古典文学などの研究にいそしみ、物語、連歌和歌に関する数多(あまた)の著作を残した。精力絶倫で76年に75歳で女子をもうけ、その子女はあわせて26人にも上った。80年将軍足利義尚(あしかがよしひさ)の求めで『樵談治要(しょうだんちよう)』を記述し贈呈したが、翌文明(ぶんめい)13年4月2日、かぜがもとで80歳で没した。墓所は東福寺(とうふくじ)(京都市東山区)にある。

[横井 清]

『永島福太郎著『一条兼良』(1959・吉川弘文館)』

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