日本大百科全書(ニッポニカ) 「一休宗純」の意味・わかりやすい解説
一休宗純
いっきゅうそうじゅん
(1394―1481)
室町中期の臨済(りんざい)宗の僧。宗純は諱(いみな)で、宗順とも書く。狂雲子(きょううんし)、瞎驢(かつろ)、夢閨(むけい)などと号した。後小松(ごこまつ)天皇の落胤(らくいん)ともいわれ、6歳で京都安国寺の侍童となり、周建(しゅうけん)とよばれた。17歳で西金寺(さいこんじ)の謙翁(?―1415)に参学、大徳寺の高僧で、近江(おうみ)(滋賀県)堅田(かたた)に隠栖(いんせい)する華叟宗曇(かそうそうどん)(1352―1428)の弟子となって修行、一休の号を授かった。師の没後は定住することなく各地を雲遊したが、1467年(応仁1)応仁(おうにん)の乱が起こると戦火を避けて山城薪(やましろたきぎ)(京都府京田辺(きょうたなべ)市)の酬恩庵(しゅうおんあん)に寓(ぐう)した。応仁の乱が鎮まった1474年(文明6)勅命によって大徳寺の第47代住持となり、荒廃した伽藍(がらん)の再興に尽くした。文明(ぶんめい)13年11月21日、酬恩庵で示寂。一休は、当時すでに幕府の御用哲学と化していた五山派の禅の外にあって、ひとり日本禅の正統を自任し、独自の漢詩文を駆使して禅の本質を芸術性豊かに歌い上げた。また大徳寺開山、大燈(だいとう)国師(宗峰妙超(しゅうほうみょうちょう))の法流をさかのぼることによって、中国の南宋(そう)禅林に孤高の宗風を振るった虚堂智愚(きどうちぐ)に私淑し、自らその再来と称した。彼は自らを「狂雲子」と号し、形式や規律を否定して自由奔放な言動や奇行をなしたが、その姿は当時の形式化、世俗化した臨済の宗風に対する反抗、痛烈な皮肉であったといえよう。晩年には森侍者(しんじしゃ)(生没年不詳)という盲目の美女を愛し、その愛情を赤裸々に詩文に詠んでいる。しかし、その実人生と文学的虚構の間にはいまなお多くの謎(なぞ)を残している。その徹底した俗心否定と風刺の精神は後世に共感を得、『一休咄(ばなし)』『一休頓智談(とんちだん)』などが上梓(じょうし)され、子供にも親しまれるようになった。詩偈(しげ)集『狂雲集』は著名。ほかに『一休法語』や『仏鬼軍』も彼の作とされる。大徳寺真珠庵と酬恩庵に墓があり、ともに自刻等身の木像が安置されている。
[柳田聖山 2017年5月19日]
『秋月龍珉著『禅門の異流』(『日本の仏教12』所収・1967・筑摩書房)』▽『市川白弦著『一休』(1970・日本放送出版協会)』