一乗谷(読み)イチジョウダニ

デジタル大辞泉 「一乗谷」の意味・読み・例文・類語

いちじょう‐だに【一乗谷】

福井市南東部、足羽あすわ川に注ぐ一乗谷川に沿う谷間。戦国大名朝倉氏本拠地。居館や城下町の遺跡が発掘され、特別史跡

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精選版 日本国語大辞典 「一乗谷」の意味・読み・例文・類語

いちじょう‐だに【一乗谷】

福井市南東部、足羽川に注ぐ一乗谷川に沿う谷間。戦国大名朝倉氏の本拠地。居館や城下町の遺跡が発掘され、国特別史跡。

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日本歴史地名大系 「一乗谷」の解説

一乗谷
いちじようだに

福井平野の東部、一乗山(七四〇・九メートル)の西麓に源を発して西流、一乗滝を経て北に転じ足羽あすわ川に合流する一乗谷川(江戸時代の一乗谷絵図には「タキ川」と記す)のつくる、南北に細長い山あいの盆地。その東側には北から南へ、城の構えられた一乗城山いちじようしろやま(四三五・八メートル)をはじめ、白椿しらつばき山・一乗山・殿上でんじよう山・砥山とやまなど四〇〇―七〇〇メートルの山々が連なり、西側には同じく八地やち山・御茸みたけ山など二〇〇メートル級の低い山があり、谷の幅は広い所でも五〇〇メートルを超えない。

この谷には中世、朝倉氏が越前国の守護斯波氏の被官時代から城を構え、麓に城下町を形成、天正元年(一五七三)織田信長によって滅ぼされるまで一世紀有余、越前支配の本拠地となり、越南の都と称されて地方文化が開花した。

〔北庄から一乗谷へ〕

朝倉氏はもと但馬国朝来あさご郡・養父やぶ(現兵庫県)を本貫とする豪族であったが、南北朝内乱期に朝倉広景・高景父子が越前守護斯波高経に従って越前に移り、黒丸くろまる城に住した。この黒丸城については、「朝倉家記」は足羽郡北庄きたのしよう黒丸城とし、「朝倉始末記」は坂南さかみなみ郡黒丸城として定かでないが、「太平記」などの記述から吉田郡黒丸城(跡地は現福井市黒丸町)が正しく、広景が貞和三年(一三四七)北庄神明しんめい社を造営していること(朝倉家記)、延文二年(一三五七)高景(正景)が足利尊氏より足羽郡北庄の預所職に任命されていること(同書)などを考慮に入れると、のちに黒丸城から北庄に移ったとみるべきであろう。

朝倉氏が北庄からここ一乗谷に居城を移した時期も明確ではないが、右の高景が貞治五年(一三六六)一一月、将軍足利義詮から越前国内七ヵ所(宇坂庄・棗庄・東郷庄・坂南本郷・河南本郷・木部島・中野郷)の地頭職を与えられたことが(朝倉家記)、直接の契機をなしたものと思われる。七ヵ所のうち宇坂うさか庄は足羽郡に属し、一乗谷はその南宇坂下郷に含まれている。高景の子氏景が晩年一乗谷に熊野三社を勧請したといい、その舎弟三人が一乗谷の地名である阿波賀・向・三段崎を苗字としている(同書)事実からも、遅くともこの時期には一族が一乗谷に居住していたことが知られる。

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改訂新版 世界大百科事典 「一乗谷」の意味・わかりやすい解説

一乗谷 (いちじょうだに)

福井県福井市街の南東約10kmにある足羽(あすわ)川支流一乗谷川の狭長な谷。1471年(文明3)朝倉敏景が父祖以来の坂南郡三宅黒丸(現,福井市北郊)を捨ててここに築城してから,1573年(天正1)義景が織田信長に滅ぼされるまで,越前守護朝倉氏5代の本拠地であり,戦国期の重要遺構として,両側の山地を含む地域が1971年特別史跡〈一乗谷朝倉氏遺跡〉に指定された。1967年以来の発掘により義景居館,庭園(南陽寺,湯殿,諏訪館。ともに国指定名勝),武家屋敷,町家など遺構の復元が進む。また,81年に完成した資料館は土器,漆器など当時の生活を伝える出土品を展示し,そのなかには天目茶碗,宋・明の染付,青磁・白磁の碗・瓶,香炉や象棋(しようぎ)などの遊芸品がある。遺跡は史跡公園。
執筆者:

遺跡には当主の館である本館をはじめ,朝倉氏一族・重臣の居館群,中下層の武家屋敷,町家および神社,仏閣の跡が展開している。谷の入口と出口に下城戸,上城戸という城門を設け,その間2kmの城戸ノ内(きどのうち)に城下町を営んだ。中央に幅4~5mの幹線道路を敷設し,適宜,これに道路を直交させながら町全体を区画し,道の両側に武家屋敷,町家などを配置する造成である。当主の本館は,1辺120mの方形で,さらにそのまわりに新御殿,中の御殿という付属の郭を配する。上級の武家屋敷は基本的には間口30mで構成され,順次屋敷の面積は小さくなり,町家は間口2~4間,奥行き6~9間となる。これら区画の基本的寸法は10丈(100尺)=30.3mが用いられ,当主の本館から武家屋敷,町人町,道路幅に至るまで,この整数倍,整分数で構成される。周囲の山々には各所に砦や堀切,さらに東方の標高470mの一乗城山には南北400mにわたって山城が築かれた。朝倉氏による領国統治はよく安定しており,そのため京都での戦乱を逃れて公家や文化人がしばしば一乗谷を訪れ,華やかな文化を形成した。また戦国末期には室町幕府最後の将軍となる足利義昭も京都回復の夢を朝倉氏に託し,3年間一乗谷に滞在したこともあった。
執筆者:

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百科事典マイペディア 「一乗谷」の意味・わかりやすい解説

一乗谷【いちじょうだに】

福井平野の東部,一乗山(740.9m)の西麓を流れる一乗谷川のつくる南北に狭長な谷。この谷には中世,朝倉氏が越前(えちぜん)国の守護斯波(しば)氏の被官時代から一乗城山(435.8m)山上に城を構え,麓に城下町を形成,1573年織田信長によって滅ぼされるまで1世紀有余,越前支配の本拠地となり,越南(えつなん)の都と称された。朝倉氏による領国統治は比較的安定しており,京都での戦乱を逃れて公家や文化人が多く訪れ,はなやかな文化が花開いた。1930年一乗谷中の朝倉館跡・諏訪館跡・南陽寺および西山光照寺跡が史跡に指定され,1967年さらに南陽寺跡の一部と英林塚(朝倉孝景墓)・山城跡・上下両城戸(きど)の部分が追加指定をうけた。1971年指定地が278haに拡大され,特別史跡一乗谷朝倉氏遺跡と命名された。1972年福井県教育庁朝倉氏遺跡調査研究所が発足,調査や発掘・復原が進められている。
→関連項目朝倉孝景条々朝倉義景観音寺城

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「一乗谷」の意味・わかりやすい解説

一乗谷
いちじょうだに

福井市南東部の一地区。旧一乗谷村。福井市街の南東約10キロメートル、足羽川に注ぐ一乗谷川の一小谷。戦国時代末期、越前(えちぜん)国(福井県)の守護となった朝倉孝景(たかかげ)(敏景(としかげ))ゆかりの地。昭和初期、館(やかた)跡などが発見され、1971年(昭和46)特別史跡に指定された。また1991年(平成3)には遺跡内の四つの庭園が特別名勝に指定された。

[編集部]


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旺文社日本史事典 三訂版 「一乗谷」の解説

一乗谷
いちじょうだに

戦国時代,越前(福井県)の朝倉氏の城下町
斯波 (しば) 氏に代わった戦国大名朝倉敏景以下5代100年にわたる城下町。福井市の東南約10㎞,足羽 (あすわ) 川の支流一乗谷川にのぞむ標高470mほどの山上に築城した。

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事典・日本の観光資源 「一乗谷」の解説

一乗谷

(福井県福井市)
ふるさと福井の自然100選」指定の観光名所。

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世界大百科事典(旧版)内の一乗谷の言及

【朝倉義景】より

…当初,越後の上杉謙信と攻守同盟を結び,加賀一向一揆の挟撃をもくろみ,何度も加賀に出陣。65年(永禄8)将軍義輝が松永久秀に殺されると,弟の義昭を一乗谷に迎え入れ,松永と対抗。しかし義昭を奉じて上洛する意志がないため,68年,義昭は織田信長とともに上洛。…

【越前国】より

…《朝倉系図》によれば孝景は1516年(永正13)将軍家より白傘袋並びに毛氈鞍覆(もうせんあんぷく)を免ぜられ,28年(享禄1)将軍義晴の御供衆に,35年(天文4)塗輿御免,38年には御相伴衆に列した。67年(永禄10)5代義景のとき,京都を追われた足利義秋は朝倉氏を頼って来越し,翌年一乗谷で将軍の宣下を受けて義昭と改名する。この義昭の仲介で約1世紀にわたって仇敵の間柄であった越前,加賀の和睦が成立した。…

※「一乗谷」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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