一ッ木村(読み)ひとつぎむら

日本歴史地名大系 「一ッ木村」の解説

一ッ木村
ひとつぎむら

[現在地名]吉見町一ッ木

地頭方じとうほう村の東、荒川右岸の低地に位置する。同川を隔てて東は足立郡小谷こや(現吹上町)・同郡糠田ぬかた(現鴻巣市)。当村南方、今泉いまいずみ下砂しもずな古名こみよう大和田おおわだ各村近傍に何ヵ所かの飛地があり、荒川の堤外には持添の新田(一ッ木新田)があった(風土記稿)。地内に康元元年(一二五六)から応永九年(一四〇二)までの板碑九基がある。田園簿では田高一二六石余・畑高九六石余、日損場との注記がある。元禄郷帳では高五三〇石余、国立史料館本元禄郷帳では旗本興津領。しかし「風土記稿」によると元文年中(一七三六―四一)本村が興津領となってからも(元文五年か)持添新田は従来と同じく幕府領であったといい、幕末の改革組合取調書では興津領高二九〇石余、幕府領高二九七石余の相給。慶長年中(一五九六―一六一五)伊奈忠次が検地を実施、さらに寛文一二年(一六七二)には持添新田の検地、延宝四年(一六七六)にも本検地がいずれも幕府代官中川八郎左衛門によって行われている(「風土記稿」など)

一ッ木村
ひとつぎむら

[現在地名]巣南町七崎ななさき

居倉いくら村の北西に位置し、揖斐いび川東方の平坦地に立地。一木とも書く。戦国期には稲葉兵庫館があった。枝村に豊持とよもち村がある(新撰美濃志)。慶長郷帳に村名がみえ、高五一四石余。元和二年(一六一六)の村高領知改帳では西尾嘉教(揖斐藩)領。寛永二年(一六二五)から旗本徳永昌成領。正保郷帳では田三六二石余・畑一五二石余。元禄九年(一六九六)一部を徳永領に残し、大部分は幕府領となる。明和七年(一七七〇)幕府領分は大垣藩預となり、ともに幕末に至った。用水は寛永七年唐栗からくり村と共同で、政田まさだ井組の三水みみず川からの取水を願出ており(「唐栗村・一木村井料米証文」高木文書)、以後政田井水の余流から取水した。

一ッ木村
ひとつぎむら

赤坂台地の東斜面一帯に所在した村。大永四年(一五二四)一月北条氏綱が江戸城主の上杉朝興と戦いを交えている。のちに編集された「北条記」には氏綱の軍が「一ッ木原」で勝鬨をあげたとある。北条氏所領役帳には江戸衆の太田大膳の亮所領として六二貫六〇〇文「一木貝塚」が記されている。一ッ木については現港区の地名とも推定されるが、「一木貝塚」の領域は現在の千代田区麹町付近とも、また古くは麹町から赤坂一ッ木へかけての総称であったとも考えられている。

一ッ木村
ひとつぎむら

[現在地名]刈谷市一ッ木町

逢妻あいづま川の谷を挟んで北と南の洪積台地にわたる。北は逢妻川をもって今岡いまおか村と境し、西は築地ついじ村に接する。村名の由来は、もと大師井に一大樹があり、これを切って刈谷城鼓楼門の扉としたところから起こるという(郷土資料)。逢妻川の谷は昔入江をなしており、そこに茶煎坊ちやせんぼう遺跡(縄文中期後葉)かみカス貝塚(縄文後期)がある。前者は今は滅失した。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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