ワーグナー

百科事典マイペディア 「ワーグナー」の意味・わかりやすい解説

ワーグナー

ドイツの作曲家。ベルディとともに19世紀後半を代表するオペラ作曲家で,そのすべてを自ら執筆した台本で文学史上にも重要な位置を占める。ライプチヒに生まれ,少年時代から文学と音楽に親しむ。1832年,ベートーベンを範とした唯一の交響曲を作曲。このころから指揮者として各地を遍歴,借金と女性関係に苦しむが,これは終生変わらなかった。1839年からパリに滞在,オペラ《リエンチ》(1838年−1840年),《さまよえるオランダ人》(1841年)や小説《ベートーベン参り》(1840年)を書き,1842年ドレスデンに移って宮廷歌劇場(現ドレスデン国立歌劇場)指揮者となる。ここで《タンホイザー》(1843年−1845年),《ローエングリン》(1846年−1848年)を完成するが,パリの二月革命(1848年)の影響下に1849年〈ドレスデン蜂起〉(三月革命参照)が勃発(ぼっぱつ)。これに加わったため逮捕状が発せられ,チューリヒへ亡命。芸術論《芸術と革命》《未来の芸術作品》(ともに1849年)で従来のオペラを批判し,音楽,文学,絵画などあらゆる芸術を一つにした〈総合芸術〉としての音楽劇の創造を提唱,〈楽劇〉の第1作《トリスタンとイゾルデ》(1857年−1859年)を完成した。追放解除(1862年)となって1864年帰国し,バイエルン国王ルートウィヒ2世に招かれミュンヘンへ行く。1868年《ニュルンベルクのマイスタージンガー》(1862年−1867年)を初演。1870年にはF.リストの娘でビューローの妻だったコジマ〔1837-1930〕と正式結婚,また,このころ哲学者ニーチェと交際する。1872年バイロイトに居を移し,自作上演のためのバイロイト祝祭劇場を創設,1876年《ニーベルングの指環》で開場。1882年《パルジファル》(1878年−1882年。パルチファル参照)を上演したが,翌年ベネチアで客死した。主要作品にはほかに,《ウェーゼンドンク歌曲集(ウェーゼンドンクの5つの詩)》(1857年−1858年),管弦楽曲《ジークフリート牧歌》(1870年)などがある。音楽,文学両分野にわたって影響力をもったロマン主義最大の芸術家で,その芸術観と〈楽劇〉の諸様式,半音階和音などはのちの音楽家・芸術家に絶大な影響を及ぼした。バイロイト祝祭劇場で開かれる〈バイロイト音楽祭〉はその死後コジマによって引き継がれ,第2次世界大戦中の中断をはさんで1951年からは毎年開かれるようになった。→C.M.vonウェーバードビュッシーハンスリック無調音楽/W.ワーグナー
→関連項目ウォルフ音楽祭キーファークナッパーツブッシュコルトーザックスさまよえるオランダ人シャブリエシュトラウスショーソン新ロマン主義ゼンパーダンディチューバディリアスデュパルクニーベルンゲンの歌ニルソンビリエ・ド・リラダンヒンデミットフィッツナープティブルックナーフンパーディンクベリーニベルリオーズマイスタージンガーライトモティーフリヒタールートウィヒ[2世]レーマンロス・アンヘレス和声

ワーグナー

ドイツのオペラ演出家。作曲家R.ワーグナーの孫で,父ジークフリート〔1869-1930〕は指揮者,作曲家。バイロイトに生まれ,絵画を学んだのち音楽や精神分析を修める。ニュルンベルクでオペラ演出に携わり,1951年に弟ウォルフガング〔1919-2009〕とともに祖父の創設したバイロイト祝祭劇場の総監督に就任。抽象化された舞台空間と照明効果を生かした象徴主義的な舞台を手がけ,1960年代以降のオペラ・舞台演出に絶大な影響を与えた。祖父の作品のほか,《カルメン》《アイーダ》《ウォツェック》などの演出も手がけている。
→関連項目オペラニーベルングの指環フェルゼンシュタイン

ワーグナー

オーストリアの建築家。ウィーンで活動し,1894年からウィーン美術学校の教授も務めた。新しい建築は現代の生活に根ざした新しい要求を満たすものでなければならないとし,新しい材料,技術に即した幾何学的,直線的で明快な様式を追求して現代建築への道を開いた。ワーグナーの考えは弟子のオルブリヒホフマンらによってゼツェッシオン運動に発展した。代表作にマジョリカ・ハウス(1898年―1904年),ウィーン市営鉄道のカール広場駅(1894年―1901年),ウィーン郵便貯金局(1906年)等。
→関連項目岸田日出刀機能主義建築

ワーグナー

ドイツの経済学者,財政学者。ベルリン大学教授。道徳が経済活動を規制しなければならぬとして国家による私的資本の活動の抑制,社会政策による経済的弱者の保護を説き,租税の公平,経費膨張の原則等を唱えた。講壇社会主義者の一人で,のちキリスト教社会党を結成,プロイセンの下院・上院議員も務めた。主著《財政学原理》。
→関連項目社会政策学会

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ワーグナー」の意味・わかりやすい解説

ワーグナー
Wagner, (Wilhelm) Richard

[生]1813.5.22. ライプチヒ
[没]1883.2.13. ベネチア
ドイツの作曲家,音楽理論家。音楽,劇,文学の融合による総合芸術を目指し,ヨーロッパ音楽に一大変革をもたらした。パリ放浪,革命運動と亡命生活,人妻との悲恋,バイエルン国王との交際など波乱に富む生涯をおくり,ロマン主義,ギリシア悲劇ショーペンハウアーの哲学などを背景に,示導動機 (→ライトモチーフ ) ,無限旋律を駆使し,大胆な不協和音の使用や,大規模な管弦楽法による楽劇を創作。その作曲手法は国境を越えて多大な影響を与えた。主作品は『タンホイザー』 (1845) ,『トリスタンイゾルデ』 (57~59) ,『ニーベルンゲンの指輪』 (52~76) ,『パルジファル』 (82) など。主著『未来の芸術作品』 Das Kunstwerk der Zukunft (50) 。

ワーグナー
Wagner, Adolph

[生]1835.3.25. エルランゲン
[没]1917.11.8. ベルリン
ドイツの経済学者,政治家。 1868~69年フライブルク大学,70~1917年ベルリン大学教授。 1873年歴史学派の経済学者 L.ブレンターノや G.シュモラーらと「社会政策学会」を創設。 77年脱退して政界に入り,78年 A.シュテッカーらとキリスト教社会党を結成。 82~85年下院議員,1910~17年上院議員をつとめ,F.ラサールの流れをくむ国家社会主義の立場に立った土地改革や社会政策を推進。いわゆる講壇社会主義右派の代表的人物。主著『政治経済学の基礎』 Grundlegung der politischen Ökonomie (2巻,1876) ,『財政学』 Finanzwissenschaft (4巻,77~1901) 。

ワーグナー
Wagner, Otto

[生]1841.7.13. ペンツィング
[没]1918.4.11. ウィーン
オーストリアの建築家。最初古典的な作風を志したが,1890年代にアール・ヌーボーに共鳴し,伝統的様式を否定し,材料,構造,目的,美的立場から新しい建築を主張。 1894年からウィーン美術アカデミーの教授となり,後進を指導した。門下からゼツェッションの中心人物となった J.オルブリヒや J.ホフマン,A.ロースが出た。『近代建築』 Moderne Architektur (1895) の著書がある。主な作品にウィーンのマジョリカ・ハウス (98~99) ,カールスプラッツ駅 (99~1900) ,郵便貯蓄銀行 (04~06) ,シュタインホーフ精神病院の聖堂 (05~07) などがあり,傑作が多い。

ワーグナー
Wagner, Peter Joseph

[生]1865.8.19. トリール近郊キュレンツ
[没]1931.10.17. フリブール
ドイツの音楽学者。ストラスブール大学,さらにベルリンで学んだのち,1893年スイスのフリブール大学講師,のち同大学教授,さらに同大学総長となった。 1901年グレゴリオ聖歌協会を大学内に設置し,聖歌研究の国際的権威となり,教皇付きグレゴリオ聖歌審議会委員や国際音楽学会会長を務めた。主著『グレゴリオ聖歌旋律入門』 Einführung in die gregorianischen Melodien (I1895,II1905,III1921) 。

ワーグナー

ワグネル」のページをご覧ください。

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世界大百科事典 第2版 「ワーグナー」の意味・わかりやすい解説

ワーグナー【Adolf Heinrich Gotthelf Wagner】

1835‐1917
ドイツの経済学者,財政学者,統計学者。バイエルンのエルランゲンに生まれ,ゲッティンゲン,ハイデルベルク両大学で法律学,国家学を学ぶ。1858年ウィーン商業大学教授に就任,以後,ロシアのドルパト大学,ドイツのフライブルク大学を経てベルリン大学教授(国家学)として死去するまで財政学,経済学,統計学を講じた。この間,社会政策学会の設立(1872),キリスト教社会党の結成,プロシア下院議員,同上院議員等を通じ,宰相ビスマルクを助け,労働者階級のため社会正義を実現する国家介入政策を提唱して実践面でも活躍した。

ワーグナー【Gottfried Wagener】

1831‐92
明治初期の来日ドイツ人教師。日本の近代産業の草創期における指導者。通称ワグネル博士。官吏の子としてハノーファーに生まれ,はじめ工業学校に学んだが,数学教師のすすめで1849年ゲッティンゲン大学に入学,終生敬慕の念をささげたC.F.ガウスらに師事して数学,物理学を専攻し,52年学位取得後,フランスついでスイスに在住。語学,フランス文学,化学などを学ぶとともにパリの高校の数学教師,電信本局の翻訳官,ドイツ語新聞の編集あるいは工業学校・化学工場の技術指導など,さまざまな職業を経験した。

ワーグナー【Otto Wagner】

1841‐1918
オーストリアの建築家で,ヨーロッパ近代建築運動の先駆者の一人。ウィーンに生まれ,同地の工科大学とアカデミー,さらにベルリンのアカデミーで学ぶ。初期作品は明快で理論的に厳密な古典主義様式を採用する。ウィーンの当時の新開地に建つ商業建築や集合住宅を精力的に設計し,やがて1894年ウィーンのアカデミー教授に指名される(‐1912)。教授就任公開講義で当時の折衷様式建築を批判し,論議を巻き起こした(この講義は1895年《現代建築》と題し刊行)。

ワーグナー【Richard Wagner】

1813‐83
ドイツの作曲家。〈楽劇〉の台本で文学史上も重要な位置を占める。警察関係の書記をしていたフリードリヒ・ワーグナーを父に,その第9子としてライプチヒに生まれた。少年のころギリシア文学やシェークスピア劇に熱中したが,ベートーベンの作品に接し,音楽家になる決意をした。18歳のとき,ライプチヒ大学に入って音楽と哲学を聴講した。 1832年ころから指揮者として各地を遍歴する。最初のオペラ《婚礼》の台本をプラハで書き,帰国後作曲を始めたが,未完に終わった。

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デジタル大辞泉 「ワーグナー」の意味・読み・例文・類語

ワーグナー(Adolf Heinrich Gotthilf Wagner)

ワグナー

ワーグナー(Robert Ferdinand Wagner)

ワグナー

ワーグナー(Wilhelm Richard Wagner)

ワグナー

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精選版 日本国語大辞典 「ワーグナー」の意味・読み・例文・類語

ワーグナー

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世界大百科事典内のワーグナーの言及

【歴史学派】より

…この仕事を実行したのはG.シュモラーをはじめとする新歴史学派に属する人々である。
[新歴史学派]
 新歴史学派の代表的な学徒としては彼のほか,A.H.G.ワーグナーL.ブレンターノK.ビュヒャーG.F.クナップらの名を挙げることができる。歴史学派はこの段階に至ってはじめて学派と呼ぶにふさわしいグループを形成するが,旧歴史学派を特徴づけた歴史哲学の要素はここでは影をひそめ,代わって没理論的な〈細目研究〉が盛んに行われるようになった。…

【七宝】より

…現在この付近は七宝町と呼ばれて存在している。梶の出現で七宝工芸は大きく飛躍し,彼の弟子の塚本貝助(1828‐97)は,明治初年来日したドイツ人ワーグナーGottfried Wagner(1830‐92)の指導でその技術を大きく改良させ,さらに東京の濤川惣助(なみかわそうすけ)(1847‐1910)は無線七宝を考案,京都では並河靖之(なみかわやすゆき)(1845‐1927)が日本画風の七宝に特色を出し,名古屋では安藤重兵衛(1876‐1953)らが出て盛況を呈した。【由水 常雄】
[西洋]
 古代における七宝については不明な点が多い。…

【陶磁器】より

…輸出地域では北・中米向けとアジア向けが多い。 明治に入って日本の陶磁器工業は,江戸末に来日し有田焼の改良をしたドイツのワーグナーGottfried Wagner(1831‐92)らにより,西ヨーロッパの技術を導入するとともに,1875年には有田に香蘭社が,1904年には名古屋に日本陶器(ノリタケカンパニーリミテドの前身)が設立され,近代陶磁器メーカーがスタートした。日露戦争を境として,燃料の薪から石炭への転換,工程の機械化,西洋の顔料の使用などの技術革新により,日本の陶磁器生産業はそれまでの工芸品生産主体から,実用品生産を中心とする近代的産業へと変化し,大規模な工場も現れてきた。…

【機能主義建築】より

…しかし,産業革命後の近代社会に,工場・倉庫,百貨店・市場,停車場・博覧会場といった新しい種類の建築が現れるにつれ,建築での機能への関心が高まった。オーストリアのO.ワーグナーは〈用あるもののみが美しい〉といい,〈必要様式Nutzstil〉を唱え機能の再認識を促した。同じウィーンで活躍したA.ロースは〈装飾は罪悪なり〉と断じ,歴史様式からの決別を促した。…

【近代建築】より


[近代運動の開始]
 アール・ヌーボーは20世紀に入ると急速に衰え,直線的な造形が主流を占めるようになる。オーストリアのO.ワーグナーは《近代建築Moderne Architektur》(1895)を著して近代運動の先駆となり,その影響下にベーレンス,ロース,J.ホフマンらを輩出した。またフランスではA.ペレが古典主義の造形を基調にしたコンクリート造建築をつくり,鉄筋コンクリート技術者エンヌビクFrançois HennebiqueやボドAnatole de Baudotらによる試みをさらに発展させた。…

【室内装飾】より

…しかしアール・ヌーボーはドイツ,フランス,オーストリアなどにひろまったが,結果的には一種の様式主義に堕して消失した。オーストリアのO.ワーグナーは,様式主義からの分離・絶縁を目標にしたゼツェッシオン運動をおこした。1903年ワグナー門下生により室内装飾や工芸デザインのためのウィーン工房が設立され,過去からの分離は実践に移された。…

【オペラ】より

…このようなオペラハウス特有の建築様式は,17世紀のベネチアから徐々に興り,19世紀のグランド・オペラの流行を契機として,本格的なオペラハウスが各地に建設されるようになった。ワーグナーの手で建設されたバイロイト祝祭劇場は,作曲家であり演出家でもあったワーグナーが,自分の理想を実現するために構想したもので,舞台とその後方に接続する大道具格納庫の巨大さが目を奪う。ミラノのスカラ座,ウィーン国立歌劇場,パリのオペラ座,ニューヨークのメトロポリタン歌劇場など,世界的に著名なオペラハウスは,いずれも目をみはるほど整備された舞台機構をもっている。…

【楽劇】より

…オペラの一種。特に19世紀後半のドイツにおけるR.ワーグナーとその後継者の作品をさす。オペラとの相違は明確でないが,楽劇は従来のオペラに対する創作理念上の反省とその実践としての意味を持つ。…

【絶対音楽】より

…このように,条件や目的に左右されず,楽曲の構成法則を自ら与えるという自律的音楽の意味で他律的な音楽と対立する。 絶対音楽の概念は,はじめR.ワーグナーによって否定的な意味で用いられた。彼は言葉と舞踊と音楽が一体となっているのが本来であると考え,音楽だけ分離されている純粋器楽を抽象的な音楽とし,欠如態とみなした。…

【タンホイザー】より

R.ワーグナー作詞,作曲による3幕のロマン的オペラ。正式な題名は《タンホイザーとワルトブルクの歌合戦》。…

【ドイツ音楽】より

…バッハ,モーツァルト,ベートーベン,ブラームス,ワーグナーらに代表されるドイツ音楽の偉大さがしばしば語られる。しかし,ドイツ音楽を簡単に定義することはできない。…

【トリスタンとイゾルデ】より

R.ワーグナー作詞・作曲による3幕の楽劇。完成は1859年8月,初演は65年6月ミュンヘンの宮廷劇場であった。…

【ニーチェ】より

…その背景には,ヘーゲルに代表される壮大な政治・社会思想としてのドイツ観念論の体系が,台頭しつつある新しい産業社会を前にして崩壊し,さらには1848年の革命に挫折し啓蒙の思想を実現しえなかった市民層が,新たな世界観的拠りどころを求めていたという事態がある。政治的幻滅の中で,政治的にはきわめて保守的なショーペンハウアーのペシミズムが流行のきざしを見せ,やはり革命失敗の苦い経験から政治と芸術の架橋を放棄し,〈総合芸術〉に19世紀の克服を求めたW.R.ワーグナーが知識人層および支配層の注目を引きはじめていたころである。ニーチェの思想形成は,こうした19世紀ドイツ市民社会の知的状況に深く根ざしている。…

【ニーベルングの指環】より

R.ワーグナー作詞・作曲による楽劇。序夜と3日間のための〈舞台祝祭劇〉で,4部からなるきわめて大規模な作品。…

【ニーベルンゲンの歌】より

…ジークフリートの死も,ブルグント族の滅亡もそのような力によって引き起こされ,物語はゲルマン的悲劇的結末へと突き進む。 F.フケー,F.ヘッベルをはじめ多くの詩人たちがこの叙事詩を作品の題材とし,R.ワーグナーの楽劇《ニーベルングの指環》は《ニーベルンゲンの歌》をはじめ広く北欧神話に題材をもとめた巨作である。なおこの叙事詩にはあとにのこされた肉親,縁者たちの悲嘆を歌った《哀歌》(1215年ころ成立)がある。…

【ニュルンベルクのマイスタージンガー】より

R.ワーグナー作詞・作曲による全3幕のオペラ。台本は作曲者自身により1862年に完成,67年に総譜が完成した。…

【バイロイト音楽祭】より

…ドイツの作曲家R.ワーグナーが,自らの舞台芸術の理念を実現するため,バイエルン州のバイロイトに建設した祝祭劇場で催される音楽祭。この劇場はバイエルン王ルートウィヒ2世の援助のもとに1876年に完成され,同年8月13日から4日間にわたって四部作《ニーベルングの指環》全曲がワーグナー自身の演出とH.リヒターの指揮で初演されたのが第1回目で,82年には《パルジファル》が初演された。…

【パルジファル】より

…3幕から成る,W.R.ワーグナー最後の楽劇。作曲者自身〈舞台神聖祝典劇〉と呼んでいる。…

【フランス音楽】より

…フランクはJ.S.バッハと晩年のベートーベンから教訓を引き出した。その教育を受け継ぐべく1896年に音楽学校〈スコラ・カントルム〉をC.ボルドやF.A.ギルマンと設立したダンディは,ワーグナーの影響をも進んで強く受けていた。いきおいフランク一派はフランス音楽をドイツ化しようとした,と批判されもしたが,その罪は〈まじめな音楽〉(ミュジック・セリューズmusique sérieuse)をフランスに取り戻した功と背中合せであろう。…

【ライトモティーフ】より

…示(指)導動機と訳す。1871年にイェーンスFriedrich Wilhelm Jähns(1809‐88)が提唱した語で,ウォルツォーゲンHans von Wolzogen(1848‐1938)の《ニーベルングの指環》論(1876)において,初めてワーグナーの楽劇との関連で論じられた。ワーグナー自身はライトモティーフの語を否定したが(彼の用語では〈基礎主題Grundthema〉〈予感動機Ahnungsmotiv〉など),この手法は物語の劇的・心理的展開の手段としてきわめて効果的に活用されている。…

【ルートウィヒ[2世]】より

…マクシミリアン2世とプロイセンのホーエンツォレルン家出身の母との間に生まれ,幼時をホーエンシュワンガウ城のロマンティックな環境のもとで過ごした。早くから孤独癖が強く,中世ドイツの伝説に親しみ,幻想の世界に遊んだが,61年ミュンヘンで《ローエングリン》に感激してからR.ワーグナーに心酔するようになる。父の死により18歳で王位を継いだが,政務にはほとんど関心を示さず,もっぱら芸術に親しむ日々を送り,他方では近衛士官や俳優や馬丁と同性愛的関係におちいって,67年には王女ゾフィーとの婚約を解消してしまう。…

【ローエングリン】より

R.ワーグナー作詞・作曲による全3幕のロマン的オペラ。台本は1845年に完成,48年総譜が完成した。…

【ロマン派音楽】より

…世紀後半には他の諸国の貢献も強まる。おもな大作曲家を挙げれば,ベートーベンとシューベルトを視野におさめながら,C.M.vonウェーバー,メンデルスゾーン,シューマン,ショパン,ベルリオーズ,リスト,R.ワーグナーらが代表的存在である。ベートーベンとシューベルトはロマン的要素を有しながら,全体としては古典派に入れられる。…

【ワイマール】より

…ゲーテの家は当時の典型的な貴族の住宅として国立博物館の形で保存されている。1825年建造の劇場はR.ワーグナーのオペラの初演と結びついて音楽史上黄金時代を示したが,1907年改築された。18年ドイツ革命で君主制が倒されると,険悪な状勢にあったベルリンを避けて19年1月国民議会がここに開かれ,8月11日ワイマール憲法が制定された。…

※「ワーグナー」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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