精選版 日本国語大辞典 「ワシントン」の意味・読み・例文・類語
ワシントン
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アメリカ合衆国の初代大統領。在職1789-97年。17世紀中葉バージニアに移住したイギリス系の4代目。16歳のころより測量技師として活躍し,その間広大な土地を購入し,大農園主になった。兄の死とともにマウント・バーノンに移り,そこが彼の終生の住居となる。1754年民兵の中佐として植民地戦争に従軍,数々の武功のゆえにバージニア民兵軍の司令官となり,のちの独立戦争における総司令官としての基礎を築いた。59年には裕福な未亡人マーサ・カスティスMartha Custis(1732-1802)と結婚し,莫大な財産を加え,アメリカ有数の資産家となる。植民地議会代議員になり,名望家として政界にも登場するが,とくに指導的な地位にあったわけではない。植民地人の西部への進出を制限するイギリス政府の政策は,土地投機業者としてのワシントンの利害と衝突したので,彼は反英抗争運動に加わっていった。
75年4月,独立戦争の開始とともに,大陸会議によって大陸軍の総司令官に選ばれ,以来7年に及んで独立戦争遂行の軍事的最高責任者を務めることになる。その人員,訓練,装備いずれにおいても不十分な軍隊を率いて各地に転戦し,苦戦を続けながらも,フランス軍の援助などもあって,81年10月ヨークタウンでイギリス軍を破り,独立戦争を勝利に導いた。ワシントンはけっして機略に富む戦略家ではなかったが,その不屈な精神はよく軍の統一を保った。83年12月,総司令官の権限を大陸会議に返還してマウント・バーノンに帰り,大農園主の生活に戻った。
87年フィラデルフィアで連邦憲法制定会議が開かれたが,その議長に選ばれ,議論の多い会議をまとめる役割を果たした。ついで,この憲法の下での初代大統領に全員一致で選出され,89年4月ニューヨークで就任,92年再選された。その任期中,財務長官A.ハミルトンの財政政策を支持し,アメリカ合衆国の経済的・財政的基礎を築く。また,対外政策においては英仏戦争に際して中立を守り,イギリスとの条約を結ぶ。彼自身は超党派であると思っていたが,事実上はフェデラリスツの立場をとっていたため,当然党派的争いに巻き込まれ,個人的誹謗(ひぼう)も受けた。96年9月〈告別演説〉を公にし,国民に政党の弊,国際的中立の必要を説いて,2期で大統領を辞し,マウント・バーノンに戻った。99年12月死去。ワシントンは優れた政見,政略の才をもっていたわけではないが,その沈着,忍耐,誠実によって国民の信望を集め,合衆国統合の象徴として独立期のアメリカにとって不可欠の存在であった。首都ワシントン,ワシントン州をはじめ,国父としての彼を記念して名づけられている地名,施設が多い。
日本においては,早くも幕末に横井小楠が〈真実公平の心〉の持主(《沼山対話》1864),西洋列国の有名な人物の中では唯一例外的に〈徳義のある人物〉(甥あての書状,1867)とワシントンを称賛している。明治維新以降,アメリカの独立戦争・建国時ナショナリズムの,また自由の精神の体現者として,ワシントンは国権派からも民権派からも好意的に受けとめられた。そうしたアメリカ建国の父として,一般的に日本国民の尊敬の対象となる。ことにアメリカ国内でワシントンが神格化され,ウィームズMason Locke Weems(通称パーソン・ウィームズ)の伝記(1800ころ)による桜の木のエピソード(真実ではない)が日本にも広まり,誠実の士ワシントンというイメージが定着する。ただし,日本〈近代化〉のモデルが,アメリカよりヨーロッパに求められるや,ワシントンも,大衆の英雄でも研究の対象でもなく,単にアメリカ建国の父,一人の歴史上の人物として位置づけられるにとどまったといえよう。
執筆者:斎藤 真
アメリカ合衆国の首都。コロンビア特別地区District of Columbiaでもあり,二つの名称をあわせてワシントンD.C.と呼ばれる。名称はG.ワシントンとC.コロンブスをたたえたものである。どの州にも属さず,連邦議会の直轄地で,面積176km2,人口55万(2004)。合衆国大西洋岸地帯のほぼ南北の中央,ポトマック川東岸に位置し,ニューヨーク,ボストンを含むアメリカ・メガロポリスの南端を占める。ワシントンD.C.は,連邦議会議事堂(アメリカ国会議事堂),大統領官邸(ホワイト・ハウス),最高裁判所をはじめ政府関係官庁舎が多いのは当然であるが,そのほかワシントン記念碑,リンカン記念堂,ジェファソン記念堂,アメリカ議会図書館,スミソニアン協会傘下の自然史博物館と航空宇宙博物館,国立美術館(ワシントン・ナショナル・ギャラリー),国立公文書館,長大な遊歩公園など名所,公共施設が多い。加えて,ポトマック川対岸の桜並木,近郊のG.ワシントンの邸宅マウント・バーノンなどもあり,観光客の往来が多い。ニューディールおよび第2次大戦以来,連邦政府機構の巨大化に伴い,近郊のアーリントン(バージニア州)なども実質的に首都圏に含められるようになった。地域的に南部に属し,かつ連邦直轄地であるために南北戦争後南部諸州と異なって人種差別立法が設けられなかったことも手伝い,黒人が地区人口の約70%(1980)を占める。彼らはおもに東部に集中しており,これとは対照的に西部のジョージタウンなどは白人の高級住宅街である。
1787年起草の合衆国憲法第1条8節17項で〈合衆国政府の所在地たるべき地区〉の設定が規定されたが,場所についてはとくに定めていなかった。ちなみに,初代大統領G.ワシントンの就任式は89年4月ニューヨーク市で行われている。連邦制の下で中央政府の所在地については,各州はいずれも敏感たらざるをえなかったが,南北の妥協により,90年連邦議会は南北のほぼ中央南部寄りの,ポトマック河畔の一画とすることを定めた。翌年ワシントン大統領自身が10マイル平方の地区を指定し,メリーランド,バージニア両州より土地を譲り受け,フランス人技師ランファンPierre Charles L'Enfant少佐の下で都市計画がつくられた。ワシントンは都市計画に基づいてつくられた近代最初の首都である。93年9月議事堂の礎石が置かれ,1800年4月合衆国政府は臨時首都フィラデルフィアより未完成の新都に移転し,1801年第3代大統領T.ジェファソンの就任式はワシントンで行われた。1796年に正式名称として〈コロンビア特別地区〉が採用されたが,ワシントンという呼称も用いられた。1802年,同特別地区は〈ワシントン市City of Washington〉としての法人格を与えられ,市議会をもつに至るが,74年には自治権を奪われた。同年,ポトマック川以西の地域をバージニア州に返還し現地区に落ち着いた。州とは異なり,ワシントンD.C.は大統領および連邦議会議員選出のための選挙権をもっていなかったが,前者は1961年の憲法第24修正で実現し,70年には下院議員1名の選挙権を与えられた。さらに74年には,財政は連邦議会の管轄下に置かれたものの市としての自治権を認められて市長と市議会が設けられた。82年〈ニューコロンビア州〉創設の運動により州憲法が住民投票により採択されたが,連邦議会はこの合衆国51番目の州を承認していない。
執筆者:斎藤 真
アメリカ合衆国太平洋岸の州。略称Wash.。連邦加入1889年,42番目。面積17万2348km2,人口672万4540(2010)。州都オリンピア,最大都市シアトル。州名は初代大統領G.ワシントンにちなむ。カナダ国境と太平洋に面して,アメリカ本土48州の北西端に位置する。太平洋岸沿いにオリンピック国立公園を含む海岸山脈(コースト・レーンジズ)が走り,その東側に浅いフィヨルド群からなるピュージェット湾がある。中央部には南北にカスケード山脈が走り,〈タコマ富士〉の異名をとる火山レーニア山(標高4392mで周辺は国立公園)やノース・カスケーズ国立公園がある。ダグラスファー,ツガ,松などの常緑樹が多いみごとな森林が発達しているところから州の別名〈エバーグリーン(常緑)州Evergreen State〉が生まれた。カスケード山脈以西は降水量が多く,高山には氷河があるが,以東の内陸部はステップ気候のコロンビア盆地で,コロンビア川やその支流のスネーク川が流れる。コロンビア川には巨大なグランド・クーリー・ダム(1942竣工)がある。ピュージェット湾東岸にはシアトル,タコマ,エバリットなどの都市が連続し,商工業がよく発達している。航空機製造のボーイング社の所在地であり,製材・製紙,アルミニウム,食品加工などの工業が発達している。コロンビア盆地は小麦の大産地であるとともに,大麦,トウモロコシ,ジャガイモの栽培や牧羊がきわめて盛んである。西部では全米1位のリンゴをはじめ各種の果実,花の栽培が盛んである。豊かな森林に恵まれ,全米有数の林業州で,主として針葉樹が伐採される。サケをはじめとする水産も盛んである。
白人到来以前は沿岸部にチヌーク族など漁労によって生活している部族が,カスケード山脈以東には平原インディアンの諸族がこの地域で暮らしていた。1775年にスペイン人が海岸部を航海し,92年にはアメリカ人R.グレーがコロンビア川をさかのぼっている。19世紀に入ってから少しずつ白人集落が増えた。1846年にカナダとの境界が確定した。50年代には保留地への囲込みに対する平原インディアンの闘争が起こった。第2次大戦中は軍需産業が発達し,1943年ハンフォードに原子力センターが設置され,原子爆弾の製造に寄与した。現在も多数の原子力発電所が建設され,環境汚染に反対するエコロジー運動が盛り上がっている。
執筆者:正井 泰夫
アメリカの黒人の教育家,指導者。奴隷の子として生まれたが,解放後に苦学して大学を卒業し,教師になった。1881年アラバマ州のタスキーギーに黒人大学が設立されるや,請われて学長となり,職業訓練に徹した教育を行った。いきなり白人との平等を求めるよりは,黒人はまず手に職をつけ,徐々にその地位の向上をはかるべきだという穏健な考えは,彼の自伝《奴隷より身を起こして》(1901)に詳しい。
執筆者:木内 信敬
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
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[機能と制度]
首都の都市機能は国および時代によって異なるが,一般に近代国家形成以降の首都には政治・行政の中枢機能管理に加え,経済的中枢機能管理が集中している。しかしアメリカのワシントン,オーストラリアのキャンベラ,ブラジルのブラジリアなどのように,政治・行政中枢機能管理に特化した首都を計画的に建設した国もある。いずれにしても首都には,その政治的重要性から他の一般の都市以上に中央政府の統制を受ける特別の政治,行政制度がしかれていることが多い。…
…(3)黒人勢力胎動時代 しかしそういうなかにも,黒人の指導者層が育ちはじめた。1867年に最初の黒人大学ハワード大学がワシントンD.C.に創立されて以来,各地に黒人のための大学が生まれ,それらの卒業生が中産階級を築き上げるとともに,19世紀末から第1次大戦へかけて,多くの指導者を育て上げた。タスキーギー大学の創立者で,白人との協調を説いたB.T.ワシントンや,彼の説にあきたらず,より理論的に人種の平等を叫んだデュ・ボイスは,その代表的な存在である。…
※「ワシントン」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
《陸游「九月四日鶏未鳴起作」から。晴れ渡った空に突然起こる雷の意》急に起きる変動・大事件。また、突然うけた衝撃。[補説]「晴天の霹靂」と書くのは誤り。[類語]突発的・発作的・反射的・突然・ひょっこり・...
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