ローマ道(読み)ローマどう

改訂新版 世界大百科事典 「ローマ道」の意味・わかりやすい解説

ローマ道 (ローマどう)

古代ローマ世界全域を結んだ道路網。現実的な性格のローマ人の生んだ,優れた土木技術の所産で,本来は軍事的な目的に資するものであったが,広大な版図の商業的・社会的な連係を促し,ローマ文化を均質化し,拡大するのに役立った。まず,前312年に建設されたアッピア街道がローマとカプアを結んで以来,おもにローマから放射線状に,イタリア半島の各地にのびる公道が建設されていき,共和政の末までに半島の道路網はほぼ完備し,アウグストゥス以降帝政期には半島内の道路の修復・整備と属州の道路の建設,管理機構の確立に力が注がれた。特にティベリウス帝はダルマティア,クラウディウス帝はガリア,ハドリアヌス帝はアフリカと東方属州に関心を示した。

 道路名は目的地,機能,建設者の名をとって名付けられた。共和政期には,道路関係の問題を担当したのはケンソルであり,建設・修復は,ケンソルの手で請負契約の形によって行われたとみられるが,異説(コンスルその他のインペリウム保持者が担当したとする)もある。個々の道路の管理官(クラトレス)も共和政期にみられるが,アウグストゥスは前20年,元老院議員から成る公道の監督・修復のための道路管理官(クラトレス・ウィアルムcuratores viarum)を設けて道路制度を整えた。なお史料面では属州の道路にはクラトレスは登場せず,地方の共同体の助力をえた地方長官が責任をもったと推定され,物的・人的な負担は各地方に重くのしかかった。道路維持のための費用は,国庫,地方,土地所有者が分担するのが一般的であり(ただし共和政期には建設・修理費用はおもに国庫が負担したとみられる),皇帝が自己の費用で修復した例も,特にイタリアの幹線道路の場合には指摘される。

 道路建設の方法はエトルリア人から学んだ点が多く,天候や四季の変化をふまえ,交通量の多寡に対応して,特に排水と耐久性に意が用いられた。一般には路床として,大きな石で基礎を固め,その上に石塊または砕石を,表層は砂利または一定の大きさの砂岩を敷いた。セメントの使用された例もあるし,大きなブロックや丸石で舗装されることもあった。排水のため上向きに反り(キャンバー),雨水を流す側溝が設けられた。車馬のための踏み台の石も据えられ,幹線道路には高い土塁が築かれる。道幅は通常5m前後であった。里程標はおおむねローマを起点とする距離(ローマ・マイル)を記したが,属州では属州の首邑からの距離を示し,形は円筒形,高さは6フィート(約1.8m)程度であった。駅伝制の発展とともに駅場も整備され,道路沿いにメルクリウスヘルメス)神にちなむ石塚・石碑・祠などがみられた。道路はまっすぐかつ水平に走るようにつくられ,そのために谷間を横切る際には数多くのアーチから成る陸橋をつくり,また山腹に道をつくった。道路トンネルもローマ人の創造したものである。

 ローマ,特にイタリアの主要な道路は次の通りである。(1)アウレリア街道Via Aurelia 創建年不詳。ローマから北西,エトルリア海岸沿いに後アレラテまでのびる。(2)アエミリア街道Via Aemilia 前187年創建。アリミヌムとプラケンティアを結ぶ。(3)アエミリア・スカウリ街道Via Aemilia Scauli 前109年創建。アウレリア街道とポストゥミア街道を結ぶ。(4)アッピア街道Via Appia 前312年創建。ローマから南イタリアにのびる幹線道路。最初ローマとカプアを結び,後ベネウェントゥム,ウェヌシア,タレントゥムを経てブルンディシウムに及んだ。舗装はグラックス時代に完成。(5)アンニア街道Via Annia (a)前153年創建。北イタリア,ボノニアアクイレイアを結ぶ。(b)アッピア街道の支道。カプアとレギウムを結ぶ。(c)エトルリアの道路。(6)ウァレリア街道Via Valeria。ローマからアドリア海岸のアテルヌムに至る幹線道路。(7)エグナティア街道Via Egnatia 前130年ころ建設。アドリア海岸からビュザンティウムに及ぶ。ローマと東方を結ぶ幹線道路。支道も多い。(8)カッシア街道Via Cassia ローマから中部エトルリアを経てアレティウムに及ぶ道路。後フロレンティア,ムティナにまでのびる。(9)クロディア街道Via Clodia ローマから北にのび,西エトルリアをはしる道路。(10)サラリア街道Via Salaria 元来はテベレ河口からの塩の道。ローマからレアテに及び,後アドリア海岸に達した。(11)ドミティア街道Via Domitia ローヌ河畔からスペインにまでのびる道路。(12)ドミティアナ街道Via Domitiana シヌエッサからプテオリに及ぶ道路。(13)トラヤナ街道Via Traiana トラヤヌスの建設した道路。ベネウェントゥム,ブルンディシウム間を結び,アッピア街道のバイパス役を果たした。(14)フラミニア街道Via Flaminia 前220年創建。イタリア北部の幹線道路。ローマからファヌム・フォルトゥナエを経てアリミヌムに及ぶ。(15)ポストゥミア街道Via Postumia クレモナを中心に東はアクイレイア,西はプラケンティア,ゲヌアにのびる,北イタリアの主要道路。(16)ポピリア街道Via Popillia 北イタリアの道路。アクイレイアとアリミヌムを結ぶ。一説ではカプア,レギウム間の道路。(17)ラティナ街道Via Latina ローマから南東にのび,フレゲラエを経てカシリヌムでアッピア街道に合する。(18)ラビカナ街道Via Labicana ローマから南東にのび,ラビキに及び,ラティナ街道に合する。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「ローマ道」の意味・わかりやすい解説

ローマ道
ろーまどう
Via publicae ラテン語

古代ローマの国道。ローマは征服と支配が進むにつれて全帝国に国道網を張り巡らした。ディオクレティアヌス帝(在位284~305)時代の総数が知られているが、道路本数372本、延長8万5000キロメートルであった。これらの道路は首都ローマから放射状に建設され、帝国の隅々まで人間・物資および情報を伝達した。

[弓削 達]

建設の歴史

建設年代は不明だが最古のものと思われるのは、ローマから南東に走るラティーナ街道であり、また建設年代の明らかな最古のものは紀元前312年のアッピア街道で、初めローマからカプアまでであったが、前244年までに南端のブルンディシウムまで延長された。前220年、ローマからアドリア海沿岸のアリミヌム(現リミニ)までフラミニア街道が建設された。また前130年ごろには、ギリシア北部のマケドニアを東西に横断してテサロニケ(テッサロニキ)を経てビザンティオン(現イスタンブール)に至るエグナティア街道が建設された。これは、そのころ合併されたペルガモン王国を確保するためのもので、この例のようにすべてその時々の軍事的目的に奉仕するために建設されたものであった。しかし属州での道路建設が本格的に行われたのは帝政期に入ってからで、ティベリウス帝(在位後14~37)の時代にはダルマティア(現クロアチア)、クラウディウス帝(在位41~54)の時代にはガリア、ハドリアヌス帝(在位117~138)の時代には北アフリカと東部の諸州で、それぞれ相次いで整備された。

 国道の建設は、私有地を国有地に転用する権限ius publicandiをもつインペリウム保持者の管轄に属したが、実際の仕事は、国有地に建造物を建設する権限をもつケンソルが担い、それを国家事業請負業者に請け負わせて遂行した。アッピア街道などの街道名につけられた名前は、多くこのケンソルの名であった。しかし帝政期に入ると、道路世話役curatores viarumという専門役人が置かれて、皇帝の下に管理・修復にあたった。ただし属州での仕事は、総督の責任の下に属州内諸都市に割り当てられた。道路の建設・維持・修復の費用は、ローマの国費と統治下諸都市と、税その他の公課を免除されていた道路沿いの土地所有者とによって分担された。帝政期には皇帝が私財で道路修復の巨費を引き受けることもしばしばあった。

[弓削 達]

道路の構造

道路上には一定間隔を置いて里程標石miliariumが置かれ、その上に、コンスル・皇帝など建設者と建設・修復にあたった役人の名が刻まれ、また起点からのローマ・マイル数milia passusが明記された。道路の構造は、時代・地方によりさまざまであるが、だいたいは、最下層に大きな石を埋め、その上に小石、そして砂利を敷き、所によってはセメント舗装が加えられた。道路そのものは全体として他の土地よりすこし高くされ、両側に側溝もつけられ、できる限り一直線に走らされた。起伏のある土地では谷あいを避けて小高い土地を走った。川は、古くは木橋で、のちには石橋で渡ったが、渡し船を使っていた記録もあり、トンネルが掘られたことを記した碑文もある。

[弓削 達]

駅伝制度

これらの国道は、これを利用する公共便cursus publicusの制度があって初めて有効に機能した。この制度によって、各街道の一定距離ごとに馬車用の馬の交換所mutationesと宿泊施設mansionesが置かれた。公用旅行者は徒歩または馬車で、これら中継所を伝って目的地に向かった。軍隊の移動、国家に必要な物資の輸送も公共便の仕事であった。これら中継所への馬・人員・馬車の提供は沿道住民から徴発された。これは重い負担で、軍隊移動時の近隣民家への分宿とともに、街道沿い住民にはときに耐えられない重圧ともなった。それにしても、この公共便の制度があって初めて国道を安全に旅行できたのであるが、公共便の利用は公用旅行者、すなわち許可証diplomaを受けた人のみに許されたから、国道は実質的にはだれでも便利に使えたというものではなかった。しかも許可証の発給は帝政期には皇帝の手に握られ、皇帝は私用旅行者にはめったに与えなかった。このため、たとえば商人が穀物のような重くてかさ高い物資を陸上輸送するには非常な経費がかかった。小麦は450キロメートル輸送されるとその価格は倍加した。また、同一量の小麦をアレクサンドリアからローマまでの約1875キロメートル舶送する費用と、75キロメートル陸送する費用とが同じであった。こうしたことから考えて、ローマ全帝国に張り巡らされた道路網は、一般住民の利益にはつながらなかったが、巨大な帝国の大動脈として道路網と公共便の整備が果たした役割は大きい。この道路を人が徒歩で行く速度は、法廷での計算や軍隊の行軍演習の標準でみると1日約30キロメートルであり、実際の記録でみると29、36、48キロメートルなどであった。馬を使った早飛脚のもっとも速い例は、4世紀初めマクシミヌス帝殺害を知らせた早飛脚の1日平均225キロメートルであった。この特殊例を除けば1日120ないし150キロメートルの速度は可能であったように思われる。私人の国道利用のもっとも普通のやり方は、飛脚tabellariusに手紙を託すことであった。

[弓削 達]


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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ローマ道」の意味・わかりやすい解説

ローマ道
ローマどう
Roman roads

古代ローマがその発展に伴って建設した道路網。水道とともに古代ローマの技術の最大の遺産とされる。道路の建設は軍隊,物資の移動を容易にし,ローマの発展を助けた。最も古いものの一つはテベレ河口から内地へ塩を運ぶ通路となっていたサラリア街道 (塩の道) である。またのちの幹線道路は建設指揮者の名を取って呼ばれ,おもなものにアッピア街道 (前 312,ローマ-カプア) ,フラミニア街道 (前 220,ローマ-アリミヌム) ,ドミチア街道 (ローマ-ピレネー地方) などがある。共和政期に全イタリアの幹線網は整備され,帝政期には各属州の道路建設が進められた。通常は直線道路で,石,煉瓦で舗装され,セメントもときに用いられた。溝もつけられ,土手もおもな道路にはみられた。

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世界大百科事典(旧版)内のローマ道の言及

【交通】より

…物資ばかりでなく,宗教,思想,芸術などもここを通る人々によって伝えられ,シルクロードは東西文化交流の道となった。 北の草原ルートにしても,中央のオアシス・ルートにしても,シルクロードが自然に踏み分けられた道であったのに比べると,ローマ道はローマ帝国が得意の土木技術と膨大な労働力とを用いて築いた人工の道であった。約9万kmといわれるこの道路網を利用して,ローマ帝国はその勢力を維持することができた。…

※「ローマ道」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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