ロマン派演劇(読み)ロマンはえんげき

改訂新版 世界大百科事典 「ロマン派演劇」の意味・わかりやすい解説

ロマン派演劇 (ロマンはえんげき)

ロマン主義とはおよそ18世紀の末から19世紀の前半にかけて,ドイツ,フランスイギリスなどのヨーロッパ各地で展開した文芸・思想上の革新的思潮であり,その特徴は大まかに言えば,〈文化〉に存在する多くの規制を打破して,さまざまなレベルでの自由で統合的な表現を追究したことにあった。ここで言うところのロマン派演劇あるいはロマン主義演劇とは,このような革新的思潮の一環としての演劇運動を指して言ったものである。

演劇におけるロマン主義の時代区分は,他のジャンルの場合とはやや異なるものの,およそ1770年代から1830年代までと考えてよかろう。なぜなら1770年代にドイツに起こった疾風怒濤(しつぷうどとう)(シュトゥルム・ウント・ドラング)の運動は,他のヨーロッパ諸国のロマン主義に与えた影響から考えると,広義のロマン派と呼びうるからである(ただドイツにおいては,疾風怒濤期以後に古典主義が成立し,またさらにロマン派が生まれ,疾風怒濤の代表作家だったゲーテシラーらが古典主義を確立して,ロマン派と対立するというやや特殊な事情も存在する)。疾風怒濤派は,とくに劇文学において,〈三統一〉の法則を典型とする古典主義の〈法則の強制〉に反発し,啓蒙的な合理主義に対して感情の優位を主張して,シェークスピアを天才的で自由な劇作の典型として崇拝した。ゲーテの小論《シェークスピアの日に》やJ.レンツの《演劇覚書》にもその主張が見られ,ゲーテの《ゲッツ・フォン・ベルリヒンゲン》(1773),シラーの《群盗》(1781)はのちの各国のロマン派に影響を与えた。

 一方,ゲーテ,シラーが古典主義的な完成期に向かうころに生まれたドイツのロマン派は,単純な感情優位の運動ではなく,合理と不合理を総合しようとしたもので,疾風怒濤に間々みられたような理性を排除しようとするものではなかった。そのことは統合者としての作家の立場から生まれる〈ロマン主義的イロニー〉という技法にもあらわれている。この時代には,シュレーゲル兄弟(兄=A.W.シュレーゲル,弟=F.シュレーゲル)がシェークスピアその他の翻訳や《劇芸術,劇文学講義》(1809-11)を著し,それによってロマン派演劇に指導的な役割を果たした。近代芸術としてのロマン的な芸術は,内的分裂から出発しており,したがって統合は無限の追究となるしかなく,結局は〈解体〉をもたらす。古典主義のような鋳型を持たず,絵画的・音楽的なものを含みこむロマン派の文芸は,特に劇文学においてこの解体的な作用を生みだした。ロマン派演劇がその精神的な高みにもかかわらず(あるいはそれと反比例するかのように),種々の制約の加わる実際の舞台においてはあまり成功作を生みださなかった理由もここにあった。国民性の重視また中世への回帰的影響から生まれた年代記的な史劇や宗教劇,詩の聖典(カノン)といわれた童話に材をとる童話劇,夢幻劇,また多少迷信的ともいえる宿命を導入した運命悲劇(Z. ウェルナー《二月二十四日》)など,ロマン派演劇には多くのジャンルが生まれたが,舞台的な成功を収めたのは運命悲劇のみであった。実際,風刺劇,ナンセンス劇などは,もともと上演用より作者の知的な立場を示すために書かれており,L.ティークの有名な劇中劇《長靴をはいた猫》なども,後世になってから舞台上演が注目されたものである。また,A.G.vonプラーテンの《不吉なフォーク》(1826)は運命悲劇のパロディとして知られている。なお,H.vonクライストやC.D.グラッベ,G.ビュヒナーなどの劇作家は,ロマン派とはいえぬもののその作風にはロマン派と共通した面が見られる。

 オーストリアでは,18世紀に民衆演劇のなかに妖精劇というジャンルが確立し,F.ライムントが19世紀にこのジャンルを完成させた。また,E.グリルパルツァーは古典主義とロマン主義をオーストリア的に統合している。妖精劇から出発したJ.ネストロイがこのジャンルを完全に離れたように,ロマン主義の末期には写実主義的傾向が入ってきている。

ヨーロッパのドイツ語圏以外へのドイツ・ロマン派(演劇)の影響は,まずデンマークA.エーレンスレーヤーのようなロマン派劇の作家を生み,イギリスではW.スコットが《ゲッツ・フォン・ベルリヒンゲン》を翻訳し,W.ワーズワースやS.T.コールリジはシラーの《群盗》の影響を受けた。バイロンの《マンフレッド》(1817),P.B.シェリーの《チェンチ一族》(1819)などは,当時はむしろ書斎劇と考えられており,舞台で再評価しようとする試みはずっと後になって行われることとなった。たとえばバイロンの場合,生前に上演されたのは《マリノ・ファリエロ》(1821)一編だけであった。

 イタリアではA.マンゾーニが1820年に《カルマニョーラ伯序文》で〈三統一〉の廃棄を説いた。イタリアのロマン派劇は,概して国民主義的・政治的傾向が強かった。

 マンゾーニの影響で,フランスでスタンダールが《ラシーヌとシェークスピア》を書いたのは1823年だが,V.ユゴーが《クロムウェル序文》でロマン派演劇の綱要を発表した1827年には,ドイツのロマン派はすでに終わろうとするころであった。ユゴーはシェークスピアの理念を借りて,さまざまのジャンルを総合したドラマを提唱した。フランスのロマン派の源泉は,実はドイツの疾風怒濤の成立に影響を与えたJ.J.ルソーにまでさかのぼることもできるが,シュレーゲルの劇理論やドイツ・ロマン派の紹介としてのスタール夫人の《ドイツ論》(1810)が果たした役割は大きいし,シラーの《群盗》も大きな影響を与えている。1830年に,ユゴーの《エルナニ》のフランス座上演によって劇場騒動が起こり,古典派の妨害に対してロマン派が勝利を収めた話は有名であるが,43年にはやはり彼の《城主たち》の失敗がロマン派の終焉を告げることになった。悲劇に美のみならず,崇高と怪奇をとりいれて生の真実を示そうとするのが彼の演劇論の骨子であったが,現実の舞台で上演される劇作としては破綻(はたん)を示したのである。むしろ上演を前提とせずに幻想を遊ばせたA.deミュッセは,《戯れに恋はすまじ》や《ロレンザッチョ》のような作品で,告白的要素の強い深化された心理を表現することに成功し,その作品は晩年になって舞台にかかるようにもなった。

 ロマン派演劇のなかには,さまざまな要素において,近代,現代の演劇を先取りしている点があった。20世紀初めの新ロマン主義やあるいは表現主義にも共通項は見いだせるし,極端な主観主義や感情の無限の解放,あるいは徹底した主知主義など,現代にもその流れを見ることができる。

 演劇の形式として流動的,幻想的な部分を含むロマン派演劇は,理念としては額縁舞台を否定して,さまざまな形での劇空間拡大の可能性を含んでいたが,他方で,舞台機構や照明の発達した時期ということもあって,スペクタクル的な舞台を流行させた。ロマン派演劇の俳優の特色は,強烈な個性と奔放な想像力にある。フランスではF.J.タルマの激情的な演技がその祖型であろう。イギリスのJ.P.ケンブル,E.キーン,ドイツのL.デフリント(ドブリアン),イタリアのペストリなどは,ロマン派時代の俳優の特色をよく示している。
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出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

世界大百科事典(旧版)内のロマン派演劇の言及

【フランス演劇】より

…しかしその後にできた現在のグラン・ブールバールが,中心を西に移しつつも劇場街として隆盛をみるという劇場地図は,20世紀の前半までほとんど変わらなかった。
【19世紀】

[ロマン派演劇と同時代風俗劇]
 タンプル大通りが〈犯罪大通り〉と呼ばれたのは,そこで流行した〈メロドラム〉(メロドラマ)という勧善懲悪お涙頂戴のサスペンス劇で無闇と殺人が行われたからであるが,G.deピクセレクールを代表とするこの大衆演劇は,1830年代から40年代にかけてのロマン派による文学戯曲変革の演劇的下地を作る。ユゴーによるロマン派演劇宣言《クロムウェルの序文》(1827),コメディ・フランセーズにおけるユゴー《エルナニ》初演(1830)の際の騒動(いわゆる〈《エルナニ》の戦い〉)から《城主》の失敗(1840)までの10年間を中心にするロマン派の詩人や作家の劇作は,〈犯罪大通り〉の繁栄とともに19世紀フランス演劇の第一の大きな時期を構成するが,しかしそこにはすでに,文学史と演劇史との〈ずれゆき〉をかいま見せている。…

※「ロマン派演劇」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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