レコード(音を記録した物体)(読み)れこーど(英語表記)record disc (record) 英語

日本大百科全書(ニッポニカ) の解説

レコード(音を記録した物体)
れこーど
record disc (record) 英語
disque フランス語
Schallplatte ドイツ語
disco (fonografico) イタリア語

音を記録した物体で、吹き込まれた内容は蓄音機またはプレーヤーを用いて再生する。音響科学の進歩とともに形体は変化し、当初の円筒式は円盤にかわった。そしてSPレコードLPレコードを経て、CD(コンパクトディスク)の時代を迎えている。

[倉田喜弘]

円筒式レコード

フランス人シャルル・クロスCharles Cros(1842―1888)は1877年4月30日、録音と再生の方法を論文にしてフランス科学協会へ提出した。一方、アメリカのエジソンは同年8月、円筒(シリンダー)に錫箔(すずはく)を巻いたフォノグラフPhonographを製作した。これがレコードの最初だといわれている。日本では翌1878年(明治11)11月、在日イギリス人ジェームズ・A・ユーイングが組み立てて東京大学で実験、さらに1879年3月28日、東京商法会議所で公開した。このときフォノグラフは、蘇言(そげん)機、蘇音機などと訳された。1885年アメリカのA・G・ベルは錫箔のかわりに蝋(ろう)を塗ったグラフォフォンGraphophoneを開発した。これには1889年1月20日の鹿鳴館(ろくめいかん)における日本初公開の際、蓄音機、撮音機といった名称が付されている。

 国産第1号は1891年3月、愛知県岡崎に住む中條勇次郎(ちゅうじょうゆうじろう)(1858―1899)が製作。その1年後には、東京の尾花千市(おばなせんいち)も開発に成功している。俗に「蝋管レコード」とよばれるこの機種には、日本人の演説、声色、はやり歌などが吹き込まれ、「一人でものをいう機械」と驚嘆された。同時に蝋管は、音響科学の知識を日本人に与え、また東京の文化を地方へ広めるうえで大きな役割を演じた。各地の祭礼や縁日に蓄音機屋が現れるのは1890年代の末であるが、その周囲には庶民が群がり、ゴム管を耳に当てて、機械の発する音を楽しんだ。

[倉田喜弘]

SPレコード

後述のLP(long playing)が出現して以来、standard playingまたはshort playingと区別してよばれるようになったもので、1分間に約78回転する。1888年エミール・ベルリナーEmile Berliner(1851―1929)は円形のシェラックセラック)盤に吹き込んだ音を公開した。これをグラモフォンGramophone(アメリカ・ビクターの母体)という。日本での初公開は1903年(明治36)5月22日、東京銀座の天賞堂が行った。また天賞堂は、270種に及ぶ日本の芸能をアメリカ人技師に録音させ(1903年春)、アメリカでプレスしたのち、11月8日から「平円盤(へいえんばん)」と名づけて発売した。しかし平円盤の名称は、1908年4月から「レコード」と併用され、同年8月以降は完全に消え去ってしまう。天賞堂がレコードと命名した背景は知る由もないが、当時のイギリス、フランスではディスクといい、アメリカではフォノレコードphonorecordとよばれていたから、日本名のレコードは多分にアメリカ英語の影響といえよう。日本国内のメーカーとしては、日米蓄音器株式会社(のち日本蓄音器商会吸収合併)が1909年5月に「音譜」を発売したのが最初である。したがってレコードは天賞堂の商品名であり、音譜は日本蓄音器商会の商品名といえるが、1913年(大正2)以降は漸次レコードが社会の共通語として通用し始めた。

 初期のレコードは片面盤であるが、天賞堂がアメリカ・コロムビアから両面盤を輸入した1910年(明治43)以降、レコードはすべて両面盤に切り替わる。そして1910年代には、桃中軒雲右衛門(くもえもん)、吉田奈良丸、天中軒雲月らの浪花節(なにわぶし)が大きな話題となった。日本国内のメーカーも数社を数えるが、京都の東洋蓄音器が発売した松井須磨子(すまこ)の『カチューシャの唄(うた)』や、尾崎行雄(ゆきお)の演説、それに日本蓄音器商会の大隈重信(おおくましげのぶ)の演説などによって、レコードはメディアとしての偉力を発揮した。また東京蓄音器のように、児童文化の向上を目ざして「お伽(とぎ)歌劇」の製作に努めるメーカーも現れた。

 1920年(大正9)にレコード著作権が確立したころは、第一次世界大戦後の好況とも相まって、日本のレコード産業は超繁忙にみまわれ、はやり歌の『枯れすすき』『籠(かご)の鳥』、あるいは2世市川左団次の『鳥辺山(とりべやま)』などは、何十万枚という売れ行きをみせた。同時に、洋楽レコードの愛好者も増えてくる。片面3分(10インチ盤)ないし4分半(12インチ盤)のレコードは、1925年の暮れ、ウォルドの長時間レコードによって20分に延びた。大阪の日東蓄音器も長時間盤を完成する。同じ年の4月、アメリカ・ビクターは電気吹込みの製品を発売した。それまでのレコード(旧吹込みという)とは違って周波数帯域は広がり、音質は格段に向上した。ドイツ原盤の電気吹込みの日本プレスはポリドールが最初で、1927年(昭和2)4月の発売。また日本人歌手の電気吹込み第1号は藤原義江(よしえ)(『出船の港』『出船』)で、1928年2月に日本ビクターが発売した。ここにヒット曲やスター誕生の道が開け、レコード産業は確固たる地歩を築き上げることになる。流行歌や浪花節はもとより、映画説明、演説、語学など、あらゆる音素材がレコードになった。戦争の推移につれて軍歌や国民歌謡ももてはやされ、『愛国行進曲』のように100万枚以上を記録するヒットも生まれたのである。1分間におよそ78回転するレコードは、日本人の胸中にさまざまな感慨を刻みつけたが、次なる新技術の前に屈して、1963年(昭和38)にはその使命をすっかり終えた。

 なお、レコード針は音溝(おとみぞ)をトレースし、そこに刻まれた信号を電気的振動に変える役目をするもので、SP時代には鋼鉄針や竹針が用いられた。しかし、レコードの片面ごとに取り替える不便さが付きまとい、これは1950年代に10回の使用に耐える鋼鉄針の出現によって多少解決される。これを大幅に改善したのがサファイアを取り付けたピックアップの出現で、20時間以上使用できるようになった。そして、ステレオ再生装置時代にはダイヤモンドの小片を用いた永久針となるが、磨滅や破損にはたえず注意しなければならなかった。

[倉田喜弘]

LPレコード

1948年6月、アメリカ・コロムビアは、ビニル盤に30分近い内容を盛った長時間レコード(1分間に33と3分の1回転)を発売した。外貨事情の極度に悪かった時代だけに、日本コロムビアがこのLPを輸入したのは1951年4月であり、また国産品は1953年8月から発売される。1分間45回転のシングルレコード(ドーナツ盤)やVG(variable grade)盤も登場し、ここに新たな音響の世界が開けることになる。すなわち、録音技術の可能性が次から次へとみいだされ、音の高忠実度ハイファイが追求されることになる。テープとテープレコーダーの出現も、レコード吹込みに大変革をもたらした(洋楽の録音テープは1956年に初輸入、国産品は1966年から発売)。周波数特性も一段と向上したLPは、必然的にステレオの道をたどる。そして1958年8月、日本ビクターがステレオ・レコードの発売を開始したころは、日本の音響技術は世界のトップ水準にまで達し、1970年には4チャンネル・レコードへ、さらに1975年にはPCM(パルス符号変調)録音方式へと歩を進めた。

 このLP時代には、日本のレコード産業も音楽への傾斜を強めてミリオン・セラーを続出させ、1976年の『およげ!たいやきくん』のように、その年だけで443万枚の売上げを記録するレコードも現れた。国民生活にとってレコードは不可欠の存在となっていた証拠になろう。また日本のメーカー三十数社は200社以上の外国メーカーと契約し、輸入盤によって世界の音楽状況を伝達した。おもな自由主義諸国においてLPの生産が史上最高を記録したのは1978年である。その後は漸減傾向をたどり、1986年には最盛時の5~6割程度となった。すなわち、アメリカの出荷枚数1億2520万を筆頭に、以下、売上数量では西ドイツ6150万枚、イギリス5230万枚、フランス2680万枚となった。日本の場合は、17センチメートルのシングル盤を除く25~30センチメートル盤のLP生産枚数をみると、1978年の9314万枚が1985年には6238万枚、1986年には4548万枚、そして1987年には2775万枚へと著しく落ち込みを示した。1980年以降に広がった「貸しレコード」も大きな原因だが、「夢のオーディオ」といわれたCDの登場がLPの凋落(ちょうらく)に拍車をかけたのである。

 1993年(平成5)には25~30センチメートル盤のLPの生産枚数が77万枚にまで減少、2011年(平成23)では17センチメートルのシングル盤も含めて、わずか21万枚にすぎない。

[倉田喜弘]

CD

コンパクトディスクcompact discの略で、オランダのフィリップス社と日本のソニーが開発したDAD(digital audio disc)の一種。従来のレコードが溝から音を取り出すアナログ方式であったのに対し、音の波形を「0」「1」のデジタル信号に変換して直径12センチメートルの金属盤に記録し、レーザー光線によって音を再生する仕組みである。1982年(昭和57)10月、世界に先駆けて、日本のメーカーはCDプレーヤーと同時に発売した。収録時間が60~75分という長時間であるため、当初は中高年のクラシック愛好者やサウンド・マニアが主たる購買者となり、いきおいCDはクラシック向きの商品とみなされもした。しかし16~25万円と高価格であったプレーヤーの低価格化が進み、1985年には4万円台の商品も現れて普及率は10%に達した。この価格の低下と並行してCDも爆発的な売れ行きを示し、1986年には生産額でLPを200億円以上も上回り、また生産枚数もCD4512万枚、LP4548万枚となり、CDは音楽ソフトの王座についた。そして、1987年にCDの生産枚数はLPの2倍以上に当たる約6500万枚を記録する。さらに1988年2月には、従来より一回り小さい8センチメートル幅のCDが現れ、生産枚数は飛躍的に伸びていく。しかし、1990年代以降の生産枚数を記すと、12センチメートルCDは1996年(平成8)が2億8300万枚、2000年(平成12)の3億8100万枚がピークで、以後漸減して2006年は2億8900万枚、2010年には2億0600万枚となっている。8センチメートルCDは1996年が1億6600万枚、2000年が3300万枚であったが、2006年には170万枚、2010年には11万枚に減少している(日本レコード協会調べ)。CDの売上げ減少には、CDレンタルや中古CDの利用、インターネットやモバイルにおける音楽配信の増加も影響しているとみられている。

 CDの特色は、音質の飛躍的な向上、小型で場所をとらない、若者のハイテク感を満足させる、傷まないために半永久的な寿命を保つ、などがあげられる。なおCDには音楽ソフトばかりでなく、CDグラフィックやCD-ROMなど多彩な展開がなされている。

[倉田喜弘]

ディスクレコードの製造工程

ディスクレコードの規格については、日本工業規格(JIS(ジス))の「ディスクレコード」(JIS S 8601。1981年4月1日制定)で定められ、分類等についてもこのなかで規定されていたが、1994年(平成6)にこの規格は廃止されている。しかし、この分類はその後も使われているので、ここでは、分類のうち主要なLPレコードの一般的な製造工程について説明する。

 まず、スタジオで音を磁気テープに収録し、これを編集してレコード用のマスターテープをつくる。次に、このマスターテープの音をもとにして、円盤(ラッカー盤)上に機械的に振動波形を刻む。この操作をカッティングとよび、カッティングされた円盤をラッカーオリジナル(またはラッカーマスター)とよぶ。ラッカーオリジナルから直接レコードをつくることはできないので、この表面に導電処理を行ったうえで、電気めっきにより厚さ0.3ミリメートル程度のニッケル層をつくる。ニッケル層をラッカーオリジナルからはがしたものが、マスターネガティブである。マスターネガティブの表面の凹凸はラッカーオリジナルのそれとは逆になっており、写真に例えればネガに相当する。少数のレコードをつくる場合は、マスターネガティブを使って直接レコードをプレスすることもある。しかし、一般にはマスターネガティブから先と同様の工程でポジティブマザー(ポジ)をつくり、さらにこれからスタンパー(ネガ)をおこし、このスタンパーを使ってレコードの材料をプレスする。レコードの材料には塩化ビニルと酢酸ビニルの共重合体が使われる。

[吉川昭吉郎]

『クルト・リース著、佐藤牧夫訳『レコードの文化史』(1977・音楽之友社)』『R・ジュラット著、石坂範一郎訳『レコードの歴史――エディソンからビートルズまで』(1981・音楽之友社)』『岡俊雄著『レコードの世界史――SPからCDまで』(1986・音楽之友社)』『倉田喜弘著『日本レコード文化史』(1992・東京書籍)』


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