ルームセルジューク朝(読み)ルームセルジュークちょう(英語表記)Rūm Saljūq

改訂新版 世界大百科事典 「ルームセルジューク朝」の意味・わかりやすい解説

ルーム・セルジューク朝 (ルームセルジュークちょう)
Rūm Saljūq

アナトリア(ルーム)に存在したトルコ系王朝。1077-1308年。王朝の始祖となったスライマン・ブン・クタルムシュSulaymān b.Qutalmïsh(?-1086)の父クタルムシュは,イランのセルジューク朝の創設者トゥグリル・ベクのいとこにあたる。スライマンは1071年マラーズギルドの戦の後,アナトリアへ入り,ニカエアを占領してルームの地にセルジューク朝国家を創建した。スライマンの子クルチ・アルスラン1世Qïlïch Arslān Ⅰの時代(在位1092-1107)には第1回十字軍による攻撃でニカエアを失い,以後国家の首都はアナトリア中央部にあるコニヤに置かれた。12世紀後半スルタン位にあったクルチ・アルスラン2世(在位1155-92)のもとで勢力は大いに伸張し,アナトリアのムスリム・トルコ人の指導的地位を確立した。さらに13世紀前半,王朝内部の紛糾を収拾したスライマン・シャーに続くカイホスロウ,カイカーウス,カイクバード3代のスルタン時代は王朝の最盛期となった。しかしカイクバードを継いだカイホスロウ2世Kaykhusrau Ⅱの治世(在位1237-45)にはモンゴル軍の侵攻を受け,1243年キョセ・ダグの戦に敗れ,以後モンゴル帝国に従属する立場に置かれ,国力を回復しえないまま14世紀初頭には史上から姿を消した。この王朝の時,アナトリアのトルコ化とイスラム化が進行し,その首都コニヤにはモスクマドラサが数多く建設された。
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出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

世界大百科事典(旧版)内のルームセルジューク朝の言及

【イスラム美術】より

…一方,寒冷で降雨量の多いアナトリアでは,アラブ型やイラン型のモスクの中庭が,縮小されるか,ドームを架けたホールに変形している。ルーム・セルジューク朝(1077‐1308)時代の建築の特色は,モスクやマドラサの銘文や複雑な装飾文様を施したモニュメンタルな正面入口(ピーシュタークpīshṭāq)の設置である(ディウリイDivriğiのウル・ジャーミUlu Camiと付設の施療所,1229。コニヤのインジェ・ミナレ・メドレセInce Minare Medrese,1265ころ)。…

【十字軍】より

…このため中世の史料は十字軍を〈エルサレムもうで〉〈聖墳墓参り〉などと記録している。十字軍の発端となったのは,こうしたキリスト教徒の聖地や,聖地への巡礼が,1071年にエルサレムを占領したセルジューク朝やビザンティン帝国領であったアナトリアに侵入したルーム・セルジューク朝などトルコ系諸族によって圧迫・迫害されているという西方キリスト教国の認識であった。そして,ビザンティン帝国の対イスラム防衛戦争にノルマン人出身のシチリア遠征隊をはじめ西欧騎士の傭兵隊が導入されるようになると,ローマ教皇庁のビザンティン帝国救援政策が聖地解放のための企てとして具体化された。…

【トルコ族】より

… セルジューク朝による西アジア征覇は,中央アジアの遊牧トルクメンの西アジアへの移住を促進し,彼らの多くはビザンティン帝国領のアナトリアへ侵攻した。1071年に東部アナトリアのマラーズギルドで,セルジューク朝軍とビザンティン軍との戦いが行われ(マラーズギルドの戦),その結果,前者が勝利するとトルクメンは大挙アナトリアへ移住し,ルーム・セルジューク朝(1077‐1308)が成立した。同王朝は,最初その首都を北西アナトリアのニカエア(イズニク)に置いたが,第1回十字軍の攻撃によってここを退くと,中央アナトリアのイコニウム(コニヤ)に首都を移した。…

※「ルームセルジューク朝」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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