リラ(イタリアの通貨単位)(読み)りら(英語表記)lira

翻訳|lira

日本大百科全書(ニッポニカ) の解説

リラ(イタリアの通貨単位)
りら
lira

イタリアの旧通貨単位。2002年にEU(ヨーロッパ連合)の共通通貨、ユーロの流通が始まったことにより廃止された。リラはポンドと等量を示すリブラlibraからきたもので、カロリング王朝の貨幣制度に由来する名称である。1862年イタリアの通貨単位として採用され、1リラ=純銀4.5グラムと等価と定められた。補助単位はチェンテシミcentesimiで、1リラ=100チェンテシミであった。

[原 信]

リラとブレトン・ウッズ体制

第二次世界大戦前のリラは1米ドルに対し19リラであった。第二次世界大戦後、イタリアの経済は苦難の道をたどり、為替(かわせ)管理や複数為替制度がしばしば導入された。イタリアのインフレ率は他の工業国よりはるかに高く、慢性的な政情不安はともすれば資本流出を招いた。1947年3月国際通貨基金(IMF)に加盟、1948年、平価は1米ドル=625リラと定められた。その後同国は比較的高い成長率と、かなり緩やかになったインフレ率、経常黒字の継続、そして外貨準備の増加と、経済運営は良好で、ブレトン・ウッズ体制の崩壊直前まで前記平価を維持した。

 ブレトン・ウッズ体制の危機は、1970年以降アメリカからの急激な資本流出によって促進された。1971年8月ニクソン声明によって、米ドルの金交換は停止され、同年末スミソニアン協定が成立、金に交換性のない米ドルとの固定相場を中心とする新制度が発足した。

[原 信]

スネークとEMS

一方、イタリアを含むEC(ヨーロッパ共同体、現在のEUの母体)諸国は、以前から相互の債権債務を共通の基金に集中し、定価格の米ドルで基金と受払いをするという仕組み(1950年のEPUヨーロッパ決済同盟と、それを受け継いだ1958年のEMAヨーロッパ通貨協定)があり、したがって加盟国通貨間の相場は安定していた。スミソニアン協定の成立後も、EC諸国通貨対米ドル相場の変動幅を、協定で定めた上下各2.25%でなく上下あわせて2.25%とし、EC通貨相互間の変動幅を小さくする仕組みをつくった。この仕組みは1972年4月から約5年続いた。この方式を「スネーク」という。対米ドル相場の上下限のなかをその半分の幅でEC通貨間の変動幅が動くのを蛇の動きに例えたものである。だがこの間イタリアは景気の低迷と賃金の上昇や輸入原材料価格の上昇でインフレ率が高まり、経常収支は赤字に転換、リラ相場も下落し、安定した経済運営が困難となった。そしてイタリアからの資本逃避が盛んになり、リラの現金の海外持ち出しまで行われ、リラ相場は強い売り圧力を受け、当局は外貨準備を使って平価を防衛した。かくして1973年1月イタリアは二重相場制度を採用(通常の経常取引には公定相場を適用、それ以外の取引は市場の自由相場)した。またその直後海外から逃避資金が集中したスイスは米ドルとの相場維持を放棄、変動制に移行した。かくしてブレトン・ウッズ体制およびそれを受け継いだスミソニアン体制は1973年2月ヨーロッパ市場閉鎖および円の変動制移行で終幕となった。

[原 信]

共同フロート

EC諸国は1973年3月スネークの方式をそのまま残し共同フロート(変動制)として発足したが、イタリアはその前にすでにスネークを離脱し、共同フロートには参加しなかった。スネークはイギリスやフランスの脱退でEC全体の仕組みではなくなった。しかしヨーロッパ通貨統合への意欲は強く、1979年4月ヨーロッパ通貨制度(EMS)が発足し、ヨーロッパ通貨単位ECU(エキュ)という複合通貨を創設。為替相場機構(ERM)により、ECUに対しEC諸国通貨が中心相場を決め、その上下2.25%の幅で安定を図るとともに、ある通貨がインフレーションなどにより他のすべて通貨に対して下落しているとき、一定の計算方式によりその国が早期に対策をとるという仕組みもつくられた。

 イタリアもEMSに参加したが、同国のみその変動幅を上下6%とし、将来の変動に備えた。当初は1米ドル800リラ台で安定していたが、1980年以降、第二次のオイル・ショック(石油危機)がインフレ率を高め、貿易収支が大きく赤字となり、リラ相場下落が続いた。このあとリラはもっとも不安定な通貨の一つとしてたびたび中心相場の切下げを余儀なくされた。1981年3月の6%をはじめとして、1993年までに7回の切下げを行い当初の相場から20%の切下げとなった。もっともこれはリラだけでなく、フランス・フランも含めて、実質的に中心であったドイツ・マルクに対する調整であった。しかしリラに対する不安感はもっとも強く、1985年2月には史上最低の対米ドル2160リラとなった。同年7月には一時イタリア市場は閉鎖され、リラは6%の切下げ、その他の通貨は2%切上げを行い、そのかわりリラの変動幅を2.25%に縮小し、またイタリアの財政緊縮が要請された。その後通貨統合のプランによって、イタリアもインフレ率や金利について他の諸国と収斂(しゅうれん)する方向に向かっていったが1992年秋の通貨危機でリラは変動幅下限での介入義務が免除され、実質的にERMから離脱した。1993年秋もまたERMの危機が発生、変動幅が上下15%に拡大され、もはやEMSという地域的為替相場安定機構は実質的に崩壊したとみられた。

[原 信]

ユーロ圏に参加

しかしEC諸国の経済諸指標(インフレ率、長期金利、財政赤字比率、政府債務残高、為替相場安定率)は一部を除いて収斂の目標を達成、イタリアは1996年にERMに復帰、政府債務残高が飛び抜けて大きかったが(基準が60%に対して122%)満足すべき速度で改善に向かっているということで、マーストリヒト条約(1993年11月発効)による通貨統合の最終段階に従い、1999年1月からユーロ圏の一員となった。リラは2002年に完全に消滅し、かの巨大な紙幣も姿を消した。

 すでに述べたように、リラは不安定な通貨で、それはイタリア国民も認めている。ユーロが強い通貨になると、輸出に不利で事実2001年以来イタリアの経常収支は赤字を続け、内需も振るわず、成長率も他の大国よりも低い。国民のなかにはリラに戻れという声も多く聞かれる。この点ドイツとは対照的だが、強い共通通貨をもつことのメリットも十分認識されており、とくに金利が安くなって、金融が活発になったことは注目される。リラのリスクがなくなったからである。ユーロ圏内の大国(国内総生産=GDPで約17%)として、生産性向上を含む国際競争力の強化、そしてユーロ圏の仕組みのなかで成長と安定のバランスを図ることが大きな課題である。成長と安定のバランスをどうとってゆくかが、イタリアのみならず、ユーロ圏全体の今後の課題である。なお、トルコの通貨もリラとよばれるが、本稿ではイタリア・リラの記述に限定した。

[原 信]

『岩田健治編著、H・E・シャーラー他著『ユーロとEUの金融システム』(2003・日本経済評論社)』『嘉治佐保子著『国際通貨体制の経済学――ユーロ・アジア・日本』(2004・日本経済新聞社)』『ハンス・ティートマイヤー著、国際通貨研究所・村瀬哲司監訳『ユーロへの挑戦』(2007・京都大学学術出版会)』『横山三四郎著『ユーロの野望』(文春新書)』

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