リビア(読み)りびあ(英語表記)The Great Socialist People's Libyan Arab Jamahiriya 英語

精選版 日本国語大辞典 「リビア」の意味・読み・例文・類語

リビア

(Libya) アフリカ北部、地中海に面する国。正式名称は大リビア・アラブ社会主義人民ジャマーヒリーヤ国。または、社会主義人民リビア‐アラブ国。国土の大部分がリビア砂漠。一九五一年イタリアからリビア連合王国として独立。五九年油田が発見され、石油産出国となった。六九年にリビア‐アラブ共和国、七七年に現国名に改称。首都トリポリ。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「リビア」の意味・わかりやすい解説

リビア
りびあ
The Great Socialist People's Libyan Arab Jamahiriya 英語
al-Jama -hirīya al-‘Arabiya al-Lībiya al-Sha‘biya al-Ishtirakiya アラビア語

北アフリカ、地中海岸のほぼ中央にある国。正称は大リビア・アラブ社会主義人民ジャマーヒリーヤ国al-Jama -hirīya al-‘Arabiya al-Lībiya al-Sha‘biya al-Ishtirakiya。東はエジプト、スーダンと、西はチュニジアアルジェリアと、南はニジェール、チャドと国境を接する。南部では国境線が未確定な所があり、チャドと紛争を繰り返している。国土面積は175万9540平方キロメートルでアフリカ4番目の大国だが、大部分は砂漠地帯で人口は548万4000(2006推計)、642万(2009推計)と少なく、人口密度は1平方キロメートル当り3.6人。かつては海岸地帯やオアシスでの灌漑(かんがい)農業と遊牧に依存する貧しい国であったが、1955年以降の石油開発により富裕国に一変した。1969年のリビア革命以降、カダフィ政権は膨大な石油収入をもとに工業・農業開発を進め、内政、外交では人民直接民主主義と汎(はん)アラブ民族主義に基づいた独特な政策を展開している。首都はトリポリ(人口120万。2009推計)。

[藤井宏志]

自然

リビアは、東隣のエジプトと同じく、全体が広大な乾燥した高原と低地からなる。全般に南部国境地域の標高1000メートル前後の高原から、地中海沿岸へとしだいに低くなり、国土の70%が500メートル以下の高原や低地である。高原にはファレグ・ワジのような深いワジ(涸(か)れ谷)が刻まれているが、これはサハラの乾燥化以前の湿潤期の大河の跡である。沿岸は西のトリポリタニアからシルテ湾にかけては海岸平野がみられるが、ベンガジより東では、アフダル山脈が海に臨み、断崖(だんがい)が続いている。大部分を占める内陸の砂漠では、低所の砂丘群のほか、礫(れき)砂漠、岩石砂漠も広くみられる。

 気候は年間を通じてサハラの高気圧に覆われるため、晴天が多く、大部分の地域が年降水量100ミリメートル未満の砂漠気候である。200ミリメートル以上の降雨をみるのは、トリポリタニア、キレナイカの突出した沿岸地域のみで、冬季に地中海低気圧の影響で雨が降り、地中海性、ステップ気候を示す。気温は、沿岸のトリポリ、ベンガジでも8月の平均気温が28℃と暑く、日中の最高気温は40℃を超える。しかし1月の平均気温は12℃とかなり涼しくなり、背後の高原では降雪をみる。内陸では日較差、年較差ともさらに大きく、夜間は低温となり、冬は零下気温になることも多い。なお晩春から初秋にかけ、ジブリとよばれる砂まじりの熱風が吹き、農作物が被害を受けることがある。

[藤井宏志]

地誌

リビアは北西部のトリポリタニア、南西部のフェザン、東部のキレナイカの3地方に大別される。この3地方は1951年連合王国として独立直後、連邦を構成した3州である。トリポリタニアは海岸平野と背後の高原とからなる。沿岸部は冬に降雨に恵まれ、古代から「ローマの穀倉」とよばれる農産物の供給地であった。近代のイタリア植民地時代には数万人の移民が送り込まれ、小麦、果樹などを栽培する農園を経営した。現在でもこの国第一の農業地帯である。また首都で最大都市のトリポリ、鉄鋼工業の盛んなミスラータがあり、面積は国土の20%だが人口の40%が集中する。レプティス・マグナの古代遺跡、サブラータの古代遺跡、ガダメス(ガダーミス)の旧市街がユネスコ(国連教育科学文化機関)の世界遺産に登録されている。フェザンはサハラ砂漠の一部をなす。アラブ人のほかベルベル系のトゥアレグ人も居住し、オアシス農業と遊牧が生業である。中心地のセブハは、古くから地中海とスーダン地帯を結ぶ重要な中継点であった。タドラット・アカクスのロック・アート遺跡群がユネスコの世界遺産に登録されている。キレナイカは、冬雨に恵まれる地中海沿岸のアフダル山脈と南のリビア砂漠、サハラ砂漠よりなる。従来、生業は沿岸部では地中海式農業、内陸部ではオアシス農業と遊牧が行われるだけであった。しかし第二次世界大戦後リビア砂漠で石油が開発され、ハワジ県は同国の石油生産の中心地になっている。沿岸にはマルサ・ハリガ、マルサ・ブレガなどの原油積出し港のほか製油所もある。なお中心都市のベンガジは独立直後の3州連合王国時代、トリポリとともに首都の一つであった。クーリナの古代遺跡がユネスコの世界遺産に登録されている。

[藤井宏志]

 なお、リビアにある5件の世界遺産(すべて文化遺産)は、内戦に伴う政情不安などにより、2016年にすべてが危機遺産リスト入りした。

[編集部 2018年5月21日]

歴史

リビアの歴史は、他の北アフリカ諸国と同じく、地中海北部および東部諸国による支配への対応の歴史であった。この地域は古くからベルベル人が住んでいたが、古代にフェニキア、ギリシア、ローマが次々に侵入し、沿岸にトリポリ、ベンガジなどの植民都市を建設した。当時の都市の壮大さはレプティス・マグナなどの遺跡にしのぶことができる。その後、バンダル人、ビザンティン帝国の支配を経て、7世紀なかばにはアラブ人の軍事遠征が始まり、11世紀後半以降アラブ諸部族が大挙して侵入した。これら諸部族は内陸のベルベル人をも制圧し、アラブ化、イスラム(イスラーム)化を急速に進めた。

 中世は部族単位の群雄割拠の時代であったが、16世紀なかばからオスマン帝国による支配が始まった。1515年キレナイカを領有したオスマン帝国は、1551年スペイン領であったトリポリを攻略してトリポリタニアも掌中に収め、帰順したフェザンをも支配下に置いた。当時帝国が任命したパシャ(王)の支配範囲が今日のリビアの版図の原形となっている。1711年にはパシャにかわって土着化したオスマン帝国(トルコ)軍人の代表が実権を握り、トリポリにカラマンリー朝を建てた。しかし19世紀になるとヨーロッパ諸国の北アフリカ進出が始まり、フランスとイギリスの干渉でカラマンリー朝の王は退位に追い込まれた。1835年オスマン帝国による支配は回復されたものの外圧は続き、国内ではサヌーシー教団が勢力を拡大した。こうしたなかで1911年イタリアは3万の兵力と近代兵器を投入して沿岸部を占領した。翌年停戦協定でトルコ軍が撤退し、イタリアがトリポリタニアとキレナイカの主権を得た。しかしフェザンではサヌーシー教団やベルベル人を主体とする抵抗が激しく、平定が宣言されたのは21年後の1932年であった。

 第二次世界大戦中リビアは戦場となり、トリポリタニア、キレナイカはイギリス軍に占領され、フェザンはフランスの軍政下に置かれた。戦後の1949年、国連総会はリビアの独立を決議し、これに基づき1951年憲法が採択され、同年12月24日独立を宣言した。独立時のリビアの政体は連邦制でありリビア連合王国と称し、国王にはキレナイカの首長でありサヌーシー教団の指導者イドリース1世が就任した。1964年に憲法を改正して連邦制を廃止し、単一国家となりリビア王国と改称した。しかし議会制度がうまく機能せず、権力が王と少数者に握られ、また石油開発による経済発展、社会変動に政治が対応できず、国民に不満が高まった。その結果1969年9月1日、カダフィ大佐を中心とする青年将校が国王を追放し政権を握った(リビア革命)。カダフィは国名をリビア・アラブ共和国とし、最高機関の革命評議会の議長に就任し、首相も兼任した。革命後のリビアはアラブ民族主義、反植民地主義の政策を推し進め、1973年イスラム本源主義の立場からの独特の「文化革命」政策を打ち出した。さらに1977年人民直接民主主義への移行を宣言し、革命評議会や内閣は解散し、国名も大リビア・アラブ社会主義人民ジャマーヒリーヤ国に変更した。

[藤井宏志]

政治

政体は特異な直接民主制による社会主義国で、全国各地域の政治単位に全成人人民が参加する基本人民会議(立法機関)があり、これが基本人民委員会(行政機関)を選出する。各職場でも人民会議、人民委員会を組織する。各地域、各職場の人民委員会書記局メンバーが集まり国の最高意思決定機関である全人民会議(GPC)を構成し、これが全人民委員会と総書記局を選出する。最高執行機関は総書記局(7名)で、内閣に相当するのは全人民委員会(12名)である。政党はない。司法は、初審裁判所が各所にあり、控訴裁判所、高等裁判所はトリポリ、ベンガジにある。家族法に関することは宗教裁判所が取り扱う。民法、刑法は厳密にコーランに基づいてつくられており、死刑制度がある。

[藤井宏志]

外交

外交では反シオニズム、反帝国主義の立場から、対イスラエル強硬路線をとり、シリア、イラン、アルジェリア、ロシアなどとは友好関係にある。逆に、従来石油開発を中心に密接な関係にあったアメリカとは、アメリカのイスラエルへの援助を理由に関係が悪化していた。1981年にはアメリカ軍機のリビア軍機撃墜事件が起こり、1986年3月にはシルテ湾でのアメリカ第六艦隊の演習強行による交戦、同年4月にはアメリカ海・空軍によるベンガジ、トリポリ爆撃事件、リビアによる西ベルリンでのディスコ爆破事件が起き、1988年にはスコットランド上空でのパンナム機爆破事件などが起きた。パンナム機爆破事件および1989年のニジェール上空でのUTAフランス機爆破の二つの事件にリビアの関与が疑われ、1990年国連でリビアに対する非難決議が採択された。一方、国内では1993年に起きた軍内部での反乱事件をきっかけに、反政府勢力の活動が活発化した。

 西欧諸国はリビアが世界各地の反体制グループのテロなどに関与していると非難。リビアは「テロ支援国家」として国際社会から孤立し、長期にわたる経済制裁を受けた。2003年8月、パンナム機爆破事件で、リビア側が非を認めてアメリカ人被害者遺族に賠償金を支払ったことから国連は制裁を凍結した。2003年12月にリビアは大量破壊兵器開発計画の完全廃棄を表明。2004年3月にはイギリスの首相ブレアがリビアを訪問しカダフィ大佐と会談、リビアとイギリスおよび国際社会との「歴史的和解」が実現した。また、イタリアの首相ベルルスコーニは2008年8月、リビアでカダフィ大佐と会談し、植民地時代の抑圧をわび、賠償として50億ドルを支出することを約した。カダフィ大佐はイギリス、フランスと軍事、産業、資源開発での協力を表明した。

 アメリカは2004年にイラン・リビア制裁法によるリビアへの制裁を解除、2006年にリビアに対するテロ支援国家指定を解除した。西ベルリンでのディスコ爆発事件、パンナム機爆破事件でのアメリカ側被害者およびアメリカ軍の報復空爆によるリビア側被害者への双方の補償が完了した2008年9月、国務長官ライスがリビアを訪問してカダフィ大佐と会談し両国の対立関係は終わった。同年10月、アメリカは経済関係強化に向けリビアに貿易事務所を開設した。

 アフリカ諸国との関係では、南の隣国チャドの内戦に1982~1987年国境問題を理由に介入し、アフリカ統一機構(OAU)加盟国から非難された。一方、汎(はん)アラブ民族主義とリビアが小国という条件から、これまでエジプト、シリア、チュニジア、モロッコなどとの合邦を試み、北アフリカ5か国によるマグレブ共栄圏の構想も発表している。2008年にはマリ政府とトゥアレグ反政府勢力との停戦協定の仲介を行った。

 なお、軍隊は陸軍5万人、海軍8000人、空軍2万人で、総兵力7万8000人である。兵制は選抜徴兵制である。

[藤井宏志]

経済・産業

国土のほとんどが乾燥地域であるリビアは、独立当時はアフリカでももっとも貧しい国の一つであった。しかし、1955年以降石油開発が進んで世界有数の石油輸出国となり、石油収入の増大により経済は一変した。1人当り国内総生産(GDP)は1万0074ドル(2007)とアフリカ大陸第一で、石油収入をもとに都市、工業、農業などの開発が進められている。1980年代は世界的な石油需要の減退と価格低落によって石油収入が減少し、開発事業の進捗(しんちょく)が遅れ、国民生活も影響を受けていたが、1990年代以降の石油価格高騰によりふたたび欧米諸国の投資は活発化している。

 石油は、1955年アメリカ系、イギリス系の石油資本が利権を取得して探査、開発を進め、1959年、ゼルテン油田をはじめとして、アマーラ、ベダ、ダフラの各油田の開発が成功した。その後、1960~1966年にもサリル油田をはじめ12油田が次々に開発された。革命後は国営石油会社が設立され、外国石油会社の資産、権益の国有化が進められ、1974年3月までにほとんどの会社について51%あるいは100%の率で国有化を達成した。このとき51%の国有化にとどまっていたのはいずれもアメリカ系石油会社であったが、対米関係の悪化から1986年4月までに全社がリビアから撤退した。石油は大部分が原油のまま輸出される。同国の油田はシルテ湾から300キロメートルの範囲に集中しており、積出し基地までのパイプラインが比較的短くてすみ、また中東の油田よりヨーロッパに近いことが有利である。品質も低硫黄(いおう)(硫黄含有率0.5%)、軽質という特性をもつ。2007年現在の確認埋蔵量は65億9300万キロリットル。1970年代に比べ大幅に減産中であるが、年生産量は9866万キロリットルで、可採年数はあと67年である。また天然ガスも確認埋蔵量4兆5000億立方メートルで年間6億立方メートル生産される。シチリア島経由でイタリア本土へ600キロメートルのパイプラインがある。

 工業が国内総生産(GDP)に占める割合は、まだ8%(1990)である。トリポリとベンガジには、食品などの軽工業や織物、皮革加工など伝統工業が集中している。重化学工業では、マルサ・ブレガやミスラータなどにセメント、石油精製、石油科学、鉄鋼、アルミニウム精錬などの工場がある。

 農牧業は沿岸部の伝統的農牧業、イタリア人入植地の近代的農業、内陸部の遊牧、オアシス農業という形態で行われてきた。しかし耕作可能面積が国土の1.2%ほどであるうえ、石油開発により農村人口の流出が生じ、かなりの食料品の輸入が不可欠となっている。政府は砂漠の深層地下水などを利用した耕地の拡大と機械化農業の開発、畜産の振興を進め、生産性向上と食料自給を目ざしている。主要農産物としては小麦10万トン、大麦10万トン、オレンジ5万5000トン、アーモンド3万トン、ナツメヤシ18万トン、トマト19万トン、ジャガイモ29万トン、オリーブ17万トンなど(2006)がある。漁業は、高品質の海綿がシルテ湾、ボンバ湾で採取されるほか、マグロ漁が盛んである。

 貿易は、輸出では原油が総輸出額の73.8%、石油製品が17.3%(2007)を占める。おもな輸出相手国はイタリア、ドイツ、スペイン、トルコ、フランスで地中海周辺国が多い。アメリカへの輸出は1982年以降アメリカの禁輸措置で激減した。輸入は機械類、金属製品、自動車、鋼管が主要品目で、おもな輸入相手国は、イタリア、ドイツ、日本、韓国、イギリス、トルコ、フランスである。貿易収支は石油の輸出が始まった翌年の1962年以降、黒字が続いている。

 国内交通は、鉄道はなく、道路と空路が中心である。道路は沿岸を東西に貫くハイウェーを大動脈とし、内陸のオアシス、油田、国境を結ぶ道路も整備されている。このほか、イタリアが植民地支配の賠償として高速道路を建設中である。乗用車保有率は9人に1台とアフリカでは抜群の普及率を示す。空路はトリポリ、ベンガジの国際空港のほか、セブハ、ガダメスなど六つの国内空港がある。国家的事業として砂丘の地下の深層地下水をくみ上げ、直径4メートルのパイプラインでトリポリ、ベンガジへ送る大用水運河計画が行われており、2007年時点で、4期のうち第二期までが完成しているが、第三期の東方のトブロク方面への給水ラインは地下水の量と質に問題があり、着工されていない。

[藤井宏志]

社会・文化

国民の大部分はアラブ人、あるいはアラブ人とベルベル人の混血だが、南西部にはベルベル系トゥアレグ人、南部にはアフリカ系住民との混血も少数いる。公用語は正則アラビア語であり、ベルベル語、英語、イタリア語も一部で用いられる。一般生活にはアラビア語地方方言が使われている。宗教はイスラム教(イスラーム)が国教で大部分がスンニー派に属し、アラブ世界でも、もっとも戒律の厳しい国として知られるが、カトリック教徒も少数いる。

 人口増加率は2.1%(2000~2008)であるが、離村向都が続いており、都市人口比率は高い(77.3%。2007)。外国人労働者も多数流入し、1982年には就業者の46%を占めた。しかしその後の経済悪化から、1985年以降エジプト人(10万)、チュニジア人(2万3000)などの追放策を断行した。学校制度は、小学校が義務教育で、中学校あるいは実業学校、大学へと進む。大学はトリポリとベンガジに国立大学がある。授業料は小学校から大学まで無料である。医療では、医師1人当り人口は961人(1988)とアフリカでは医師の数は多いが、乳児死亡率は17%(2007)とやや高い。平均寿命は男74歳、女77歳である。

[藤井宏志]

日本との関係

日本は製鉄所建設、マイクロウェーブ網整備などのプラント建設、油田開発、インフラストラクチュア(経済基盤)整備、開発調査、研修員受け入れの面で経済技術協力を行っている。貿易では、日本は鉄鋼、機械機器、自動車、電気機器などを輸出し、魚貝類、海綿、ゴムのくずを輸入しており、日本の大幅な輸出超過である。

[藤井宏志]

『大石悠二著『リビア』(1981・みずうみ書店)』『西山雄二郎著『リビア』(1982・日本貿易振興会)』『塩尻和子著『リビアを知るための60章』(2006・明石書店)』


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改訂新版 世界大百科事典 「リビア」の意味・わかりやすい解説

リビア
Libya

基本情報
正式名称=リビア・アラブ社会主義人民共和国Jamāhīrīya al-`Arabīya al-Lībiyā al-Ishtirākīya al-Sa`biya, Socialist People's Libyan Arab Jamahiriya 
面積=175万9540km2 
人口(2008)=642万人 
首都=トリポリTripoli(日本との時差=-7時間) 
主要言語=アラビア語 
通貨=リビア・ディーナールLibyan Dīnār

アフリカ北部,地中海のシドラ湾周辺からサハラ砂漠にかけて広がる共和国。アラビア語ではリービヤーLībiyā。東はエジプト,スーダン,西はチュニジアとアルジェリア,南はニジェールおよびチャドと国境を接する。

リビアはもともと,アフリカの代名詞であったり,エジプトの西というくらいの漠然とした地域を示す語にすぎなかった。現在のようなまとまりをなす国家としてのリビアの誕生は,19世紀末以降西欧列強によるアフリカ分割の結果であり,今日のリビアは最初,イタリア植民地としてスタートした。リビアの位置する北アフリカは,いわゆるベルベルが先住民であったといわれる。そしてこの地へはアフリカ内陸部やアフリカの外側からさまざまの種族の人びとが流入,とくに7世紀中ごろ以降,イスラムとともに侵入したアラブは11世紀半ばにはベルベルと急速に同化した。リビア人の大半が今ではアラブ系住民であるが,西部のガダミスやガットにいるトゥアレグ族や,トリポリタニア海岸平野の定住農民の一部のベルベル語と独自の生活習慣を守る人びとは純粋のベルベルである。またフェッザーンやキレナイカ南部には,かつてオアシス農業の奴隷として中央サハラから連れてこられ定着したトゥーブ人などの黒人住民もいる。非アラブ住民としてはほかにも,ユダヤ人(レコンキスタ期にスペインを脱出してきた,いわゆる東洋系ユダヤ人)や大挙して入植したイタリア人らもいたが,今では大半がリビアを去っている。宗教については,リビア人のほとんどがイスラム教徒である。

大西洋岸から紅海岸にかけて広がる北アフリカ台地の一角を占めるリビアは,国土の90%以上が平坦な砂漠である。気候は乾燥しており,地中海沿岸部を除き年間降水量は200mmを切る。全般的に平坦な砂漠であるため,海岸地方を除くと夏・冬の気温差が大きく,夏には40℃を超えるが,冬には降雪をみるところもある。東のキレナイカと西のトリポリタニアにわずかに広がる海岸平野および付近の丘陵地帯は比較的雨量に恵まれた肥沃な地域で,人口の大半はここに集まっている。シドラ湾の東側,キレナイカ北部に突き出た半島を走るアフダル山地al-Jabal al-Akhḍal(標高500~600m)は,高地部分は年平均400~500mmの降水量のある森林地域であり,小麦,オリーブなどの栽培と牛・ヤギの放牧地をなす。

 山地周辺の丘陵は雨量が少ない半砂漠状のステップ地帯となっている。ギブリーGiblīという乾燥し砂を含んだ熱風が南のサハラから年中吹きつけているが,10月から翌年4月にかけて地中海の湿った空気が雨をもたらすと大麦の主要産地に変わり,また山地南側は草が生え牧草地と化し,山地北側の水場にいた羊とラクダが南下してくる。一方,西部のトリポリタニアのジェファーラJefāra平野と,その背後の低い砂丘や石灰石の丘陵からなるジャバル・ナフーサJabal Nafūsaの北斜面も,穀物とオリーブ,ブドウなどの果物の栽培で古代から穀倉地だった所である。それらの海岸平野や兵陵地帯が切れると,低地のサハラ砂漠が南部一帯に広がっていき,南端は標高約1500mのティベスティ山地にぶつかる。砂漠にはオアシスが点在し,そこではナツメヤシ,ウマゴヤシ(飼料用)などの灌漑農業が営まれ,また20世紀の初めころまでサハラを渡る隊商ルートの中継地の役割を果たしてきた。

今日のような範囲でのリビアの誕生は歴史的にみて新しいもので,古代以来リビアとは,エジプト以西の地中海沿岸地域を漠然と指し,ここは古くから,海や砂漠を越えた自由な人的・物的・文化的移動を活力としてきた土地柄であった。これに対しイタリア植民地として登場した近代リビアは,他のアフリカ諸国同様他地域との活発な交流を絶たれ,本来の開かれた世界としての活力を失った。

リビア史は北アフリカ沿岸に古代地中海を渡ってきた人びとが築いた植民都市に始まる。当時の北アフリカにはすでに,平野部に農耕民,山間部に移牧民,草原の面影の残っていたサハラには遊牧民がおり,また内陸フェッザーンにいたガラマンテス人(トゥアレグ族の先祖)は中央アフリカやスーダンへの交易ルートを開いていたようである。地中海交易を掌握していたフェニキア人,ギリシア人はそうした条件下の北アフリカに植民都市群を建設,これらを,大麦,小麦,ヨーロッパから導入したオリーブやブドウなどを生産する穀倉地として,また黄金,象牙,奴隷,ダチョウの羽根などのアフリカ産品の交易基地として確保した。西のトリポリタニアには前8世紀,カルタゴを中心にフェニキア人の形成した西地中海交易圏の一環としてレプティス・マグナ(現,トリポリ),サブラータが,また前7~前6世紀に東のキレナイカにギリシア人のキュレネ,ベレニケ(現,ベンガジ)などの植民地群が建設された。植民都市群は一定の交易関係を除けば,内陸部とは断絶した,いわばヨーロッパ世界の一部であり,砂漠周縁のベルベル原住民の侵入や略奪に絶えず脅かされた。そうした植民都市の様相は,ローマ時代(前67~後6世紀半ば),ビザンティン時代(533-642)でも基本的に変わらなかった。

7世紀半ば,アラブの軍事征服により急速に進展するイスラム世界の拡大過程は,642年のキレナイカ征服を振出しに北アフリカを巻き込み,その世紀のうちに北アフリカ全体がイスラム化された。アラブの軍事征服はビザンティン支配を排したものの,地元ベルベル人の強力な抵抗に直面し,間接支配に終始した。しかし,家族を連れた多くのアラブ軍人や,宗教家,商人が征服地の都市に住み,アラブ化した都市が軍事,行政,経済の中心として繁栄するや,周辺の住民はアラビア語を自らの言語とし,急速にイスラムに帰依していった。11世紀半ばにヒラールHilāl族をはじめアラブ遊牧諸部族が大挙して北アフリカに移住し現地住民と混血したことも,アラブ化・イスラム化に拍車をかけた。北アフリカに進出したムスリム商人は,黄金,象牙,ダチョウの羽根,奴隷などを求めてサハラ砂漠南縁の内陸アフリカへ下った。イスラム商業圏が飛躍的に拡大する9世紀以降,西サハラやチャド湖周辺の交易の中心地は,地中海沿岸やエジプトとキャラバン・ルート網で結ばれており,同じルートを経てアフリカ内陸のイスラム化が進んだ。こうしてイスラムの時代になると,北アフリカはアフリカ内陸部と密接に関係し合うことになった。

 キャラバン交易の発展で,キャラバン・ルートの起点・中継点が多く位置するリビア地域の重要性が高まった。トリポリ,ミスラタ,ベンガジなどの港町,ガダミス,ガット,ムルズク,アウジアなどのルート中継点にあたるオアシスが,イスラム時代になって繁栄を迎えた。それらの都市では通過商品の取引(たとえばカイロからの各種織物,ガラス,インド産の諸品目,ベンガジからの嚙みタバコ,トリポリからの紙,鉄砲,毛織の赤色帽子,スーダンからの奴隷,金,チャドやニジェールからの銅など)ばかりか,周辺遊牧民の持ち込むナツメヤシ,乳製品,ヤギ,ラクダ,羊毛などの取引も行われ,また毛織物,皮革加工などの工業も発達した。キレナイカ奥地やフェッザーンの砂漠地帯はそのままティベスティ山地の南へ何の障害もなく広がっており,その広大な地域を,オアシスを根拠地にするトゥアレグ族や移住してきたアラブと混血した諸部族が季節に応じて自由に移牧し,また黒人奴隷を用いてオアシス農業を営んでいた。これら遊牧部族は,キャラバン・ルートの安全通行にも重要な役割を果たしていた。

 リビアの沿岸地域は古代以来いわば征服軍の通路にあたり,その時々の政治体制に組みいれられてきたが,16世紀半ばエジプトから北アフリカ一帯がオスマン帝国領となるや,リビアも1551年キレナイカからトリポリタニアが同帝国の支配下に入り,78年,トリポリ・ベイ領としてオスマン帝国の直接支配に服することになった。オスマン帝国支配は1711年,土着化したオスマン軍人で地中海の海賊行為を拠りどころに台頭した,アフマド・カラマンリーAḥmad Qaramanrīの手に移り,リビアは1世紀余りの間カラマンリー朝(1711-1835)の支配にゆだねられた。しかし,トリポリを拠点とするリビア支配は,実質上,沿岸地域だけに限られた。キレナイカには,ベンガジなどに軍事・行政の拠点が設けられたが,遊牧民社会は支配の枠外にあり,またフェッザーンには14世紀,遊牧部族の興したフェッザーン首長国(首都はムルズク)が出現,それはキャラバンに対する関税を土台にトリポリの政治体制に名目的に服しながら19世紀初めまで自主性を貫いた。この首長国の南側一帯は,9世紀初めチャド湖周辺にできた巨大な黒人国家,カネム・ボルヌー帝国(11世紀にイスラム化)の支配地域にあたり,同帝国も19世紀前半まで強大な権力を維持した。フェッザーン首長国とこの帝国の間には平和的関係が保たれ,安定した両王国支配地域をキャラバンは,安全を保障されながら通過していった。こうしてリビア内陸部は,沿岸地域に劣らぬ経済力に恵まれ,独自の遊牧民世界を形成していた。

19世紀に入り西欧列強は,アフリカの領土的支配に取り組み,その影響がリビアにも現れた。フランスのアルジェリア占領を契機に西欧列強はカラマンリー朝の支配を打破し,また,1835年オスマン帝国によるリビア支配が回復され,63年トリポリ,ベンガジの独立2州制が施行され,支配が強化された。リビアはカラマンリー朝末期以来,諸地域の部族反乱に見舞われた。外圧に直面しリビアの一円的支配強化をはかる支配権力は,地方支配勢力の武力制圧によるキャラバン・ルートの直接支配や,土地制度の整備による徴税強化といった一種の近代化政策に取り組み,これに対し砂漠の遊牧部族の間に危機感が高まった。19世紀半ばキレナイカに始まったサヌーシー派のイスラム改革運動は,キレナイカ,フェッザーンはおろか,キャラバン・ルート沿いにフランスが占領に取りかかったスーダン中央部の諸部族の間で熱烈に支持され,19世紀末期フランスはチャド湖周辺で,サヌーシー派指導下の広範な抵抗運動に直面した。サヌーシー運動はリビアがオスマン帝国領からイタリア植民地に移行した1912年,広範な反イタリア闘争を組織,全リビアを反イタリア意識で結束させた。サヌーシー派自体は第1次大戦後内部対立を表面化させたが,イタリアのリビア植民地化の達成は,キレナイカでのムフタール指導の抵抗(1921-31)鎮圧を待たねばならなかった。リビアは植民地分割ラインで囲いこまれ,周辺アフリカ諸地域との人的・経済的つながりは最終的に閉ざされた。

イタリア植民地時代のリビアは,イタリアの入植植民地として改造され,植民者の富とリビア人の貧しさが際だった社会となった。すでにイタリアは植民地化と同時に,イタリア人入植者に土地を与えるための一連の土地法を制定して入植を制度的に保証していた。19世紀まで栄えたアフリカ内陸とリビアを結ぶキャラバン・ルートは,19世紀後半の奴隷売買の禁止や交易ルートの変更で植民地化以降は衰え,リビアの輸出はせいぜい,エスパルト草や海綿といった新登場の商品が目につく程度となった。かつてのキャラバン・ルートで栄えた砂漠地帯は,貧しい遊牧民世界として放置された。ルートの起点であったトリポリ,ベンガジはインフラストラクチャー整備,食料など限られた近代工業の開発が進められ,近代都市へと景観を変え,沿岸地域では1930年代に近代農業の開発に力が注がれたが,それらの経済開発はあくまで入植者のためのものであった。第2次大戦中の42年,リビアはイタリア軍を打破したイギリスにトリポリタニアとキレナイカを,フランスにフェッザーンを軍事占領されることになる。戦後,リビアは51年12月にサヌーシー派のムハンマド・イドリース・アッサヌーシーを国王(イドリース王)とする連邦国家として独立を宣言し,52年,国連決議に基づき国際的にも独立を達成した。

 新たなリビアの担い手として国王の地位にサヌーシー派の指導者イドリースが就いたのは,欧米諸国の支援によってである。欧米諸国はイドリースのリビア国民のシンボルとしての役割を重視,国内統一されたリビアを軍事基地として利用しようとの思惑があった。サヌーシー派はリビアの植民地時代に,かつての民族運動の指導勢力としての性格を伝統的ブルジョアジーのそれに変質させており,政治的独立の段階で国民統合のシンボルとして動かされ,リビアはそれら諸国の経済援助と引換えに軍事基地としての性格を強めた。60年代リビアに石油が発見され,リビアは対外的・経済的従属を断ち切って植民地支配からの解放の手がかりをつかんだが,イドリース王は石油資源を利権と引換えに国際石油資本の手にゆだね,石油はリビア国富としての威力を発揮せず,単なる王制存続の経済的土台に終始した。植民地時代以来のリビアの民族的解放の課題にとって,イドリース王政の打倒が先決となった。

1969年9月,カダフィーal-Qadhāfī(1941- )ら将校グループによるリビア無血革命でイドリース王政は打倒された。革命政府は70-71年,外国軍事基地の撤去,在リビア,イタリア人資産凍結,国際石油資本の施設の国有化等々,リビアを支配する外国勢力の中枢部分の息の根を止めはじめた。革命政権はアラブ・ナショナリズムを強調,アラブ世界の民族解放運動の隊列にリビアを加えるのを重視した。革命の指導者カダフィーは73年,〈第三の普遍理論〉(いわゆる《緑の書al-Kitāb al-akhḍar》)と称する独特の解放理論を打ち出した。従来の社会主義的解放理論とは異質の,〈イスラム社会主義〉とも称されるこの解放理論は,大衆の主体性をきわめて重視(〈大衆〉を意味するアラビア語ジャマーヒーリーヤを一般に〈共和国〉を意味するジュムフーリーヤに替えて,正式国名にかぶせたこともこの表れである),既存の諸制度は廃止され,全国民が参加する人民委員会,全人民会議が立法・行政全体を統括する体制がとられた。また同理論は,家族・部族などの〈血縁〉集団を重視するといった特徴もみられ,全体に,万物の法則に神(アッラー)の意志が貫かれているとの確信に支えられている。カダフィーが遊牧民社会の出身である点を念頭におけば,同理論にはかつての砂漠の遊牧部族民の世界が理想像として意識されている気配である。リビアは〈サハラ共和国〉構想を打ち出し,サハラ周辺諸国のジャマーヒーリーヤとしての一体化を提唱した。そこには,植民地支配の弊害を除去すべく,かつてサハラ部族世界で築かれていた,ムスリム同士の連帯感と隊商路・オアシスを介した社会的・経済的共存関係とに基づく平和の回復という実践的課題がこめられていた。しかし,サハラ周辺諸国が国民国家として厳然と存在している以上,同構想の具体化は容易でない。急進的なアラブ主義・イスラム主義的政策は,73年4月《緑の書》で提唱された〈文化革命〉によっていっそう強化された。さらに77年3月全人民議会で〈人民権力確立宣言〉が採択され,直接民主制確立のための国家改革が進められ,従来の革命評議会を解体して全人民会議をこれに代え,国名を〈リビア・アラブ社会主義人民共和国〉に変更した。
執筆者: なおチャドとのアオズ地区をめぐる紛争は,87年3月リビア軍の敗退があり,9月にこの地区の帰属をアフリカ統一機構(OAU)に一任することで暫定合意し,停戦した。94年国際司法裁判所はアオズ地域に対するチャドの領有権を認めた。これを受けてリビアは同地域から撤退,チャドと友好条約を締結した。

 アメリカはリビアが国際テロ事件に関与しているとして非難していたが,86年4月リビアを爆撃した。EC諸国も外交官の追放や貿易制限などの制裁措置をとった。さらにスコットランド上空でのパン・アメリカン機爆破事件(1988年12月)のリビア人容疑者の裁判をめぐって,中立国での裁判を要求したリビアはアメリカ,イギリス,フランスなどの非難を受け国際的孤立を深めた。92年3月には国連安保理でリビア制裁決議が採択され,国際航空の乗入れ禁止,外交関係の縮小などの制裁が課された。93年11月の安保理決議でも制裁が強化された。制裁はリビア経済に深刻な打撃を与え,国内の政治批判や暴動などの社会不安をもたらしている。リビアは経済制裁に呼応するかのように外国人労働者を追放した。一方で制裁解除に向けての外交関係の改善を進めており,エジプトをはじめ対アフリカ関係については成果がみられた。
執筆者:

リビアの経済は豊富な石油を基礎として成り立っている。品質がよく,単独で全輸出の100%近くを占める石油は,文字通りリビアの富の源泉である。1人当り国民総生産は5310ドル(1993)で,アフリカでは2位以下を大きく引き離して第1位である。しかし,世界的な石油のだぶつき傾向の影響で,年間1億t規模だった石油生産量は1978年ころから減少し,リビア経済全体にかげりがみえはじめた。リビアの石油輸出量は79年の7億1800万バレルから,80年6億1900万バレル(13.7%減)へ,石油収入も80年をピークに81年150億ドル,82年の100億ドル内外,86年には推計60億ドルへと減少した。それに伴い国際収支も悪化しはじめ,貿易収支が1979年76億8300万ドル,80年113億6900万ドル,81年16億2000万ドルと,81年になって黒字幅が一気にせばまり,貿易外も含めた総合収支は1979年26億2700万ドル,80年76億9200万ドルの黒字から,81年一挙に47億6800万ドルの赤字に転じた。80年に70億8900万ドルあった外貨準備は,81年46億1400万ドルもの債務状態へ転落した。石油の動向が経済を左右するのに加えて,機械,車両の圧倒的部分と,繊維,かなりの食料品(茶,砂糖,コーヒー,不作時には小麦)の輸入が不可欠なことも,リビア経済のアキレス腱である。農業についてみれば,国内総生産に占める割合はわずか3.9%(1986)で,可耕地は1.4%,農地にいたっては0.1%にすぎない。農業就業人口も1950年代70%だったのが,86年には13.9%となった。一方,リビアは1960年代以降の石油時代に入ってから,急速な都市化を迎え,トリポリとベンガジの都市部だけに全人口の92%が集中,さらに60万人近い外国人労働者も抱えるにいたった。国内食料品需要の8割方が輸入されており,農業問題はリビア経済にとって,ますます重大化しつつある。

 リビアは豊富な収入の半分を国内開発にあて,1970年代は農業開発が開発事業の重点であった。76-80年度の五ヵ年計画では総額の21%が農業にあてられ,アフダル山地計画,ジェファーラ平野計画,クフラ・オアシス計画(1万haの灌漑事業)などにおいて,農場,農道,灌漑・排水施設,農産物加工業などの建設に取り組まれた。しかし,当初の農業開発予算の配分は計画途中から削減され,また81-85年度の開発五ヵ年計画では経済政策自体が工業重視に変更された。農業開発は実施に当たり諸困難に直面,農業技術上の制約から外国人の技術者や農民に依存せざるをえないといった問題も生じ,食料問題の解決までにはまだ相当の距離がある。

 リビアの原油生産は,リビア革命後大幅にリビア側のコントロール下に置かれたが,依然全原油生産量の3分の1以上は外資系のオアシス・グループ(Continental,Marathon,Amerda)が掌握しており,リビア国営企業National Oil Co.の21%をしのいでいる。世界的な石油過剰生産にもかかわらず,石油のリビア化に向け国営油井の開発が進められている。リビアにとっては,単なる原油輸出国から脱皮し,原油,精製,石油化学工業の一貫生産実現が重要目標である。1970年以来これまでに六つの精製工場が建設され,80年代半ばにさらに三つが完成の予定であったが,経済状況の悪化により凍結を余儀なくされているものもある。また77年以来石油化学工業開発に重点が置かれ,アンモニア・プラント,エタノール・プラント建設で,それぞれ1日1000tの生産が可能となった。他の製造工業は,農産物加工業やじゅうたん,皮革加工などの伝統的分野に限定されたままである。リビアの工業化にとっては労働力の問題も深刻であり,外国人労働者抜きにはリビア産業は稼働しない現実である。82年度公式統計では,全就業人口77万4000人のうち25万2000人が外国人とされているが,実際の出稼ぎ外国人の数はこれをはるかに上回るものとみられている。
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百科事典マイペディア 「リビア」の意味・わかりやすい解説

リビア

◎正式名称−リビアal-Libiya/Libya。◎面積−175万9540km2。◎人口−655万人(2010)。◎首都−トリポリTripoli(106万人,2006)。◎住民−アラブが大部分,ほかにベルベル,トゥアレグ族など。◎宗教−イスラム(スンナ派,国教)97%。◎言語−アラビア語(公用語)。◎通貨−リビア・ディナールLibyan Dinar。◎元首−アギーラ・サーレハ・イッサ・アル・オベイダAgeela Saleh AL-OBEIDA(制憲議会議)。◎首相−アブドッラー・アル・シンニーAbdullah AL-THINNI。◎憲法−暫定憲法。◎国会−2012年7月に制憲議会選挙を実施。◎GDP−999億ドル(2008)。◎1人当りGNI−7380ドル(2006)。◎農林・漁業就業者比率−7.1%(1997)。◎平均寿命−男73.5歳,女77.3歳(2013)。◎乳児死亡率−13‰(2010)。◎識字率−88.9%(2009)。    *    *北アフリカの共和国。国土のうち大部分が砂漠で,北東に低く,南西に高い。南部国境に標高1000〜1500mの山地がある。全般に砂漠気候で,北部の地中海岸以外はほとんど降水がない。耕地は全土の3%以下で,大麦,小麦,オリーブ,トマトなどのわずかな産があり,羊・ヤギの遊牧が行われる。1959年ゼルテン油田の発見以後石油の産出が急増,世界有数の産油国となった。リビアの石油埋蔵量はアフリカ最大とされ,その産出量を調節しつつ,貿易収支は黒字をつづけている。輸出の大部分は石油が占めており,工業製品,食料品を輸入している。7世紀半ばアラブに征服され,イスラム化した。16世紀にオスマン・トルコの支配下に入り,1912年イタリア・トルコ戦争の結果,イタリア領になった。第2次世界大戦中の1943年連合軍に占領され,1949年までトリポリタニアキレナイカが英国,フェッザーンがフランスの軍政下にあった。1949年国連が独立を決議,1951年,トリポリタニア,キレナイカ首長国,フェッザーンの3州にて連邦王国として独立し,1963年連邦制を廃止した。1969年カダフィーら青年将校による革命でリビア・アラブ共和国となった。〔カダフィー政権〕 カダフィー政権は豊富な石油資源を背景に軍事力を強化,1973年からの文化革命でイスラムの原理に基づく直接民主主義に貫かれた国家(ジャマーヒーリーヤ)を志向し,その普及に乗りだした。1977年に直接民主制を導入して,社会主義人民リビア・アラブ国と改称したが,実体は完全な軍事独裁体制で,国際的には孤立することが多く,リビアは1992年からは航空機爆破テロ容疑で,国連安保理決議による制裁を受けた。カダフィーは国際的な孤立からの脱却をめざし,2003年12月核兵器を含む大量破壊兵器の開発計画の無条件の放棄を表明,2004年1月リビアは包括的核実験禁止条約(CTBT)を批准した。2004年10月に米国は独自の経済制裁を解除,2006年5月には米国との国交正常化が再開し,同年6月には米国のテロ支援国家リストから削除されたことにより,実質的に国際社会に復帰した。2004年に国名を,大リビア・アラブ社会主義人民ジャマーヒリーヤ国とし,2013年からは,リビア国とした。2011年2月,〈アラブの春〉の影響を受け,拘留されている人権活動家らの釈放要求のデモがベンガジで発生し,カダフィー支持勢力と衝突,デモは複数の都市に拡大し,政府は治安部隊を投入して,各地の抗議行動を武力で制圧しようとしたため多数の死傷者が出た。反政府デモは一気に拡大,軍の一部もこれに同調し,反政府勢力がベンガジを制圧。反政府デモは首都トリポリとその周辺でも起こり,これに対してカダフィー政権は無差別攻撃で弾圧。リビア国連次席大使,次いで国連大使が,国連でカダフィー非難演説を行い,国連リビア代表部全員がカダフィー政権からの離反を表明,数ヵ国のリビア大使が辞任を表明した。軍からの離反者も続き,反政府側はリビア東部を制圧しトリポリに向かい,カダフィー政権の求心力は急速に低下した。反政府側は暫定政権〈国民評議会〉樹立を宣言しアブドルジャリルが議長に就任,国連安保理はリビア制裁決議を全会一致で可決した。フランス・イギリスは国民評議会政権を承認した。リビア上空飛行禁止空域設定の国連決議は,アメリカ・ロシア・中国の反対で採択されず,国民評議会制圧地域へのカダフィー政権の攻撃が続き,国民評議会は劣勢に立たされた。3月12日国連安保理はリビアに対する飛行禁止区域設定と空爆容認の決議を採択(棄権ロシア・中国・インド・ドイツ・ブラジル),フランス・サルコジ大統領が主導し,英米仏を中心とする多国籍軍がカダフィー政権側に空爆を開始し,さらに軍事的指揮権をNATO軍に引き継いだ。その後一進一退の戦況が続いたが,NATO軍の支援を受けた国民評議会軍が次第に優勢となり,8月末首都トリポリを奪還した。10月,評議会軍はカダフィーの出身地シルトを制圧,10月20日,シルト市内の配水管に潜んでいたカダフィーが引き出され殺害された。42年間のカダフィー独裁政権は幕を閉じた。〔独裁政権崩壊以後〕 2011年10月,アブドルジャリルを議長とする国民評議会が暫定政権を担い暫定憲法を公布,評議会は暫定首相にアブドラヒム・キーブを選出し,11月暫定移行内閣が発足。2012年7月カダフィー政権崩壊後初の選挙となる,リビア制憲議会選挙が実施され,8月マガリーフを議長(大統領に相当)に選出,11月にゼイダーンが首相に選出されて,ゼイダーン内閣が発足した。しかし,長期独裁政権崩壊後の混乱は収拾されず,トリポリをはじめ各地に部族民兵やイスラム過激派武装組織の拠点が残り,カダフィー政権軍の大量の武器が軍幹部の人員とともに,中東,北アフリカ全域に拡散したとみられる。そうしたなか,リビア東部を拠点にISが急速に勢力を拡大。首都トリポリは2014年8月以降,イスラム過激派武装組織連合〈リビアの夜明け〉に占拠され,暫定政府はベイダに移ったが,ベイダではイスラム過激派の侵入を阻止できず爆弾テロが相次いでいる。これらの組織はISに忠誠を誓い,占拠した行政機関にはISと同じ黒旗が掲げられているといわれる。米軍は2014年12月,リビア東部に過激派戦闘員の訓練施設があると指摘し,国連と欧米諸国もリビアの現状に〈重大な懸念〉を表明している。
→関連項目マグリブ

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「リビア」の意味・わかりやすい解説

リビア
Libya

正式名称 リビア共和国 The Libyan Republic。
面積 167万6198km2
人口 714万3000(2021推計)。
首都 トリポリ

北アフリカの地中海に面する国。西はチュニジア,アルジェリア,南はニジェール,チャド,南東はスーダン,東はエジプトに接する。国土の大部分がサハラ砂漠の一部で,散在するオアシスのほかは海岸地帯に人口,都市が集中している。先史時代からベルベル人が居住していたが,11~12世紀にアラブ系スンニー派のイスラム教徒が移住,国民の大多数を占めている。かつてはギリシアやローマ帝国の植民地であり,16世紀以降はオスマン帝国の支配下にあったが,1934年にイタリアの植民地となった。地形や歴史的経過から,北東のキレナイカ地方,北西のトリポリタニア地方,南のフェザーン地方に大別された。1951年にリビア連合王国として独立。1969年ムアマル・カダフィらの軍事クーデターにより,リビア・アラブ共和国となり,1977年社会主義人民リビア・アラブ国となった。主産業は農業,軽工業であったが,1950年代からゼルテンなどで石油が発見され,1970年代には外国資本の石油会社を接収して国有化,輸出の大部分を占めるようになった。1970年代以降,数々のテロ活動への関与を指摘され,欧米諸国と対立。1985年には一連のテロ事件により経済制裁を,また 1986年にはアメリカ軍の空爆を受けたが,その報復として 1988年12月に 270人の死者を出したパンアメリカン航空機爆破事件を起こした。1992年に採択された国際連合のリビア制裁決議により,リビアは事件の首謀者を 1999年4月に引き渡し,さらに後年,遺族に対する補償金の支払いも約束した。そして 2001年のアメリカ同時テロを機に,一転して西側欧米諸国との協調路線をとりつつ親アラブ外交から親アフリカ外交へと移行した。2011年,チュニジアに端を発したアラブおよび北アフリカ諸国の民主化の流れが波及し,反体制派と政権側による内戦状態に陥った。反体制派は 2011年8月23日に首都トリポリを制圧。同年 10月20日,カダフィが殺害され,カダフィ政権は終焉を迎えた。

リビア
Revere, Paul

[生]1735.1.1. ボストン
[没]1818.5.10. ボストン
アメリカ独立革命期の民衆の英雄。ボストン在住の銀細工師の親方であったリビアは,1770年代に独立運動を支持するようになり,ボストンの職人層の著名な指導者となった。彼の功績は職人層と知識層の結合に貢献したことにあるといわれる。 73年ボストン茶会事件の際インディアンに扮装して参加。 75年4月 16日にはイギリス軍の来襲を馬を駆って各地に知らせ,植民地民兵に迎撃の余裕を与え 19日のレキシントン・コンコードの戦いによって独立戦争が開始された。 76年には陸軍中佐としてボストン港防衛の指揮をとった。戦後は圧延工場を設立し,軍艦『コンスティチューション』号の建造などに寄与した。

リビア
Llivia

スペイン北東部,カタルニャ州,ヘロナ県に属する飛び地。フランス南端のピレネーゾリアンタル県内に位置する。 1177年まで旧セルダニャ地方の首都であったが,1659年のピレネー条約によって周辺 33ヵ村がフランスに割譲され,現在はフランス領内の中立道路1本によって,スペイン領プイグセルダと結ばれている。農産物の取引が中心。人口 854 (1991推計) 。

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「リビア」の解説

リビア
Lībiyā

北アフリカのアラブ国。正式名称はリビア社会主義人民共和国。全人口のうちムスリムが98%。フェニキア,ローマ,ビザンツ帝国などに支配されたのち,7世紀にアラブ・ムスリムに征服された。16世紀にオスマン帝国の支配,トルコ系のカラマンリー朝の建設,19世紀には再びオスマン帝国の直接支配下に置かれた後,それに抵抗するサヌーシー教団の活動が始まった。さらにイタリアに植民地化されると,同派の運動は反帝国主義運動,民族運動の性格を持つようになり,ムフタールの反乱(1911~31年)も起こった。1951年独立,リビア連邦王国が樹立されたが,69年カダフィーによるクーデタが成立し(リビア革命),「大衆による直接民主主義(ジャマーヒリーヤ)」という理論による国家建設が進められた。アラブ民族主義,イスラームの普及に力を入れているが,反面では欧米との摩擦もしばしば生じた。

出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報

旺文社世界史事典 三訂版 「リビア」の解説

リビア
Libya

北アフリカ中央部の地中海に面する共和国。首都トリポリ
古くからベルベル人が住んでいたが,紀元前よりフェニキア人(カルタゴ人)・ギリシア人・ローマ人の海外植民地とされた。7世紀にアラブ人に征服されて以後,いくつかの王朝の支配をうけ,16世紀にはオスマン帝国の支配下にはいった。1911〜12年のイタリア−トルコ戦争でイタリアの植民地となったが,1951年王国として独立した。1969年カダフィら「自由将校団」が無血クーデタに成功し,王政を廃して共和政に移行し,リビア−アラブ共和国と改称した。カダフィの率いる革命評議会は,イスラームを基礎とする社会主義を掲げ,1971年から欧米石油会社の国有化を開始。1977年3月直接民主制(ジャマヒリア制)を宣言し,国名を社会主義人民リビア−アラブ国に改称。アメリカとは断交状態のうえ,1980年代末の米・仏機爆破犯の引き渡し拒否により,93年に国連決議のリビア制裁が発効。容疑者の国連への引き渡しにより,1999年に制裁は停止された。

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