ラント(英語表記)Land

改訂新版 世界大百科事典 「ラント」の意味・わかりやすい解説

ラント
Land

ドイツ人の生活の枠組みを考えるうえで無視できないのは都市や村落などの共同体と並んでラントと呼ばれる単位である。通常は州と訳されるが,むしろ〈くに〉と訳す方が実体に即しているようにみえる。ドイツは1990年10月に再統一され,16のラントで構成されているが,ここではそれ以前の状況を述べる。東西再統一までのドイツ連邦共和国には11のラントがあった。バーデン・ビュルテンベルク,バイエルンブレーメンハンブルクヘッセンニーダーザクセン,ノルトライン・ウェストファーレン,ラインラント・ファルツ,ザールラントシュレスウィヒ・ホルシュタイン,ベルリンである。このうちベルリンはアメリカ,イギリス,フランス,ソ連の4ヵ国の統治下にあり,特別な位置をもっていた。面積の点で最も大きいラントはバイエルンであり,人口が最も多いのはノルトライン・ウェストファーレンである(東西統一後も同様)。それぞれのラントは固有の歴史をもち,ドイツ史のなかで単なる行政区画として以上の意味を担ってきた。

 これらのラントのうちバイエルンとハンブルク,ブレーメンは国制史上も長い歴史をもつラントであるが,他のラントは多かれ少なかれ政治情勢の変化とともに,離合集散を繰り返した結果生まれたものである。ラインラント・ファルツとニーダーザクセンは1945年以後に生まれたラントであり,第2次大戦後のかなり恣意的な占領区域の設定によって境界が定められている。またかつてはプロイセンに属していたシュレスウィヒ・ホルシュタインなどはプロイセンが消滅したのち新たにラントとなったものである。ノルトライン・ウェストファーレンも同様である。ハノーファーはニーダーザクセンに入り,ヘッセン・ナッサウはヘッセンに組み込まれた。かつてプロイセンに属していたライン地域南部はバイエルンに属していたライン・ファルツとともに,ラインラント・ファルツを構成し,バーデン・ビュルテンベルクは1952年の投票によって成立したラントである。ザール地域もアメリカ,フランス,イギリスの占領地域から57年にザールラントとして連邦共和国に組み込まれた。

 このように戦後のラントは必ずしもそれぞれがまとまった歴史的伝統をふまえた〈くに〉であったわけではないが,ラントという枠組みはドイツ人の生活のなかで今でも重要な位置をもっている。連邦共和国政府はボンに首都を置いていたが(統一後ベルリンに遷都),連邦共和国固有の土地は存在せず,ラント,ノルトライン・ウェストファーレンから連邦共和国政府が必要とする土地を借りていたのである。このことはドイツ史を貫いている中央集権への傾向と連邦への傾斜がドイツ連邦共和国において明瞭な形をとっていることを示しており,ドイツ民主共和国の状況と対照的であった。ドイツ連邦共和国においては連邦への傾斜が強まっている反面で,ドイツ民主共和国においては1952年以来ラントは廃止され,かつては五つを数えたラント(メクレンブルク,ザクセン・アンハルトブランデンブルク,ザクセン,チューリンゲン)は14の地域Bezirkに区分され,連邦制は消滅していた。東西ドイツ統一に際して5のラントとしてドイツ連邦共和国に吸収されたが,その際メクレンブルクはメクレンブルク・フォアポンメルンとなった。

 日本の県と違ってドイツ連邦共和国のラントはそれぞれ独自の行事暦や教育制度などをもち,独自の文部省をもつ自治体である。長い間ドイツ人にとって自分の町や村という共同体の外においては,自分の〈くに〉(ラント)という意識が最も大きな枠組みであり,ときに国家とか国民という意識が台頭してくることがあっても,その意識はかなり観念的なものであり,生活の実感に即した意識としてはラントを超えることはあまりなかった。このようなラントは,歴史的にはどのような背景のもとで生まれてきたのだろうか。

フランク時代に民族移動期以来の部族Stamm,アラマン族,バイエルン族,ザクセン族などが,フランク族によって帝国Reichにまとめ上げられた。496年にはクロービスによってアラマン族は南に追われ,788年にバイエルン族のアギロルフィンガー家がカール大帝によって廃絶された。804年にはザクセン族がカールに屈服した。これらの諸部族は部族大公領Stammesherzogtumとして残るが,アラマンやザクセンには国王がおらず,高位貴族によって統治されるまとまりの弱いものでしかなかった。しかしながらアルプス以北では9世紀にフランク王国は東フランクと西フランクに分裂し,西フランクではカロリングの伝統が987年まで続くが,東フランクでは911年には絶えてしまう。ザクセン朝のオットー1世(大帝)は962年にカロリングの伝統をふまえてローマで戴冠したが,その背後にあったのは部族大公であり,〈部族大公が新たに王を生み出した〉といわれる。部族大公制とは共通の法慣行と生活習慣をもった部族結合体であり,特定の貴族の家柄が指導的な地位についていた。部族大公はこのような部族を背後に従えて王と同様な地位を享受していたのである。そのため部族大公制は王権を弱体化していく傾向を生むことになった。基本的にはザクセン,バイエルン,シュワーベンロートリンゲンフランケンの五つの部族大公領が数えられたが,このうち真に部族を基盤とするものは,ザクセン,バイエルン,シュワーベンのみであり,ロートリンゲンとフランケンは独自の部族をもつものではなかった。

 オットー1世のころから国王の中央集権策は大公領を支配する方向から,教会支配へと重心を移していった。全土に広がる司教,修道院を掌握することによって,それらを国王直属の官僚として用いようとする政策であった。これを教会高権政策と呼ぶ。ライン・ドナウ川沿いのローマ時代にさかのぼる教会から,ライン右岸からエルベ・ザーレ川に至る地域に成立した教会へ,そして東ドイツ植民のなかで成立した東部の教会に対する支配へと広がり,同時にドイツの中心も東に移っていった。しかしながら11世紀には叙任権闘争のなかで国王の教会政策が揺らぎ,1122年のウォルムス協約によって帝国教会に対する国王の支配権は制限されるにいたった。シュタウフェン朝下で王権は強力な王家の力によって再び貴族を抑え,中央集権化を推進するかにみえたが,98年の二重選挙とフリードリヒ2世の死によって大空位時代を迎え,中央集権化への望みは絶たれた。

 大空位時代以後帝国内のラントはほぼ独立した国家としての姿を現してくるのだが,その萌芽はすでにフリードリヒ2世の治世下に生まれていた。1220年と31-32年にフリードリヒ2世は諸侯法と呼ばれる二つの法令を出し,そのなかで王のもつ特権の多くが諸侯に譲渡されることになった。とくに帝国裁判権が諸侯のラントには及ばなくなり,ラントの君主(ランデスヘルLandesherr)はそれぞれのラント内では実質的に皇帝と同じ位置を占めることになった。11世紀に姿を現してくるラント支配の新しい形をランデスヘルシャフトと呼び,その根底には公的・私的な権利を掌握していった貴族の台頭があった。そして貴族が台頭していく際の基礎となっていたのは土地領主制であり,さらに城を中心とした上級裁判権の掌握に基づく一円支配領域の形成であって,高位貴族は城を拠点として土地と人民Land und Leuteに対する支配を確立したのである。ラント支配の鍵となったのはラント内の法秩序の確立であり,そのためにランデスヘルはラント内の不法行為や私闘(フェーデ)を抑え,一時的あるいは永続的に平和を確保するための〈ラント平和令〉を出すにいたった。本来は〈神の平和〉運動から始まった誓約共同体として成立した平和運動はやがて〈ラント平和令〉という形でランデスヘルの支配と治安維持の手段とされていったのである。

 1156年にフリードリヒ1世は,かつての辺境伯領オーストリアバーベンベルク家の新しい大公領としてバイエルンから独立させた。この大公領は〈小特許状privilegium minus〉によって裁判権を含む多くの特権をもち,ラント内の自立的権力を抑圧するための強力な手段を手にしていた。ここに成立したオーストリアはもはや部族大公領ではなく,まったく新しい地域支配の形を示しており,このころに部族支配体制から地域支配制へ,人的結合国家から一円的な領域支配国家への移行が行われたといわれる。いわばドイツ中世の帝国国制の最も重要な変化が起こったのである。オーストリア以外にもビュルツブルク,シュタイアーマルク,ウェストファーレン,ライン・ファルツ,チューリンゲンなどの新しい型の大公領が生まれ,現在のラントの原型ともいうべき枠組みが現れている。いうまでもなく,このような新しい地域支配権力の成立は帝国を崩壊させる危険を内包しており,事実13世紀以後ドイツにおいて実質的な国家としての機能を備えるにいたったのは帝国ではなく,これらの領域支配国家であった。1356年の〈金印勅書〉はランデスヘルの至高権majestasを保障し,帝国からのラントの独立を完成させたものであった。

 15~16世紀末まではランデスヘルはラント内を常に移動しながら統治を行っていた。ラント内の支配関係はいまだレーン(封)関係によって結ばれていたからである。しかしながら16世紀以降ランデスヘルは領域内に大学を設置し,法学者を育成して官僚として用い始めた。このころからランデスヘルは一定の拠点に定住し,官僚を用いて文書による統治を行うことができるようになっていった。三十年戦争ののち結ばれたウェストファリア条約(1648)において帝国諸侯などの諸身分に対して完全な領国主権が承認されている。そこで帝国諸侯などの諸身分は外国と条約を結ぶ権利さえ認められているのである。

 中世末ころから近世にかけてこのような形のラントは大小300余も形成されていたが,その大部分においてはまだ私法的な関係が支配的であり,近代的な行政制度を備えていなかった。東ドイツ植民運動の過程で成立したドイツ騎士修道会所領の東西プロイセンとブランデンブルクを基盤として台頭しつつあったプロイセンとオーストリアはいち早く大領国を形成していたが,両者の間で勢力が分裂していたため諸侯はかつてナポレオンの保護下で結んだライン同盟に範をとって1815年にドイツ同盟を結成した。オーストリアはこの同盟に参加していたが,66年にドイツ連邦から離れ,以後ドイツのラントではなくなった。このときドイツ同盟に加わったラントは38を数えた。プロイセンの主導下にビスマルクによってつくられたドイツ帝国には25のラントが加わっていた。ワイマール体制下では18のラントが入り,統一前のドイツ連邦共和国においては冒頭に記したように11となっていて,今日の連邦制の下ではもとより,かつてのような外交の権利などはもはやラントになく,連邦政府が掌握している。しかし歴史的なラントの自治の精神は今でも生き続けているのであり,そこには以上のような歴史的背景があった。
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ラント
Alfred Davis Lunt
生没年:1892-1977

アメリカの俳優。1919年,リン・フォンタンLynn Fontanne(1887-1983)と初めて共演。22年に彼女と結婚し,20世紀を代表する俳優夫妻としてともに活躍した。23年,そろってシアター・ギルドに参加,G.B.ショーの《武器と人》や《ピグマリオン》,F.モルナールの《近衛兵》などで成功を収めた。他の共演作品にはN.カワードの《生活の設計》,R.シャーウッドの《白痴の歓び》,J.ジロードゥーの《アンフィトリオン38》,シェークスピアの《じゃじゃ馬ならし》,チェーホフの《かもめ》などがある。最も得意としたのは洗練された喜劇で,後年は主としてそういう作品に出演した。最後の共演作品はF.デュレンマットの《貴婦人故郷に帰る》(1959上演)。
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ラント」の意味・わかりやすい解説

ラント
Lunt, Alfred

[生]1892.8.19. ウィスコンシン,ミルウォーキー
[没]1977.8.3. シカゴ
アメリカの俳優,演出家。妻の L.フォンタンと『ピグマリオン』 (1927) ,N.カワードの『生活の設計』 (33) ,『じゃじゃ馬ならし』 (35) ,J.ジロドゥの『アンフィトリオン 38』 (38) など多くの作品に出演。また,メトロポリタン歌劇場で『コシ・ファン・トゥッテ』 (51) や『椿姫』 (66) などを演出した。

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世界大百科事典(旧版)内のラントの言及

【ドイツ】より

…ヨーロッパのほぼ中央部に位置する地域。ドイツ語のドイチェラントとは,〈ドイツ人Deutscheの国Land〉を意味し,英語ではジャーマニーGermany,フランス語ではアルマーニュAllemagneと呼ばれる。 現在〈ドイツ語〉ないし〈ドイツ人〉を意味するDeutscheという言葉は8世紀ころから用いられていたが,元来はtheudiskという形容詞に由来し,〈民衆本来の〉という意味をもっていた。…

【ドイツ連邦共和国】より

…国会は日本の衆議院に当たる連邦議会Bundestagと連邦参議院Bundesratの二院制であるが,後者は州政府の代表者によって構成される。11の州(ラント)には外交,防衛を除く内政全般の機能が分与されて,連邦参議院の特殊な性格とともに,旧西ドイツの連邦的性格が特徴づけられている。11の州とは,シュレスウィヒ・ホルシュタインハンブルク,ニーダーザクセン,ブレーメンノルトライン・ウェストファーレンヘッセンラインラント・ファルツバーデン・ビュルテンベルクバイエルンザールラントベルリンである(90年のドイツ統一により,メクレンブルク・フォアポンメルン,ザクセン・アンハルト,ブランデンブルク,ザクセン,チューリンゲンが加わった)。…

※「ラント」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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