ラファエロ

百科事典マイペディア 「ラファエロ」の意味・わかりやすい解説

ラファエロ

イタリア盛期ルネサンス,フィレンツェ派画家,建築家。ウルビノ生れ。初めペルジーノに学び,その抒情的作風にひかれたが,1504年フィレンツェに出,ミケランジェロレオナルド・ダ・ビンチなどの影響を受けながら,写実的な明暗法,肉付法を基礎としつつ,理想美を追求して古典主義芸術を完成した。1508年ローマに出て教皇ユリウス2世の厚遇を受け,バチカン宮殿の〈署名の間〉の壁面に《聖体の論議》《アテナイの学堂》(1508年―1511年)を制作し,次いで〈ヘリオドロスの間〉の装飾に従事,また〈火災の間〉に《ボルゴの火災》などを描いた(1514年―1515年)。これら壁画の大作のほかにラファエロ芸術の特色をよく示すものとして,《システィナの聖母》(1513年ころ,ドレスデン絵画館蔵),《グランドゥーカの聖母》(1504年,フィレンツェ,ピッティ館蔵)等多くの聖母像があり,肖像画にも傑作を残している。建築家としては1514年ブラマンテの死後,建築監督としてサン・ピエトロ大聖堂の建築に従事した。盛期ルネサンスの絵画理念を最も純粋に表現した芸術家として後世に大きな影響を及ぼした。
→関連項目アングルオーバーベックカラッチ[一族]サンガロ[一族]サン・パウロ美術館ジュリオ・ロマーノセバスティアーノ・デル・ピオンボソドマドレスデン国立絵画館バチカン美術館バトーニプッサンペルッツィボルジア[家]メングスラファエル前派

出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ラファエロ」の意味・わかりやすい解説

ラファエロ
Raffaello Sanzio

[生]1483.4.6. ウルビノ
[没]1520.4.6. ローマ
イタリアの画家。レオナルド・ダ・ビンチミケランジェロと並んで盛期ルネサンスの古典的芸術を完成した三大芸術家の一人。画家であった父に学び,1500年頃ペルジーノの工房に入った。1504年にフィレンツェに赴き,巨匠たちの作品から学び『テンピ家の聖母子』などを描き名声を得た。1508年にローマに移り,ユリウス2世のためにバチカン宮殿の教皇署名の間に『アテネの学堂』『パルナッソス』などの傑作を描き,1511年には同宮殿のヘリオドロスの間の壁画を制作した。ドナト・ブラマンテの跡を継いでサン・ピエトロ大聖堂の構築計画や古代遺跡発掘の監督も引き受けた。続いて教皇宮インチェンディオの間の壁面やキージ家礼拝堂の装飾など多面的な活動をした。そのほかの作品に『サン・シストの聖母子』 (1514頃,ドレスデン国立絵画館) など。

出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報

精選版 日本国語大辞典 「ラファエロ」の意味・読み・例文・類語

ラファエロ

(Raffaello Santi (Sanzio) ━サンティ(サンツィオ)) イタリアの画家、建築家。ルネサンスの巨匠の一人。父ジョバンニ=サンティやペルジーノに学んだのち、フィレンツェに出て多くの聖母像などを描く。一五〇八年以後ローマで活躍。バチカン宮殿の多くの部屋の壁画装飾、サン‐ピエトロ大聖堂の設計にあたる。調和のとれた空間表現・人体表現などによってルネサンス古典様式を確立。代表作「サン・シストの聖母」「アテネの学堂」など。(一四八三‐一五二〇

出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報

旺文社世界史事典 三訂版 「ラファエロ」の解説

ラファエロ
Raffaello Sanzio

1483〜1520
イタリアの画家・建築家
ルネサンスの巨匠のひとり。1504年フィレンツェに行きレオナルド=ダ=ヴィンチ・ミケランジェロの影響を受け,このころ一連の聖母像を描く。その後,ローマ教皇ユリウス2世・レオ10世の寵を受け,ヴァチカン宮殿に多くの壁画を描き,37歳の若さで死んだ。聖母像のほかに「アテネの学園」などが有名。

出典 旺文社世界史事典 三訂版旺文社世界史事典 三訂版について 情報

デジタル大辞泉 「ラファエロ」の意味・読み・例文・類語

ラファエロ(Raffaello Santi/Raffaello Sanzio)

[1483~1520]イタリアの画家・建築家。盛期ルネサンスを代表し、明晰めいせき豊麗な、生命感あふれる古典様式を確立した。また、サンピエトロ大聖堂造営参画

出典 小学館デジタル大辞泉について 情報 | 凡例

世界大百科事典 第2版 「ラファエロ」の意味・わかりやすい解説

ラファエロ【Raffaello Santi(Sanzio)】

1483‐1520
イタリア・ルネサンス期の画家,建築家。英語ではラファエルRaphael。ウルビノに生まれ,ローマで没。古典主義絵画の大成者であり,その後西欧絵画の歴史のうえで,最高の範例と仰がれた。 父ジョバンニも画家で,少年時代に最初父から絵画の手ほどきを受けたとされる。次いでペルジーノのもとに学び,おそらくはペルージアのカンビオの壁画装飾に協力,またペルジーノの影響の強い《聖母の結婚》(ブレラ美術館)を描いた。

出典 株式会社平凡社世界大百科事典 第2版について 情報

日本大百科全書(ニッポニカ) 「ラファエロ」の意味・わかりやすい解説

ラファエロ
らふぁえろ

ラファエッロ

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

世界大百科事典内のラファエロの言及

【イタリア美術】より

…しかし,16世紀に入るとこの均衡は再び崩れ,芸術は,より新しい主観主義へと傾く。ラファエロは,教皇ユリウス2世の古代ローマ再建の壮大な意志を表現する大構図作者であったが表面的に過ぎ,ミケランジェロは初期には古代彫刻を超える肉体の官能性を表現したが,16世紀とともに危機に向かうイタリアの世界観を表現し,新たな象徴主義へと向かった。システィナ礼拝堂の《最後の審判》はその危機の表現である。…

【マニエリスム】より

…彼は,15世紀の芸術家が単に自然を模倣しこれを整理する理法を知ったのに反し,16世紀の芸術家は〈マニエラを知る〉ことによって〈自然〉を超えた〈優美〉をもつにいたった,と述べ,ここでマニエラは,〈自然〉に対して,人間の〈イデア(理念)〉を付加する高度の芸術的手法と考えられるようになった。バザーリとその同時代の理論書では,ミケランジェロとレオナルド・ダ・ビンチ,ラファエロの〈手法〉を知ることにより高度の理想美が実現できると考えられたが,これは,芸術表現において初めて,意識的に〈様式〉の自覚が行われたことを意味し,古代ギリシア以来のミメーシス(模倣)の理論に対する一つの変革であった。 しかし,17世紀のバロック古典主義,バロック自然主義のいずれもが,16世紀の主知的様式主義を芸術の堕落として敵視し,とくに美術理論家G.P.ベローリは,このマニエラを自然から離れた虚偽の人為的な芸術であり,芸術のデカダンスであると非難したため,新古典主義が主導権を握った17~18世紀を通じて,マニエラとマニエリスムの双方が著しく価値をおとしめられ,19世紀にいたるまで,マニエラは〈型にはまった同型反復〉,マニエリストは〈巨匠の模倣をする,創造性を欠く追従者〉として位置づけられた。…

【ライモンディ】より

…画家・金細工師のF.フランチアのもとで修業した後,1508年ころベネチアに赴き,とくにデューラーの木版画の模刻をするが剽窃(ひようせつ)罪で訴えられる。10年ころローマに移住し,ラファエロの工房で師のデッサンに基づく多量の複製版画を制作し普及に努めた。師の死後,同胞G.ロマーノと共作するが,作品の猥褻(わいせつ)性のため投獄される。…

※「ラファエロ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社世界大百科事典 第2版について | 情報

今日のキーワード

破壊措置命令

弾道ミサイルなどが日本に飛来・落下する恐れのある場合に、それを破壊するよう防衛大臣が自衛隊に命じること。弾道ミサイル破壊措置命令。[補説]原則として内閣総理大臣の承認を得た上で行われるが、事態の急変な...

破壊措置命令の用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android