モンジュ(読み)もんじゅ(英語表記)Gaspard Monge

デジタル大辞泉 「モンジュ」の意味・読み・例文・類語

モンジュ(Gaspard Monge)

[1746~1818]フランス数学者海軍大臣画法幾何学を創始した。また、解析幾何学の業績や、微分方程式のモンジュの方法でも知られる。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「モンジュ」の意味・わかりやすい解説

モンジュ
もんじゅ
Gaspard Monge
(1746―1818)

フランスの数学者。ボーヌの職工の家に生まれる。初め工兵士官学校を志したが、職人の子弟は入学できないという規定があり、付属の技術下士官を養成する学校へ入った。モンジュは、三次元の立体を、形、位置、幾何学的性質が量的に正確に一見してわかるように二次元的に表現する方法として「投影の方法」を用い、この方法に数学的根拠を与え、あらゆる場合に適用できるように理論づけた。しかし軍事上の理由で公表を許されなかった。1780年パリに招かれ、流体力学や気象学の講義を行うなかで、自己の樹立した学問を公表し、学界にその名を知られた。

 1789年のフランス革命に参加し、ジャコバン党員となった。1792年8月10日、コンドルセ切望によって海軍大臣になったが、翌1793年辞職し、新たに設置された高等師範学校(エコール・ノルマル・シュペリュール)の教授となり、画法幾何学を講義。また、1794年に設立された理工科大学校(エコール・ポリテクニク)で、画法幾何学、曲面論、空間曲線論を講義した。1796年モンジュは、ローマ法王からフランスへ譲渡された絵画彫刻とを受け取るためにイタリアへ派遣され、このときにナポレオン・ボナパルトを知った。ナポレオンが皇帝になると上院議員になり、伯爵を授与されるほどの信頼を得た。しかし、ナポレオンが失脚し、ルイ18世王位についた際、モンジュは新政府に忠誠を誓わず、公職から追放され、1818年7月28日にパリの一隅陋屋(ろうおく)で寂しく他界した。

小堀 憲]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「モンジュ」の意味・わかりやすい解説

モンジュ
Monge, Gaspard

[生]1746.5.10. ボーン
[没]1818.7.28. パリ
射影幾何学を開拓したフランスの数学者。ボーンとリオンのオラトリオ会の学校に学ぶ。メジエールの士官学校の教官になろうとしたが,この学校は貴族の学校で,父が行商人であったため,製図工としてしか採用されなかった。しかし勤めているとき,要塞に大砲を据付ける問題を,それまでのような長たらしい計算によらないで,簡単な幾何学的作図を用いて解決し,その才能を示した。その結果,教官に採用され,画法幾何学を中心に,数学,物理を教えた (1768~83) 。パリに出て,海軍士官候補生の試験官となり (83~89) ,フランス革命が起ると革命支持者として,新度量衡制度委員会の委員に任命され (91) ,海軍大臣をつとめた (92~93) 。 1794年にはエコール・ポリテクニクの創設に参加し,創設後はこの学校の校長となり,また画法幾何学,解析幾何学微分幾何学の講義をした。ナポレオン1世に優遇され,そのエジプト遠征にも参加して,エジプトの文化発展のための諸機関の創設を助けたが,1814年,ブルボン王朝が復活すると,役職から追放された。エコール・ノルマル・シュペリュール (高等師範学校) での講義をまとめた『画法幾何学』 (99) と,エコール・ポリテクニクでの講義に基づく『解析学の幾何学への応用』 (1801) は,前者は射影幾何学,後者は解析幾何学を確立したテキストとされている。

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改訂新版 世界大百科事典 「モンジュ」の意味・わかりやすい解説

モンジュ
Gaspard Monge
生没年:1746-1818

フランスの数学者。フランス中東部の町ボーヌに生まれた。少年時代より測量技術に関心をもち,メジエール工兵学校を志望したが,庶民の出身のために許されず,築城技術者養成のための別科に入った。しかしすぐに頭角をあらわして,22歳で工兵学校教官となり,18年間勤務した。その間に画法幾何学を大成して,技術面のみならず数学に大きな足跡を残し,1780年にアカデミー・デ・シアンス会員に選ばれた。89年にはフランス革命軍に加わり,海軍大臣や兵器製造責任者になり,またエコール・ポリテクニクの設立(1794)と育成に献身的な努力をした。のちにナポレオンの知遇を得て,そのエジプト遠征には文化工作を担当し,伯爵にもなったが,ブルボン朝の復活とともに追われ寂しく死んだ。画法幾何学のほかにも,微分的方法による曲面の研究を行って微分幾何学の素地をつくった。著書に《画法幾何学》(1795)がある。
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百科事典マイペディア 「モンジュ」の意味・わかりやすい解説

モンジュ

フランスの数学者。メジエールの陸軍工兵学校在学中に画法幾何学(立体図学)を創始,1771年同校教授,1780年パリ大学教授。フランス革命後は造兵の技術と組織に尽力,1790年メートル法制定委員会委員,1792年海相,1794年彼の提案によりエコール・ポリテクニクが創立された。ナポレオンのエジプト遠征に従軍し,1796年エジプト学会を創立。その後も微分幾何学,微分方程式等を研究。ブルボン王朝の復活とともに失脚。

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世界大百科事典(旧版)内のモンジュの言及

【画法幾何学】より

…図法幾何学,立体図学とも呼ばれる。画法幾何学の創始者はフランスのG.モンジュで,彼は城壁の設計を計算によらず作図によって解く方法を開発した。この図式解法は当初は軍事機密とされたが,のちに公開が認められた。…

【技術教育】より

…これは,すぐれた科学者の手で労働者たちに数学,自然科学の諸部門,技術の原理や応用を教える運動で,19世紀半ばには上流階級の反対で急速に消滅したが,のちの技術教育機関の萌芽となり,アメリカにも大きな影響を及ぼした。フランスでは,大革命の少し前から軍隊内の技術将校養成などの技術教育施設が生まれていたが,大革命の過程でG.モンジュらの指導するエコール・ポリテクニクが創立された。ここでは,数学,製図,自然科学の系統的な基礎教育のうえに土木,機械学等の高い水準の技術学が教授され,その卒業生から優れた科学者,技術者,技術将校が生まれた。…

【工学】より

…この学校では,フランス全土から選抜された多くの有為な青年たちが,画期的なカリキュラムに沿って学習に励んだ。カリキュラムの立案には数学者のG.モンジュの貢献が大きかったとされているが,この学校では数学や画法幾何学(図学),力学を中心とする科学知識の習得に多くの時間があてられていた。このようなカリキュラムには,この学校で学んだ青年たちが,将来いかなる方面――軍事技術,土木,建築,造船,地図製作,さらに教職――に進んでも困らないためには,理論的・基礎的な知識が不可欠であるとのモンジュの考え方を反映していた。…

【製図】より

…その後,印刷術の発明により,機械を写した図,書物は多数を数えることになるが,その中でG.アグリコラによる《デ・レ・メタリカ》はとくに著名である。 近世に入って,G.モンジュによって創始された画法幾何学は,築城の技術に一大躍進をもたらした。それまでめんどうな計算を行って解かなければならなかった問題が,作図により容易に解決できるようになったのである。…

【鉄】より

…製鉄の各分野がここで模範的にまとめられた。そしてついにA.L.ラボアジエの新元素観と酸化と還元の理論,G.モンジュがC.L.ベルトレらと共同してこの新理論を冶金に適用し,高炉における還元と吸炭の過程,精錬炉における合金元素,同伴元素,有害元素の酸化除去のプロセスをみごとに解明した。今や炭素,ケイ素,マンガン,リン,硫黄など,鉄中の諸元素の挙動が追究され,技術の向上に決定的に寄与するに至った。…

※「モンジュ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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