モホリ・ナギ(読み)モホリナギ(英語表記)László Moholy-Nagy

百科事典マイペディア 「モホリ・ナギ」の意味・わかりやすい解説

モホリ・ナギ

ハンガリー出身の画家,写真家,造形作家,デザイン教育者。ボルショード生れ。法律を学んだが画家を志し,1920年ベルリンに出て前衛芸術運動に参加し,構成主義的な作品を描く。1921年ころから写真に手を染め,フォトモンタージュフォトグラムなどの新しい視覚言語を創造した。1922年バウハウス設立とともにそのマイスター(教授)となり,写真を中心とした視覚芸術の指導的な地位につく。1928年学長グロピウス辞任にともないバウハウスを去り,ヨーロッパ各地をへて1937年渡米。シカゴに〈ニュー・バウハウス〉を設立した。没後に刊行された著書《運動の視覚》(1947年)は第2次大戦後の美術・デザイン教育に大きな影響を与えた。
→関連項目石元泰博キャラハンチヒョールトバイヤーバザレリ

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「モホリ・ナギ」の意味・わかりやすい解説

モホリ・ナギ
もほりなぎ
László Moholy-Nagy
(1895―1946)

ハンガリー生まれのアメリカの画家、彫刻家、デザイナー。バーチバルショド生まれ。モホリナギはドイツ語読みで、ハンガリー語ではモホリ・ナジ。ブダペスト大学で法律を学んだが、第一次世界大戦で負傷したのがきっかけで絵画に転じ、前衛芸術運動、とくにシュプレマティズム、構成主義の洗礼を受けた。1917年ウィーンに出て、翌年ベルリンに移り、22年のシュトゥルム画廊での展示が注目され、同年グロピウスに推されてバウハウスの教授に迎えられた。以後28年のバウハウス閉鎖まで抽象絵画、彫刻、建築、写真など多岐にわたる創造活動と指導を行い、『絵画・写真・映画』(1925)、『材料から建築へ』(1929)を「バウハウス叢書(そうしょ)」として刊行した。バウハウスを去ってからはベルリン、アムステルダム、ロンドンなどで舞台美術、ポスター、映画などを含む創作活動を行い、37年に渡米。38年ロックフェラー財団の援助を得てシカゴにデザイン研究所を設立、デザイン、ディスプレー、写真をはじめ、キネティック・アートの作品などに多彩な仕事を展開、同地に没した。著書に『ニュー・ビジョン』(1946)、『動きにおけるビジョン』(1947)など。

[高見堅志郎]

『大森忠行訳『ザ・ニューヴィジョン――ある芸術家の要約』(1977・ダヴィッド社)』

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