メンシェビキ(読み)めんしぇびき(英語表記)Меньшевики/Men'sheviki

精選版 日本国語大辞典 「メンシェビキ」の意味・読み・例文・類語

メンシェビキ

(Mjen'šjeviki 少数派の意) 一九〇三年、ロシア社会民主労働党分裂に際して、レーニン派(ボルシェビキ)と対立したマルトフプレハーノフの率いる少数派。厳格な党組織を作ることに反対して、個人的活動自由主張。ソビエト政権成立後に消滅した。

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デジタル大辞泉 「メンシェビキ」の意味・読み・例文・類語

メンシェビキ(〈ロシア〉Men'sheviki)

《少数派の意。「メニシェビキ」とも》ロシア社会民主労働党右派マルトフプレハーノフらに率いられ、1903年の第2回党大会でレーニンらのボリシェビキと対立、決別した。ブルジョア民主主義革命を主張し、十月革命後は反革命側に立った。→ボリシェビキ

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「メンシェビキ」の意味・わかりやすい解説

メンシェビキ
めんしぇびき
Меньшевики/Men'sheviki

ロシア社会民主労働党のなかで、当面する革命をブルジョア革命であると考え、そのために広範な大衆基盤にたつ幅広い活動家を集めた党の建設を目標としたグループ。メンシェビキは少数派の意で、ボリシェビキ(多数派)と対立した。当初、マルトフ、プレハーノフらを理論的指導者とした。1903年のロシア社会民主労働党第2回大会の党人事問題で、レーニン派と対立したマルトフ派が少数派となったため、のちにメンシェビキとよばれるようになった。ボリシェビキとの対立は、組織問題から綱領、戦術問題にまで及び、1906年の統一党大会でも、「1905年革命」の敗北プロレタリアートの孤立化に求め、ブルジョア民主主義派との提携を主張している。第一次世界大戦が始まると、戦争に対する態度の問題で、メンシェビキ内は祖国防衛戦争を支持するプレハーノフ派、反戦国際主義を主張するマルトフらの少数派などに分裂した。1917年の二月革命後は、中央派がSR(エスエル)党とともにソビエト内で多数となり、5月には自由主義者との連立に踏み切って、第二次臨時政府に参加したが、同年の十月革命前後には大衆に対する影響力を失った。メンシェビキは十月革命に反対し、その一部シベリアなどの反ソビエト派政府に参加したが、1921年、メンシェビキの指導するジョージアグルジア)政府の崩壊により、国内での基盤を喪失した。

[藤本和貴夫]

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百科事典マイペディア 「メンシェビキ」の意味・わかりやすい解説

メンシェビキ

ロシア語で少数派の意。ロシア社会民主労働党の一分派。1903年第2回党大会で一分派を形成,ボリシェビキ(多数派)と対立。マルトフプレハーノフらが中心で,ブルジョア民主主義的立場をとったが,1905年第1次ロシア革命後は組織問題で,第1次大戦中は戦争問題で内部分裂。1917年二月革命後一時ソビエトで主導権をとったが十月革命で没落。
→関連項目アクセリロードイスクラコロンタイザスーリチポチョムキン号の反乱ルナチャルスキー

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「メンシェビキ」の意味・わかりやすい解説

メンシェビキ
Men'sheviki; Mensheviks

1903年のロシア社会民主労働党第2回大会で組織論をめぐって党内が2分された際,レーニンの率いるボルシェビキと対立した少数派をいう。指導者は L.マルトフ,G.V.プレハーノフら。メンシェビキは後進国ロシアにおけるきたるべき革命をブルジョア革命と規定し,ブルジョアジーをその主導者と位置づけた。これはブルジョアジーとの協調を重視するもので,武装蜂起やプロレタリア独裁といった革命方式を否認するという意味で反ボルシェビキの立場である。 12年プラハ会議で両派は正式に絶縁した。メンシェビキは 17年の二月革命以後は臨時政府およびその後の A.F.ケレンスキー内閣を支持したが,十月革命では実権をボルシェビキに奪われ,ボルシェビキに合流したトロツキーら一部を除いて他国へ亡命した。

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改訂新版 世界大百科事典 「メンシェビキ」の意味・わかりやすい解説

メンシェビキ
Men'sheviki

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世界大百科事典(旧版)内のメンシェビキの言及

【グルジア】より

…(5)社会主義への道 1892年最初の社会主義グループ〈メサメ・ダシ(第三グループ)〉が結成された。後のザカフカスのメンシェビキ,ボリシェビキの指導的活動家の多くがこの組織から出発した。1902年のバトゥーム・ストライキ,03年のロシア南部のストライキなど労働運動が展開された。…

【ソビエト連邦共産党】より

…その後,ロシア・マルクス主義の父とよばれたプレハーノフらは若手のレーニン,マルトフらとともに新聞《イスクラ》に拠って本格的な革命政党の形成をめざし,1903年の第2回党大会以前から合法マルクス主義や経済主義の各潮流と対立関係にあった。しかし,この大会では党規約第1条をめぐって,西ヨーロッパ型の大衆政党を志向するマルトフと,少数の前衛的革命党観を有するレーニンとの間に対立が生じ,前者を支持する少数派(メンシェビキ)と多数派(ボリシェビキ)との分裂が生じた。その後プレハーノフらがメンシェビキを支持したため,レーニンらは《イスクラ》から離れ,《フペリョードVperyod(〈前進〉の意)》紙を創刊し,独自な潮流としてのボリシェビズムができあがる。…

【ロシア革命】より

…地主たちは一時は領地放棄を考えたが,やがて実力自衛策をとり,全体として右翼化する。 12月2日,ペテルブルグ・ソビエト,農民同盟,社会民主党両派(ボリシェビキとメンシェビキ),エス・エル党,ポーランド社会党の6者が,国庫への納税拒否を呼びかける〈財政宣言〉を発すると,態勢を立て直し弾圧の機をうかがっていた政府は,翌日,ペテルブルグ・ソビエトの代議員全員を逮捕した。12月7日モスクワで始まった大抗議ストに対し,当局は武装自衛隊に攻撃をしかけ,バリケードをつくって抵抗する労働者をペテルブルグとポーランドからの増援軍によって粉砕した。…

【ロシア社会民主労働党】より

…大会には数千名のメンバーをかかえる26組織の代表57名が参加,21日間の日程で綱領,規約,戦術などをイスクラ派優位の中で決定した。しかしブンドと経済主義者は中途で退場し,イスクラ派も党組織問題で,党員を職業革命家に限ろうとするレーニンらボリシェビキ派と大衆的労働者党を主張するマルトフらメンシェビキ派に分裂した。レーニンの《何をなすべきか》(1902)の見解表明以来党内に芽生えた対立がここに公然と衝突したのである。…

※「メンシェビキ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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